「収穫祭の夜に3」










冬が近いとなると、夜も一層空気の質を硬くする。


夜の闇底から湧き上がり、
すべてを停止させようとする

きりりとした冷たい空気。


だが、それに反して屋敷の中では、
あらかじめ焚かれていた暖炉の火によって、
締め付けられていた体を
ゆるやかに穏やかに包んでいく。




寒さで強張った頬や口周りも、
エルゼリオには大したことに感じられなかったのは、
戦場の寒さに耐えたためである。



「馬に跨り、歩を早めさせる前に、
風を切ることになるだろう。」


そう考えて、
フェイティシアの震える肩にそっと掛けた
エルゼリオの上着には、
かすかに、
彼女のあまやかな香りがしみついてた。



屋敷に入る前に、フェイティシアが小さく
「ありがとうございました。」と
声をかけた。



本当に小さく、寒さで震えた唇が、
妙な不安や、
心配をいり混ぜた感情を呼び起こてしまう。





エルゼリオは早急に、
屋敷のドアの前で
出迎えている召使いにドアを開かせていた。


決して珍しい組み合わせではない、
フェイティシアとエルゼリオが、
深夜に帰ってくるという事態を、
奇妙に思う召使いは、
あまりいない。


フェイティシアほど、ある種の目立つ存在の動向は、
逐一召使いたちのゴシップの中に含まれていた。



むしろ、いかにも召使いの鏡である
フェイティシアを疑うよりは、
エルゼリオの乳母を慕う
特別な過保護ぶりのほうが、
強調されたかもしれない。


だが、出迎えた召使いの青年も、
エルゼリオを疑う気持ちはない。


それ以上に、フェイティシアの存在が
彼の目にはまぶし過ぎている。



主人の過保護も当然、といった視点に、
されてしまう。



「大丈夫ですか?フェイティシア様」

と、ドアマンを勤めた青年が、
彼女の顔色の悪さに、おもわず声をかけた。

「ええ。夜はもう少し、寒いですね。」

彼女は答え、エルゼリオがそばで、

「フェイティシア、早く入りなよ。
ルディも、はやく。」

と、青年を名前で呼び手招きをした。
ルディはやはり、主人に名前を覚えられていたのが、
意外に思い嬉しかったのと、
フェイティシアの美しく澄んだ声音の返答に、
心の中で湧き出る嬉しさを、
ちょっとくすぐったそうな表情にして、
屋敷へと足を踏み入れる。



中へ入ると、
豪奢とは言えないが、
極力少ない蝋に火をともしても、
最大限に光を際立たせるデザインのシャンデリアが、
三人を出迎えていた。


あたたかな血が通ったような空気の軽さに、
フェイティシアはどうやら

思わず安堵の息をもらす。


本来召使い達の出迎えも、
決まった仕事出の時より少ないはずなのは、
夜一定時間になれば、
特に仕事のない者には睡眠を、
というこの領地の貴族ならではの、
やり方である。


朝早いものも、出迎えには来ない。


出迎え専用の召使い、
などというものも存在しているのを、
エルゼリオは王都で見てはいるが、
少し奇妙だという違和感がある。


「おかえりなさいませ。」
と頭を下げた召使い達は、
麗人達の姿にほっとする。



いまや、この二人の組み合わせは、
「毎日見慣れた当然のもの」
という感覚で捉えられてはいない。

むしろ、それ以上の
「毎日見慣れて当然であることを誇りに思う」
という感覚、あるいは癒しに近い。







しかし、美しいものに対する召使い達、
特に若い女性達の鋭さは、
破壊的である。






二人の後ろにいるルディを、
一人の召使いが、腕を掴んでひっぱり、
整列した召使い達のなかへと、
早々に入り込ませた。

どうやら、彼等の視界の中で、
エルゼリオとフェイティシアの組み合わせ以外に
「見合わない」と判断した人物を、
排除する暗躍であった。





さながら、「歩く芸術作品」の扱いである。




深夜に近くなったために、
出迎えに来る召使いが減らないのは、
この妙な崇拝感のためだろう。




若い召使い達は…


「フェイティシア様、収穫祭って素敵でした?」
「フェイティシア様の作られたレース、私欲しかったのに…。
ほんとにあげてしまわれたのですか?」
「農地の土が服についてしまわれたなら、
すぐ綺麗にしますわ!」
「町の人が、妙にからんだりしませんでした?」
「ヘンな男の人から、ダンスに誘われたりしませんでした?」


