「瞳に映るもの2」



エルゼリオは、メルビル城の一室で、
少し身体から力を抜くと、息を深く吸い込んだ。
その様子では、幾分長い話になるだろうと
メルビルには想像できた。


だが、だからといって、聞かないわけにはいかない。


人並みに探究心があれば、隣国であるディム・レイ対サザランドにおける
謎の人物、あるいは英雄ともいえる男のことを
知りたいと思うに違いない。


勿論、メルビルという歴戦の勇者であっても、
である。

エルゼリオは、一向に引く気のないメルビルと、
彼の執事であるフォーンデルを交互に見つめて、
ふと笑みを漏らしてから、話し始めた。







その日、五年前のある一日に、
自室の窓からさす、朝の光の中で
フェイティシアは心配そうに、エルゼリオを見つめていた。

「・・・どうぞお気をつけてください。エルゼリオさま。」

「わかってるよ。そんなことは言われなくても。」

幼さが滲んでいる言葉と表情、しかし身体はもう幾分
大人びた青年の香気を漂わせている青年は
少し棘を含んで不機嫌さをあらわにしている。

エルゼリオは、窓の側の丸テーブルに肘をつき、
窓の外を見つめていた。

鳥が飛んでいたが、今ここで
手元にあるフォークを投げて、失墜させてやろうか、
などと思えるほど、不快な心境である。

「あーあ。なんで突然言い出すかな。」

と、彼はとげとげしいため息を吐くように、
愚痴を吐き出した。


つまり、今日がディム・レイへの出発の日である。


そんな若い主人に、召使いとしての仕事をこなす
フェイティシアは、微笑んだ。
そして、少しだけ俯いて、何かを噛んで飲み下すように
意志を固めて声をかけた。


「きっと何かお考えあってのことでしょう。
・・・エルゼリオさま。」

ふと、フェイティシアの言葉の色が変わった気がして、
エルゼリオは「うん?」と、返事をした。


相変わらず、綺麗で心地よい声だとおもう。


すると、テーブルの上に指輪がひとつ、置かれた。

エルゼリオは思わず「何?」と問うた。


答えはあらかた検討がついている。
おそらく、召使いとしては過ぎるほどの
おせっかいをするときの声だ。


案の定、フェイティシアは微笑んで、
少し困ったように切り出した。


「私が、こんなものをお渡しするのも滑稽かと
思われると思うのです…けれど・・・お渡しせずにはいられません。
どうぞ、持っていらしてください。」


フェイティシアが、いつも身に着けている指輪を、
エルゼリオはいつも意識していた。



言葉にはしていないが、彼は彼女を愛していた。



ただ、召使いに恋をする自分が、
まだ受け入れられていなかったのである。




言葉に出来るほど、強い決意はなかった。
あるいは、決意は強かったが言葉にはできなかった、
といってもいい。

だから、些細な出来事で彼女を困らせてみたり、
曖昧な言葉で自分の気持ちを表していたりした。

けれども、彼女がいつも指にはめている指輪は
一体どういうものなのか、くらいは当然気になりすぎる事柄だった。



誰かから貰ったか、などを考えると、
どうしようもない不安に駆られたりした。



「・・・それ、なんでいつも身に着けてたの?」

と、エルゼリオは、勤めて冷静に彼女を見つめて問うた。

フェイティシアは少しきょとんとして、

「これは、私が幼いころから両親に与えられていたものです。
なんでも、サハシュ信仰ではお守りになるものだそうです。」

と返答した。

「ふーん。そうなんだ。」

と、つぶやいてエルゼリオは指輪を小指にはめた。
少し小さめだったそれは、純度の高い金と、
細やかな装飾に飾られて、小さな文字が刻まれてあった。

だが、読めない。

大方、サハシュ信仰の古代神聖文字か何かだろうと、
エルゼリオはたいして、気にも留めずにいた。


サハシュ信仰は、海の向こうに位置するロアーダからの信仰である。


ディム・レイとフィオナ山脈はほぼ、完全にこの信仰の恩恵を受けており、
太古から、現在エルゼリオが治めている領地を守り、
耕してきた農民たちも、このサハシュ信仰を受け継いでいる。