と質問攻めである。



この異常なまでに、嬉々たる笑顔の召使い達のパワーは、
それこそフェイティシアに禍根として
向けられることの無いことが不思議なくらいだ。


だが、それもフェイティシアの階級が、
丁度良い具合にバランスを取っているといえた。





「貴族に近いが、貴族以外の下級階級の
人間達よりは高い地位にある、
執事の叔父と領地を守る、
昔からの伝統を引きずった地位」







これも、美的感覚以外で行動している
ある種の人種にとっては、
大切なことらしかった。


当然ながらエルゼリオにも、

「収穫祭ってダンスするんですの?」
「私も子供の頃行ってましたの。どうでした?」
「エルゼリオ様もダンスされましたの?」
「どんなお相手とされましたの?」
「さきほどこちらへ送られてきた方も、
会話されたのですか?」

と、さえずる。



そして目ざとい召使いの一人が、



「そのお口のはしのお怪我は大丈夫ですの?」



と聞くと、エルゼリオは笑って



「噛み付かれたんだ。」



と愛嬌たっぷりに答えた。
誰に、とは言わない。




が、
きゃー、と歓声があがり、
「こらっ、持ち場に戻りなさい!
さもなくばさっさと眠りなさい!!」
と、
早速召使いの最年長者の一人である、
ナイルの一括が入った。





ばたばたと無言であわて始める様は、
その間に階段を上って、
上から様子を眺めたエルゼリオには、
小動物たちを突然驚かせ、
無意味に走りまわせたような様子に見えた。

「すまない、助かったよナイル。」

とエルゼリオが声をかけると、
鼻息をふんっと噴出して、腰に手を当てた彼女は




「それで?どうなんですの?」





と声をかけた。

二階の廊下を歩きながら、エルゼリオとフェイティシアは、
ナイルの質問に「?」である。


「なにが?」
とエルゼリオが問うと、ナイルは

「決まってますわ。
エルゼリオ様がフェイティシアに噛み付いたかどうか、
を聞いてるんですの。」

と極めて冷たく、どこかずれた、
しかしまったく真実に近い問いをしたのだった。



「噛み付かれたのは、俺のほうなんだけど?」
と答えると、
「あら、私聞き間違えたかしら。」
と白々しい。



エルゼリオはナイルから目をそらしながら、
彼女の鋭さにはいつもひやひやしている。



ナイルは相変わらず、フェイティシアの前では、

「フェイティシア。わたしに仕事がなかったら、
ご主人様にかわってむかえに行きましたのよ。」

と、
すばらしく過保護な女性のような、
別人として振舞うのだった。



早速エルゼリオも

「忙しい召使いに、わざわざ迎えには「いかせない」よ。」

とことさら、「いかせない」を強調してみせる。


水面下のバトルに挟まれたフェイティシアは、
どうしようかしらとおろおろしながら、
早々にエルゼリオの自室へ向かった。




結局いつも、戦いに終止符が打たれることは無く、
エルゼリオはナイルの、
「とっつきにくい感じが苦手だが、
あのはっきりと召使い達を指示する、
自分が悪者になっても構わない潔さ」を気に入っている。




ナイルもまた、エルゼリオの「悪ガキっぽさに、
あるいは極度にフェイティシアに執着していること」に、
閉口しているものの、

(自分もまたそのうちの一人であることに、
全く気づいていないにしても)