ミルティリア国の一貴族であった、エルゼリオの祖先は、
この領地を治めるにあたり、信仰の断絶を定める法をつくらなかった。

しかし、そこには祖先と領地に住まう人々との駆け引きがあった。

すなわち、フェイティシア、あるいはロイドの一族は、
信仰を守るため、エルゼリオの一族に「永遠の服従」を誓い、
未来という時を生贄として差し出したのである。

「・・・もらっとく。」

エルゼリオはたいして気にも留めていない表情だったが、
内心ひどく嬉しく思っていた。
もしかしたら、この指輪は誰か

「彼女の想い人」
「彼女への想い人」

からの贈り物ではないか、などと疑心暗鬼になったりしていたのである。

フェイティシアはエルゼリオの指に収まった指輪を見つめると、
満足したように微笑んで、エルゼリオの旅の支度を
あわただしく始めた。

指輪を渡す前よりも、生き生きとしながら・・・。

エルゼリオはそんな彼女を横目でそっと眺め、
たわいもないことを話した。

「そろそろ、農地の作物もいい感じに実る頃だね。」

すると、フェイティシアは楽しげに答えた。

「はい。今年は領地の民も、張り切って収穫に望みます。
特に大きな気候の変化もなかったので、豊作ですよ。」

農地の話題になると、フェイティシアの声が軽く踊っているように
高揚するのを、エルゼリオは知っていた。

本来貴族が知らない、農地での仕事も、フェイティシアの影響と
子供の頃からの探究心で、どんなものであるのか、
彼は知っている。

たとえ、一つところに永住するとしても、
その場所で多くのものを生み出し、自然に抗い、養い、

生きるという「誇り」を。


それを教えてくれたのが、他ならぬ彼女であることを
彼はいつも強く意識していた。

指輪からはかすかに、フェイティシアのぬくもりを感じる。
こんなささいなことでも、小さな繋がりを持てたことが、
酷く嬉しかったことを、エルゼリオは今でも覚えている。


後に、この指輪に励まされ、助けられたことも。


日が昇る前に、エルゼリオはあわただしく領地を出発した。

それが、長い旅の始まりになるとも知らずに・・・。









「友人は・・・まあ然るべき家族の「脅し」によって、
当地の戦場に駆り出されまして。

それがもう、父親も母親も変わり者で有名でしたから、
例えば友人が、他国の国民として偽の地位と名を名乗ることすら、
推奨したほどでした。
それに対し、何かごちゃごちゃ言おうものなら、
「そんな法は破るためにあるものだ」
などと、日ごろから言っているくらいでした。」









「遊びに来たからには、土産の一つも持ってくるものだろう。
なに?持ってきていない??」

突然大声を出したかとおもうと、
ぶあーっと盛大なため息をついて、肩を落としたエルゼリオの父、
オーデリオは、しばし遠くを見つめていた。

その姿は、どこか老いぼれた犬に似た哀愁を感じさせる。

だが、すぐに気分を入れ替えたオーデリオは、
両手を腰にあて、威風堂々と窓の外へ
無駄な権威を振りまいて見せているようだった。

姿が美しいとは言わない。
だが、背筋をのばした父の筋肉質の身体は、
衣服の上から見ただけでも解かるほどである。

ミルティリアに比べれば、比較的ごつごつした内装の部屋で、
窓の側に立つ父は、一瞬肖像画のようでもあった。

一向に老いを寄せ付けない父に、
母はとなりで、何事もないようにカップへお茶を注いでいた。
いつも微笑んでいるので、腹の底が見えない母は、
相も変らぬ美しい笑顔で、父を脅せる唯一の存在である。



深い沈黙があった。



けれど、時はすでに夜遅く、二日かけてディム・レイの城に移動してきた
エルゼリオには、微かに疲労の影が見られた。

こんなとき、フェイティシアがそばにいたら・・・

と、ふとその面影を懐かしく感じた。
まだ二日しか経っていないというのに、フェイティシアが心配でたまらなかった。


誰かに誘われたりしてないだろうな・・・。

などと、想像してしまう。


しかし、想像の半ばで現状に気づくと、
父のあまりの沈黙に、恐怖を覚えた。

エルゼリオは、こういうとき次に来る言葉を知っている。


突然、意味の解からない難題をふっかけてくるのだ。


案の定、一体どういう神経をしているのか
オーデリオは顎をひとなですると、鋭い眼光を息子に向けた。
なぜか、楽しい遊びを考えついた子供のように、
表情が輝いている。

エルゼリオは一抹の不安を覚えた。
そして、案の定彼のカンは当たったのである。





「ならば戦の一つでも出て、勲章の一つもとってこい。
それが土産だ。わかったな。」





そして、有無を言わさず肩を叩いた。


しばらく呆然としたエルゼリオは、ため息を一つつくと
にこにこと微笑みうなづく母に、

「じゃあ、いきます。」

と一言答えただけだった。









「正直、友人には大変迷惑といいますか、自国への裏切り行為といいますか、
仮にも領地をいただいて貴族を名乗っている人間が、
他国の戦に干渉するということは、あまり無いことなのです。
例えば領地を他国に持っている貴族であれば、
あるいはありうるでしょう。
しかし 彼はまだ、ディム・レイに領地を持ってはいませんでした。

傭兵など金で雇われる存在でもない貴族は、常に国に尽くす存在ですからね。」

「しかし、正統な手続きをされれば良かったのでは?」
と、メルビルは言いかけて口をつくんだ。

本来、他国に父親がいれば、父の計らいでディム・レイの国王に
謁見を頼み紹介することもできるはずなのである。

・・・あのオーデリオがそんなことで満足する訳はない。

妙な説得力に打ち負かされたメルビルの瞼の裏で、
万遍の笑みで、敵をなぎ倒すオーデリオがちらついていた。

思わず脱力してため息をついた老子爵に、エルゼリオは
悟ると笑いをかみ殺した。

父はどうやら、長年の友人兼ライバルであっても、
強烈な個性を振りまいていたようだ。

「けれども、一度戦場には行かなければならないと、彼は思っていましてね。」

と、一言付け加えると、メルビルの側に控えていたフォーンデルの目が
一瞬輝いた。

面白い反応をする子爵執事を横目に、エルゼリオは話をつづけた。

「いわゆる、「人生における賭け」の時期か、

とも思ったわけです。

生きるか死ぬか。

それは誰にもわからない。



けれどもし、生き残ることができたのなら

そのときは、必ず想い人に告白しよう。

なんて妙な制約を、自分に課したものです。



ただ、彼の想像は生ぬるかった、とだけ言っておきましょう。
自由というものには、さまざまな範囲があるものです。

むしろ、「自由すら制限である」と言っても、けして過言ではない。

与えられることが、必ずしも全ての豊饒に繋がるとは限らないのです。
過ぎたる豊饒は、腐敗をもたらします。

そして、人間には限界がある。
まあ、そう考えているだけ、といわれればそれまでですが。」









正直に告白すれば、最初の1年ほど平坦で、一定の食料と、統一された安定、
変化のない時期はなかった。

身分を偽って、ディム・レイの軍隊に配属する手続きはとれた。
だが、彼には今まで何度も重ねてきた訓練があり、
技術があった。
お陰でやすやすと、軍でも一定の地位につくことができた。
それが、はたして彼にとって良かったのか悪かったのか。

今でも解からない。



ただ、「妙な思惑」を察知するには十分すぎる環境だった、
と言っていい。



そもそもサザランド侵攻は、ディム・レイにとって
南方他国への脅しのようなものだった。

サザランドという極北の地は、雪と凍土の地であり、
多くの森林、そして鉱山が、唯一の資源といってもいい。

だが、鉱山については可能性であり、当地に赴き
詳しい地理を知るものも少ないのである。
勿論、現地人も少数である。
そして、さまざまな民族に分かれているらしい、
といった曖昧な情報しかない。



エルゼリオが配属された軍は、サザランドに最も近く、
ロアーダとの交易も盛んな、アドレ伯爵軍であった。

領地を所有する貴族達が、どの時代においても国王に従順だったならば、
世界は幾度の戦を迎えることなく、進んだだろう。

だが、貴族も人である。

アドレ伯爵は、鋭く切れ長の瞳の持ち主で、
無口だが、計略は怠らない存在だった。
勿論、王都から幾分離れている領地を頂き、
ある種「細かいところは見えにくい」存在であった。