どこから知ったのか、戦地から帰ってきてからは、
ことさらにエルゼリオの「武術と培ったもの」を、
評価しているらしかった。






しかし、エルゼリオの自室手前にくると、
ナイルは小さく「ちっ」と舌打ちをした。

逆にエルゼリオは「ふふん」と、
少しばかり偉そうである。






召使い養育係兼、清掃担当のナイルは、
エルゼリオの自室には、
清掃時間か、
エルゼリオ自身か、
あるいは執事が望まない限り、
入室を禁じられているのである。


口惜しそうな表情で、ナイルは



「では、おやすみなさいませ。
フェイティシアも、隣の人にはかまわないで、
早く眠って、よく疲れをとってね。」


と、どちらが主人なのかわからない挨拶をしてから、
去っていった。



フェイティシアは「はい。おやすみなさい。」
と丁寧に答える。
エルゼリオはどうやら、
一難去ったか…とため息をつきそうになり、
再び襲い来る災難のことを思った。







フェイティシアは、その災難を
予期していたのか、
あるいはいないのか、
潔くエルゼリオのために、彼の自室の扉を開いていた。











部屋へ一歩足を踏み入れると、

ストーブの熱で、体がほんのり心地よく感じられる。



「おかえりなさいませ、エルゼリオ様。」
「ん。」



待ち伏せていたかのように、
執事は無表情で、部屋のソファーのそばに立っていた。




執事の語尾にじんわり滲んでいる怒りを、
エルゼリオは珍しくひやりと感じる。



勿論、自分が叱られるという、
ちょっとした子供のときに感じるような罪悪感も、ある。

勿論、してやったりといったいたずらに成功したときの、
満足感も・・・。




けれどもそれ以前に、
執事の前で深々と頭を下げているフェイティシアに、
彼はつい、彼女の後ろから


「俺のせいだから。」


と付け加えた。




エルゼリオ自身が彼女を叱ることは、
ある意味において、

「彼自身が引き受けたいくらい楽しい企み」
だが、

自分以外の人間に、彼女を叱らせるくらいなら、
自分が叱られたほうがまたいい」。




しかし、執事は眉間にしわを寄せたまま、
その言葉は聞きませんでしたというように、

首を横に振る。



さすがにここは無敵の砦。


執事の規則には従うが吉というのが、
エルゼリオの経験から学んだ教訓だった。


しかし、それを破ってしまったからには、
どうにかせねばなるまい。




しかも、フェイティシア、である。




彼女は頭を垂れたまま、
眼をつぶって、両手を前で握り締めていた。


かすかに震えているようでもある。


そういうところを彼は、可愛いらしいと思うのだが、
たとえ姪であっても、鋼鉄の執事の信条とやらには、
全く訴えないらしかった。



じろりと執事の眼球だけが動いて、
フェイティシアを視ると、ため息をつく。




「フェイティシア。お前はもう子供ではない。
いいか。お前が街へ行くことはかまわない。

だが、エルゼリオ様を妙なことには巻き込んではならない。」


「はい。」



フェイティシアは小鳥がか細く鳴くような、
悲しげな声で答えた。

誰でも助けたくなるような、
憐憫極まりない声である。


おそらく先ほどの祭りにいた
人々が聞いたなら、すぐさま救助隊を結成して、
一挙に執事を攻めたてただろう。



当然のことながら、エルゼリオも加勢に加わったはずである。



救助隊は居ないものの、
エルゼリオは執事とフェイティシアの
ぴりぴりとした空気の中に
ためらいなく割って入った。



「待った。妙なことって、なにもしてないだろ。」

「そうですか?その口の端はどうされたのです。」



「・・・これ?」




エルゼリオは鏡を見て、少し紫帯びている皮膚に注目した。

そういえば殴られたんだと、今思い出した。


痛みは消えていたし、血液独特の金臭い味も、
もう口の中にはない。




「殴られただけだよ。」

「エルゼリオ様。」



呆れたような声を出す執事に、
エルゼリオはちょっと笑って見せた。




こんなことでいちいち驚いていたら、
戦場では錯乱するだろう。



しかしそこで執事は、

「フェイティシア、薬を取ってくるように。」

とエルゼリオには嬉しい命令を下し、

フェイティシアは命令されるまでもなく、
塗り薬を浴室の所定の棚から取り出し、
エプロンの両端を両手でもって袋状にすると、
そのなかに溜め込んだ幾種類かをきっちり用意していた。




それよりも、執事とは話しておきたいことがある。



エプロンからソファーの前にあるテーブルに
薬壷をうつして、
どの薬を処方しようか、少し悩んでいる彼女にエルゼリオは、

「書斎からあの街の書類を持ってきてくれないか。
机の右端に束になっている中にあるはずだから。」


と優しく声をかけた。



フェイティシアは戸惑ったが、
軽く会釈をして、エルゼリオの書斎へ向かう。



さて、ここからである。




「あのレデッセの街は、確かこの前路上の整備を
頼む書類と資金をだしたはずだが?