ディム・レイ国王からしてみれば、少々危険因子を含んだ存在である。



そもそも戦の始まった原因が、曖昧であった。

サザランド侵攻は、太古から幾度となくディム・レイが仕掛けてきたが、
今回はサザランドに先手を打たれたとの情報もある。

被害を受けたのは、アドレ伯爵領であった。

境界となっていた川から、サザランドの土着民達が領地内に侵入し、
一つの村を攻撃したという。

現在その地は、見まごうことなく戦場と化していた。
エルゼリオは、最初に足を踏み入れた時の、
「戦地」という場所の強烈なイメージを
今でも心にしまっている。


人一人住まない廃墟と化した村の屋根には、
アドレ伯爵領の旗が、眼に染みる赤をはためかせていた。
曇天はこの地特有の気候であり、
鋭い寒気を含んだ風が、北から吹き込む。

砂埃に晒された、ゆるく腐敗した死体が、あちこちに散在していた。
黄色い砂埃が、細かい粉特有の人懐こさで
身体に付着してくる。

おびただしい血液は、土に還元し、
何故か不気味な清涼感を感じるのは、
風に空気が流されて
死の淀みが消されているからだ、と
エルゼリオはその地を踏みつつ、
目の前に襲い掛かってくる敵を殺しながらふと、
心の隅で感じていた。

村落から少し離れた場所に位置する森をぬけると、
前線部隊が待機している。
戦況はいまのところ、何故かアドレ伯爵の分が悪い。

森という場所を戦場にすると、恐ろしく相手方は強いのである。

サザランドはいわば、「森の国」でもあった。
多くの森林と、山々が存在している。

しかも、未知なる敵である。

妙な魔術を使うだとか、そんな噂もある。

一体サザランドの人口はいかほどなのか、
武器は多いのか、戦力はどれほどなのか、
全てが未知といえるはずだった。
少なくとも、ディム・レイ国王はその情報を知らずにいる。

アドレ伯爵は、おそらくもう少し色をつけたくらいには、
詳しい情報を知っているだろう。
その「色」の中に、素晴らしい宝石が眠っている可能性もある。
そして、アドレはそれを知っている、とすれば、
色々な意味でさらに国王にとっては、危険が増す存在といえた。









前線部隊の一人として配属されていたエルゼリオは、
一年経ったという実感もあまりなく、テントの中で湯を啜っていた。

足を焚き火に近づけて、温かさを少しでも身体に溜めようと考える。

同様のことを考えた兵士たち二名も、足を近づけて焚き火を囲んでいた。

男三人が、こぞって薪を囲んでいる様子は、少しだけ寂しい。
無論華はないはずだが、このテントを占領した三人のうち
少なくとも二人は、戦場で死を迎えるには惜しい美丈夫である。

ばたばたと、テントの布がはためいている音に眠りを妨げられることも、
エルゼリオはこの地に赴いて、すぐに慣れた。


「戦はいつごろ終わるかね。」

と、農民出の青年マルトは頭を掻いて尋ねた。
彼は、がっしりとした体格の気のいい青年で、

もしかしたら若かりし父も、こんな感じだったかもしれない

と思わせるほど似たような性格をしていた。
ただ、戦力はとなると、大雑把過ぎて致命傷を負わせる確率が
ひどく少ない。
あるいは、生来の優しさが歯止めをかけている、といってもよかった。

「オラあ、早く家ん帰って、嫁貰って農地を耕さねえと。
病もちのお袋も、冬んなりゃひどくなる。」

「冬には戦を止めるでしょうね。」

と、隣で眼鏡を指でつまみ持ち上げた青年、
アーサーが言った。

彼は、このテントに集まる者たちの指揮官だった。
と言っても、アドレ伯爵直属の指揮官ではない。
国王軍から転属し、アドレ領から召集された
「農民たちをまとめる世話係」のようなものだった。

時には、日ごろから戦に向けた訓練を行わない農民たちに、
武器を使わせ指導する。
的確な判断と愛想の良い態度が、貴族のわりに農民たちから
多大な評価を与えられていた。

だが、この青年は一度戦地に立つと人が変わる。

なぎ倒す人の数が違うのである。
彼曰く

「眼鏡を外すから丁度よいんでしょう」

だそうである。

何が丁度よいかは聞きたくないが、
いくら人間が物や、薄ぼんやりした何かに見えたとして、
人間を斬るという本質が変わるわけではない。
むしろ、味方も誤って斬ってしまうかもしれない。