なのに道が補正されてなかったぞ。馬車に乗った子供や、
体の弱そうな老人方が、揺れでつらそうにしているのは
領主としては忍びない。

妙な奴等も増えてる。密入国者なんて言葉も、
民衆から飛び出した。


港の管理は大丈夫か?」


そこへ、書類を抱えたフェイティシアが、

的確にその街の路上整備に関する書類を渡した。



「ほら、これは二ヶ月前に完了した
路上整備に関する書類だ。領収書もある。


この資金で足りないとは思えない。」




「確かな職人を雇ったと、町長とも確認をいたしましたが・・・。」

「そうか。別な場所の羽振りはよさそうだったがなあ。
例えば、新しく町に出来た画廊。あれには驚きだったな。
いつから出来ていたかは知らないが、
ロアーダ風だったな。描き方が。

町長の肖像画が、店のウインドーに飾られてたぞ。

全く、この領地は俺の領地なんだから、
本来俺の肖像画を飾るべきだと思うけどなあ。

それにこの領地での商売の許可は、
俺しか出せないはずなんだけど?」



「町長の権限で…でしょうか。
領地原則に背いて、さらに
路上整備の資金流用・・・ですか?」



執事の言葉に、エルゼリオはほんのり笑った。
企みの言葉を聞くと、妙に血が騒ぐからだ。




「どうかな。警備軍のリオンは何か言ってたか?」



「いや、最近リオン様は、港のほうの警備に熱心でして。
リル海峡内での妙な流れ者と、
絶えず流入してくる、異国の信仰が気になるとか。」



「そうか。確かにロアーダとの交易は重要なんだが・・・。

やっぱり密入国者の警戒に忙しいか。
海峡に点在する島から、
最近じゃあ逃亡してくる奴等もいると聞くし。


あのあたりは犯罪者の巣窟、
まあ専ら交易船狙いの海賊が大半だけど。」




執事のロイドは、隣国から帰ってきてからの
エルゼリオの幅広い知識には、
酷く驚かされていた。

時々、何故そこまで子供っぽく振舞えるのかと思えば、
突然、大人の顔を見せる。


礼儀正しいことは、
貴族という階級と軍人である父の影響であろうか。

しかしエルゼリオの父は、どちらかといえば、
妙に突発的な行動をする癖があった。

どちらかといえば、母親譲りの慎重さなのかもしれない。


物事を考え、実行するにつけても、
今まで執事であり、サハシュ信仰の隠者結社に、
多少なりとも関わるロイドである。

エルゼリオを幼少の頃より養育するにあたり、
『手順をきっちり踏んで正規の手続きをする』
ことを教え込んではいた。


しかし、それ以上の妙な視点も、
彼はどこかで学んだようである。
少しだけ、この国にも、
あるいは隣国にもない文化の視点、
あるいは香りを、
ロイドは感じていた。


一体どうやって、あるいは何をしてきたのか。


エルゼリオ自身が教えることはなかったし、
ロイド自身も聞きはしなかった。




二人が話し合っている間に、フェイティシアは
色々と手近な仕事を片付けていた。


風呂の湯を入れると、ふんわり柔らかな湯気が
体を包み込んで、彼女をほっとさせる。



しかし、いつもの癖で、
ついエルゼリオのいる方を眺めると同時に、
湯気の温かさが、「それ」に似ていることに気づいた。




先ほど馬に乗って帰ってきた時の、
背後から抱きしめたエルゼリオの
「体温」。




思わず顔を赤らめ、綺麗な睫毛を伏せる。



妙な動悸が止まらなくて、
ごまかそうとフェイティシアは仕事に取り掛かる。



着てきたエルゼリオの外着をハンガーにかけ、
軽い飲み物を用意したりと、忙しい。





その様子を横目で眺めながら、
エルゼリオは執事との会話を怠らない。


街の現状を把握することで、
また新しい仕事も増えていく。




実地をくまなく観察し、妙なところがあれば
即座に疑問を持ち、解決しようとするエルゼリオの癖は、
おそらく戦場で迫られた判断に似たものであった。

兵士として戦地に赴いたことの無い執事は、
その怪異ともいえる感覚に、
ただ舌を巻くしかない。



勿論、エルゼリオが無言で執事に知らしめたい事実、


即ち


「ただ危険なことに巻き込まれに行ったわけじゃない」

「遊んでいたわけでもない。(多少は遊んだけれども)」




最終的に

「フェイティシアは悪くない。」

ということも、この話し合いで執事に理解させるように、
遠まわしに伝えた。




執事としては、エルゼリオが
「街の管理の問題」を見つけたことで、


「ちょっと妙なことに巻き込まれて、

少しばかり遊んできたこと」を帳消しにできるという

この茶目っ気ある若い領主の企みに、
まんまと引っかかるしかなく、
おもわず小さくため息をついた。




「では、明日緊急に監察官を派遣しましょう。」

「・・・そうだな、できればいつもの監察官ではなくて、

新しい奴がいい。妙な利潤関係で繋がっていると、
ちょっと面倒だし、こともぼやける。」

「わかりました。」




そして、まんまと執事の気をフェイティシアからそらせた
エルゼリオは、
にこにこしてソファーの背にもたれる。


なんとかもう一難は、彼から去ったようであった。
















執事が部屋を出て行くころには、
閉められたビロードのカーテンの隙間からのぞく、
夜の色も深くなっていた。


フェイティシアは「おやすみのご用意ができました。」

と声をかけ、
執事がいないことを知って、
ちょっとだけ困った顔をしてみせた。




「・・・叔父様は・・・。」


と彼女が口を開くと、

「もう用は済んだからって。」
といたずらっぽくエルゼリオが微笑む。




フェイティシアは早速、
テーブルの上に並べておいた薬が
書類で埋もれているのを判断すると、
丁寧に片付けて横に並べていった。




「・・・どれになさいますか?」

と薬を見ながら一応聞く。

サハシュ信仰の経典の内容は多岐に渡っており、
薬学も当然のことながら入っている。


だからこそ、一つの怪我に多くの薬が挙げられもする。



しかし、エルゼリオが昔から気に入っている薬は、
当然フェイティシアには検討がついていた。




「苦いのやだ。」


と、当然の如くエルゼリオは即答した。


フェイティシアは微笑まずにはいられない。
昔から全く変わっていない返答。


「苦いのやだ」を連発して、召使いたちを困らせた

幼かったエルゼリオが
一瞬彼女の目に過去のさわやかな空気とともに、
飛び込んできそうな、
そんな一言。




フェイティシアはあらためて
エルゼリオの口元を見て、

「失礼します」


とつぶやくと、ソファーに片ひざをのせて、
目線を目の前の彼と同じくらいに近づけるため、

腰を曲げた。




いまさらどぎまぎすることもないが、
エルゼリオはこういった対処の場合に、
彼女自身が近づいてきてくれることを、
予想していた。


それが、彼等の間では

「当然の流れ」だったからでもある。



さらりと髪が流れて、
優しい香りが彼の鼻孔をくすぐる。
少し体を動かすだけで、
すぐに彼女の体を捕らえてしまうことも、
容易にできるだろう。



ちょっと体を前に倒せば、
やわらかそうな唇にだって
自分のものにするのは簡単だ。




けれど、あえて奪うことはしない。

善意に付け込むことは楽ではあるが、
怯えさせるつもりは、毛頭ない。




しかし、こういうことには積極的なのに・・・と
エルゼリオは少し不機嫌になる。


やはり、生来の気質か、
ちょっと困らせてやりたくなって、
彼は機会をうかがった。



そっとエルゼリオの頬に手を触れたフェイティシアは、
意外に腫れていない彼の頬に、
少し不思議そうでもある。


生半可な体力で、戦場を潜り抜けていくことはできない。


しかし、フェイティシアはエルゼリオが
隣国で戦ってきたことを、直接彼から

伝えられていない。


多少は推測していても、実際に彼の

治癒力の早さには、誰でも奇妙な感覚を受けるだろう。




「もう痛くはないし、大丈夫だけどね。」

とぶっきらぼうにつぶやくエルゼリオに、

「結構力の強そうな方でしたけれど・・・。」


とゴーディの体格を思い出して、フェイティシアは
改めてエルゼリオを見つめた。






二十センチも離れていない場所で、眼と眼が合う。








「・・・フェイティシアは怪我してない?」

とエルゼリオは流し目で、
ぞくりと胸のあたりを駆け上がる感覚を、

フェイティシアに与えて顔を紅潮させた。




「・・・あの、な、何も。」


と答えて、
その場を離れなければならない危険な状態に、
彼女は思わず慌てる。



その様子を見るか見ないかのうちに、
やすやすと腕をフェイティシアの腰にまわすと、

あまりにも簡単に彼女を腕の中へ捕らえた。





質量豊かな彼女の胸の曲線が、
エルゼリオの鎖骨から胸の辺りに

押し付けられる。


少し俯いた彼女の額は、
エルゼリオの前髪の感触を知り、
そのまま避けるように顔を背けると、
待っていたかのように耳の辺りに

エルゼリオの唇が触れた。




楽しそうに舌を入れて耳の輪郭をなぞるのは、
フェイティシアを苛めたい、
エルゼリオのささやかな願望に過ぎない。




「・・・あっ。・・・っ。」
「そういう声出すと、なんかしたくなる。」

「な、なにかって・・・。」
「知りたい?教えるの大歓迎だけど。」
「!!」