しかし、敵味方の判別をつけ、その技の切れと、
無駄の無い動きはまさに芸術といえた。

エルゼリオも時たま、剣の技の教えを請うほどだ。


「もう少し殺せば、アドレ伯爵も満足するでしょう。」

「毒を吐くね。」

と、エルゼリオがつぶやいて目だけ動かすと、
視線のあった眼鏡青年、アーサーはにこ、と微笑んだ。


小奇麗な顔をした男である。


そして、毎日微笑みを絶やさない。

一日続けただけでも、頬が引きつりそうだ、と
エルゼリオはいつも、
興味深げに彼の顔を眺めていた。


出会った当初そんな妙な優男に、エルゼリオはどちらかというと
近づくでもなく、離れるでもない位置で接していた。


猫のように、相手の距離を嗅ぎつけて測りかねている。


逆にアーサーはというと、エルゼリオを「娯楽」的な存在として位置づけていた。

勿論、エルゼリオの容姿の華やかさは、
戦地では群を抜く。
立ち居振る舞いも、妙に様がいい。
言葉遣いも、不快にならないくらいは丁寧である。

ただ、地位はどうだと推測すると、幾分未知の要素が多いと見ていた。

農民にも近い。
妙にディム・レイ農民の作物に対し
興味津々であるのを、アーサーは横で聞いていたためだ。
振る舞いが洗練されているため、農民ではないこともわかる。

では、「旅人」あたりではどうだろう、などと
妙な妥協をした。
「吟遊詩人」?
などと想像力で遊んでもいた。
ともかくも、あまり大した存在であると認識してはいなかったのである。


機会は唐突に訪れた。







アーサーを慕って止まずにいた、一人の気のいい農民が、
兵士として戦地に立ったとき、彼の一歩遅れの援護の甲斐なく、
目の前で命を落としたのである。

彼はその直後、見境無く敵をなぎ倒し、
軍は圧倒的勝利を収めてしまったが、
見方兵士達には、アーサーとの間に
妙な距離が生まれてしまった。

「畏怖」である。

このときほど、アーサーは自分の行動を恥じたことは無かった。
お陰で、人を和ませ農民達への貴族に対する偏見を
壊すくらいの柔和さ、
彼のもつ位置が、この「畏怖」によって、
農民兵士達の心の中から、失われつつある形になったのである。

駐屯地に帰るとすぐに、エルゼリオは
アーサーに突然殴りかかった。

理由は「一軍隊の統率を担う存在が、個人的な行動を行うと隊が乱れる」
ということだった。

…最もな理由である。

勝利を収めたものの、正気を失ったアーサーの行動により、
一部の兵士達が混乱したという現実もある。

そのために、彼の補佐役は動揺し使い物にならず、
指揮を仰ぐ者がいなくなったため、農民兵は慌てた。
そのなかで、何故かエルゼリオがもっぱら
後任的役割を果たさねばらなかったのである。