これ以上言葉を口にしたら、
やすやすと流されてしまいそうで、
フェイティシアはぎゅっと口をつぐんだが、

過敏なためにどうしても、
甘やかな吐息を絶やすことが出来ずにいる。



当然のように、彼女の反応を楽しむエルゼリオの、
軽い悪戯が終わるはずはなかった。




「・・・お薬を飲まれないのですか?」

「フェイティシアで十分。」

「あの・・・私は・・・何のお薬にも・・・。」




「効き目抜群だとおもうんだけど。」と

エルゼリオは彼女の言葉を否定することを、
あえて止める。


「これは念押しだから。」


「はい?」


くすくす笑って、エルゼリオは楽しそうに
彼女の少し怯えたかわいらしい瞳を
覗き込んだ。


「フェイティシアが苦い薬を作らないように。」

「・・・つくりません。だから・・・。」


放してください、といったつもりが、
消え入りそうな悲鳴になって口から漏れた。


エルゼリオの大きな手が、自分の背を這っていく感覚に、
フェイティシアは困って、顔を真っ赤に染める。




フェイティシアに悟られないよう
上体をゆっくり前に倒していく。


捕らえられたフェイティシアも、必然的に
ソファーへと仰向けになっていく。



「・・・だっ、だめです!」



フェイティシアは思わず身をひねり、
どこから抜け出したのか、うまくエルゼリオから

離れた。


彼の手には、彼女の背すじの曲線や、
豊かな腰や胸がなくなった分だけ、
空虚な寂寞感が残った。




「あともうちょっとだったのになあ。」



と、エルゼリオは真面目に、いたって不機嫌に口に出してみせる。


当然ながら、本音もその通りだった。


フェイティシアは顔を赤くして、
今のことはなかったかのように、
恥ずかしそうに薬のあるテーブルへ眼を落とした。



薬壷の中に入っている数種類の薬草を、
あらかじめ用意していた茶器に入れると、

湯を入れて静かに小さなカップに注ぐ。



「・・・それ苦いでしょ。だから苦いのはやだって。」

「だいじょうぶです。甘いですから。」

と声に出すフェイティシアは、少し怒っているのではないかと、
エルゼリオは不安になった。


彼女の横顔からみえる頬は、まだ赤く染まっていた。



「・・・怒ってる?」



と問うと、少し間をおいて
「いいえ。」との答えが返ってきた。



まさか、彼女が怒りのために薬を苦く調合するなどということは、
いまだかつて彼はお目にかかったことがない。


しかし、あえて聞いてみるのは、
彼が幼かった頃繰り返し聞いたからでもあった。


「・・・うそついてないよね。」



「はい。」



フェイティシアの表情は、少し困りながらも
和みつつある微笑を見せた。






対外は眠る前にも、季節、月の運行、日の長さによって、
決められた飲み物を飲む。



フェイティシアが言ったとおり、
ふんわり湯気をくゆらせて、
不思議な香気と色に満ちた
その飲み物は、
軽く甘さを含んでいた。




エルゼリオのほっとした表情を見て、
くすくすと笑い声をもらしながら、
フェイティシアは茶器を片付ける。


一通り済ますと、フェイティシアは
自室へ戻るために許可を得ようと、
エルゼリオの方を見つめた。




彼は、ただソファーに坐って、
フェイティシアを眺めていた。




フェイティシアは、
そんな主人の視線を、意識せずにはいられない。




彼の姿が、先ほど飲み物が苦いか甘いかで
しぶったほど子供には、全く見えなくなっている。

先ほどの、ちょっとした戯れが、
かえって今の彼女の心境を揺るがせた。




ざわざわと、体の中が奇妙な不安に包まれる。




けれどもどこかで、
自分が何かを待っている気がして、
フェイティシアはさらに頬を赤く染めた。




エルゼリオにとって、いつもこの時間は、
ひと時でも彼女をそばに置いておきたいという、
願望にかられる時間でもある。


しかしそのまま彼女を見つめたままでいると、
彼女は逃げるようにうつむいた。




今このときだと、

あの耕作人がいたなら、

答えていたに違いない。




この瞬間が、彼にとって最も彼女との距離が

遠く感じられるときだ。



暖炉で燃える薪が、
ぱちりぱちりとはじける音を、
わざわざ望んで聞きたいわけじゃない。





ガラス窓に吹き付ける、
もうすぐに、冬を運んできそうな風がわめき散らす音を、
好き好んで聞きたいわけじゃない。



エルゼリオが坐る深紅のベルベッドのソファーから、
二メートルも離れていない場所で、
永久にたたずんでいる神話の時代の女神の彫像のように、
豊かで繊細に存在している彼女に、
近づきたい。