だが、この喧嘩に対し、多くの兵士達はアーサーに味方をした。


畏怖に怯えた農民兵士達も、犠牲になった兵士を守りきれなかった
上司としてのアーサーの怒りが、
強攻を呼んだという事実を、思い出させたからである。

そこを、農民代表的存在であったマルトが場を治めた。

「まあ、互いに言ってるこた正しいさ。だけれども、とりあえず
この場はおさめてくれや。仮にも、一時の仲、
今生の別れを見取る、同じ軍の仲間だろうに。」



その言葉から数時間後、あらかた兵士達の怒気がおさまったころ、
真夜中の丘の上に立ち、一人でぼんやりと戦地を眺めるエルゼリオの側に
アーサーは近づいていった。


言葉を交わさずとも互いに、先ほどのことは何故か分かり合っている。

「・・・嫌な役回りをさせたものですね。
ツケておいてください。倍にして払いますよ。」

すると、とぼけた顔をしてエルゼリオは
「何のことだか?」
と、あくまでシラを切った。

「ご冗談を。君は、兵士たちの感情のことを、よくわかっている。」

すると、妙に印象に残る微笑で、エルゼリオは予期せぬ言葉を口にした。
アーサーは、このとき初めて背筋が凍ったと、
後にエルゼリオに告白することになる。
曰く、


「あんたはいつでも『罪人』らしいね。」


そして、呆然としているアーサーにもう一言付け加えた。



「しかももう、『檻に入っている』。」



・・・だから、もう親友になるしかない。

というのが、このときアーサーの出した結論だった。


頬をつたう冷や汗を感じつつ、いつもの笑顔で
しばし興味深げに、エルゼリオを見つめていた。

満天の星が、恐ろしいほど澄んで、
目の前に立つ男の背後に、輝いている。
彼にも、また星にもアーサーは、自分が見透かされていると
心深く感じていた。

「どこまで・・・わかっているんですか?」

と、弱気な言葉を口にすると、
意外そうに微笑んで、エルゼリオは

「全く何も。」

と答えただけだった。

「僕は・・・」とアーサーはちょっと微笑んで
「吟遊詩人だったら、よかったのにと、思っていたのですが?」

というと、妙な顔をした瞬間に大爆笑されて、
恥ずかしそうにアーサーもつられて笑った。

そして、少し間をおいたあと、アーサーはこう付け加えた。

「…君を買いかぶっていたようです。」

「殺したそうな眼をしてるね。」

「いいえ。」

と、にこやかに微笑むと

「まだ。時と場合により。」

と答えた。

「なら、そのときにでも、ツケを払ってもらおうかな。」

「いいでしょう。」


そして、妙な契約兼親友関係が結ばれた横で、
ひょっこりマルトが、一部始終を聞いていたように
現れたのである。

この優しげな農民兵もまた、先ほどのことを薄々感じていた一人だった。

しばらく互いに話し合ってから、
駐屯地へ戻る途中、
いつもの優しげな顔で、アーサーはエルゼリオに尋ねた。

「で、なぜ殴ったんですか?」

互いに解かりきっている答えを、あえてもう一度
アーサーは尋ねてみた。

エルゼリオは少しだけ振り向くと、
夜風にさらわれそうな微かな笑みとともに
こう言った。

「いつも笑ってるから、殴ったら表情が変わるかと思ったんだよ。」

その答えに、アーサーは何かを噛み下すように微笑んで、
改めてこの妙な男を興味深く見つめた。

「かなり思い切り殴りましたね?」

微笑みながら言うものだから、余計に底知れぬ恐怖を感じる。
エルゼリオは、何か失敗をして舌を出す子供のように
ちょっとおどけた表情をしてみせた。

「表情を変えるんじゃなくて、顔の形を変えるつもりだったんでねえか?」

と、マルトが至極真面目に答えると、
アーサーとエルゼリオは顔を見合わせて、
「違いない」といいながら笑いあった。


その三人は、現在でも妙な連帯感と結束がある。







そんなことを思い出しながら、
アーサーは古びて黄ばんだ紙を取り出し、過去に書いたらしい
自分の筆跡を追った。

「国王側には戦の出来る財力が、今のところなくてね。
援助はしばらくして打ち切られるでしょう。

まだ、国が酷い手傷を負わされたというほどではないし、
サザランドの人間が、ディム・レイを侵略できるとは思えない。

アドレ伯爵は商人と組んでいるみたいですしね。
もう少し道楽で戦をするつもりかもしれない。

ちなみに今日、会合がここで行われるらしいですよ。」

「へえ。」

と、口を動かしたままエルゼリオは眠気に耐え切れないように、
あくびをした。
心の底では、全く違うことを考えている。

たとえば、その会合を聞いてみたい、というような欲望だ。

アーサーはそんなエルゼリオの表情を、ただ冷静に眺めていた。
そして、ふとこんなことを漏らした。

「まあ、聞いてみるのも良いかもしれませんね。
正直、何故こんな戦になったのか、原因が知りたいですし。」

「じゃあ、オレも参加しようかなあ…お偉いさんの話を聞けるってのも、
なにかと後々参考になるかもしれねえし。」

すると、眉をひそめてエルゼリオが不服そうに、

「ちょっとまて!オレはまだ何も言ってないぞ。」

と慌てて答えたので、妙に二人の笑いを誘った。

「君の真似ですよ。なかなか、悪くは無いでしょう。」

むっとしながら、湯をすすっているエルゼリオは、
それでもアーサーを見ていたが、
ふと、一瞬に見せた彼の表情に
何かを感じて銀製のカップを床に置いた。

「じゃあ、お忍びといくか。しかも味方の大将の。」

相も変らぬ子供っぽい微笑の裏で、エルゼリオは何か、
特別な何かが起こるであろうことを
予感していた。




つづく




へつづく


topへ


↑小説投票



(こちらは週1回)


ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。