ただ、それだけのことだ。



「・・・あの、何かほかに御用はありますか?」



エルゼリオの視線を感じて、
いつの間にか頬の辺りに熱を感じていた
フェイティシアは、

思い切って顔を上げてエルゼリオに問いかけた。



「うん。そうだなあ・・・。」



と、エルゼリオは笑顔を消して
フェイティシアをただ見つめたままでいる。


揺らめく暖炉の炎が、
エルゼリオの瞳やその姿に反射して、
獲物を捕らえて離すまいとする、凶暴な獣に似た、

奇妙に妖艶な空気と、威圧的な雰囲気を
かもし出している。




視線に絡められたまま、フェイティシアは
呆然と立ち尽くすままでいた。





何故か、幼い頃のエルゼリオを必死に思い出そうとして、
一人で焦っていた。







現在の姿に重ならない過去。

晴れやかな幼い姿が、風を切っていくように

草原を駆け抜けていくように見えたあの頃。



その一部は、勿論今目の前にいるエルゼリオに見える。



けれど、他にあるもの、

どこか、過去を凌駕するもの、


圧倒的に違うものは、

一体何なのだろうか。





そして、昔とは違う彼を見つめたいと思う自分がいる。



けれど召使いとしては、
あるいは乳母としては、
それは危険であり、許されないことだ。




知らない間に、両手を胸の辺りで握って、
何かへ助けを求めるように
そっとフェイティシアは顔を背けた。


体がざわめいている恐怖に、顔を背けたともいえる。


しかし、彼の視線が体を優しく這っていく気がして、
フェイティシアの体は自然と細かく震えた。


ぱらりと、彼女の髪が流れて肩から落ちると、
暖炉の炎はまた違った光の反射で、彼女を包み、装飾する。



その姿が妙に妖しげな美しさで、
エルゼリオは黙ったままでいた。



「・・・用事が在るって聞いた?」



と、切り出したのは、フェイティシアには
かなりの時間が経ってからだったように思われた。



「はい。」

「・・・そこで回って。」


「?」

「はやく。」



フェイティシアは不思議そうな顔で、
くるりと一回転した。



髪がスカートとともにふわりと動く。

今日のダンスを思い出したのだろう。
心なしか、彼女の口元は微笑をたたえている。




だから妙にむしゃくしゃするのだ。



エルゼリオは無言で、かすかに不満げな表情を見せた。
回り終えたフェイティシアは、
彼の不満げな表情を見て、
思わず浮かべていた笑みを消す。


「すみません。」と小さくつぶやいて謝った。




「楽しかった?今日の。」

とちょっと皮肉めいた表情をした言葉が、
自然とエルゼリオの口からこぼれる。



「はい。」


と彼の表情を見ても嘘ひとつつかずに、
綺麗な笑みを見せるところが、

フェイティシアのよいところだ。



そのぶん、エルゼリオは逆に、
ちりちりと胸の中で焦がされるものを感じる。




「じゃあ、俺が行ったのは迷惑だったんだ。
フェイティシアには。」



と拗ねていうと、フェイティシアは困ったように微笑んだ。



「・・・とても驚きました。あまり街へはおいでにならないので。」


そして、少し間をおいて



「でも、街のことをお考えの上でいらっしゃったことは、
先ほど叔父様とのお話でよくわかりました。」


とあらためて優しく微笑んだ。


エルゼリオは思わず面食らう。



先ほど自分が執事からフェイティシアを叱らせまいと使った企みを、
今はフェイティシアが自分に使っていた。



フェイティシア本人のために街へ出かけたのではなく、
街のためにフェイティシアを追ってきたのだと。


そういうことにしたいのだ。




させるつもりは、さらさら無い。




エルゼリオはため息をつくと、立ち上がって腕を組んだ。


「違うよ。フェイティシアを見に行ったんだ。」



フェイティシアは彼の言葉に一瞬身を硬くする。
そういう言葉は、聞きたくなかった。
言って欲しくない。
けれど、
どこかで…?


そのどこかから現れたかもわからない隙が、
彼女には苦しくて、
いつも胸に硬く握り締めたこぶしを、
押し付けている。



「召使いを心配してくださるエルゼリオさまの・・・」

と答えると、



「召使いだからでもない。」




と言葉を遮られて、フェイティシアは思わず
息を呑むように口をつぐむしかなかった。

エルゼリオもまた、
それ以上は話すつもりもないように、

黙りきる。





素晴らしい静けさが、二人を包んだ。






沈黙を破ったのは、
「御用が無ければ失礼します。」
と言って逃げるようにドアへ向かったフェイティシアだった。




勿論、逃がすつもりも無い。



エルゼリオはため息をつくと
後を追ってドアの前で彼女の腕をつかんだ。


「用はあるよ。迷惑だったかって聞いてるんだ。」


と、押し殺した声で囁いた。


ドアの前で話をすることは、フェイティシアには
ひやひやさせられる行動である。


誰が廊下を歩いているのか、フェイティシアにはわからない。



逆にエルゼリオには有利でもある。
彼は当然のことながら、廊下に誰かがいたなら、
たとえ足音がしなくても気配でわかる。





勿論、冷静さを欠かなければ、であるが。



そして、時間帯としても今廊下を通る召使いはいない。

エルゼリオはうつむきがちなフェイティシアの顔を
覗き込むように尋ねた。


「・・・いいえ。私、ご迷惑おかけしました・・・。」


と言う彼女の体は、かすかに震えている。




「違う。俺の行動はフェイティシアにとってどうだったか、
聞いてるんだ。わからない?」




と、エルゼリオが語尾を和らげると、
思わず顔を上げたフェイティシアの瞳には、

涙が浮かんでいた。



その意味は解っている。



彼が口にした言葉、
彼が戦場から領地に帰ってきたその日に、

エルゼリオがフェイティシアに告白したとき、
フェイティシアに聞いた言葉。



フェイティシアはエルゼリオのことを、
どう思っているのか。



エルゼリオは答えをまだ聞いていない。


はぐらかされたままで、
まだこの部屋に転がっていそうな
その問い。




どんな方法であってもいい。

彼はフェイティシアからそれを
聞き出したい。
聞かずにはいられない。


それが言葉であっても、
あるいは無くてもいい。




じれったい焦燥感に駆られて、
エルゼリオはすかさず唇を近づけようとした。



しかし、背後にあるドアにぴったりと寄り添って、
フェイティシアは逃げるように身をひく。


大粒の涙がぼろぼろこぼれて、
フェイティシアの身に着けている真っ白なエプロンに

綺麗な珠となってはねて落ちた。




「泣かせたいわけじゃない。」




苦そうな顔をして、
真剣に訴えながらも彼の内では、

思わず彼女の泣き顔に見とれていた。


「・・・手を離してくださいませんか。」

と言葉を返してフェイティシアは、
涙を片方の手の指先でぬぐった。




「それはやだ。」




当然のようにエルゼリオはぶっきらぼうに拒絶して
困って笑った。

子供がすねた時のように、
「フェイティシアが逃げるから。

それとも、俺のこと嫌い?」




尋ねると、フェイティシアは少しだけ眼を潤ませたまま、
エルゼリオを見つめた。



嫌いになれるくらいなら、
この場からも、この領地からも当の昔に逃げ去っている。


小さな足で走ってきたころのエルゼリオ。
むきになって反抗するエルゼリオ。
沢山の悪戯、沢山の仕草。



沢山のやさしさ。



どれ一つとっても、彼女にとって
拒絶できるものはない。




なぜ、こんなことに・・・?


ふと沸く疑問もまた、空虚に曖昧な意識の中へ
溶けていく。

幼さの持つ親しさが、
目の前にある強靭な肉体には、
微塵も存在する隙も

与えないのに。


時々、彼の口から零れる言葉のささやかな抑揚や、
軽い仕草が、忘れていた懐かしい思い出を、

蘇らせてしまう。



領主としての成長を誇りに思う反面、
時間と共に切り捨てられていく、幼さに感じていた愛着。


その感情こそ、
『召使い』が持つべき主人に対しての最大の、

感情であったはずなのに。



どうして変えることが?



フェイティシアは無性に泣きたくなって、
再び涙をこぼさずにはいられなかった。


そしてこんなに彼に甘えるように、

涙を流せる自分も、
召使いとして最低だと恥じた。




召使いというものは、主人に自らの抱える感情的な事情で
甘えてはならないのだから。



フェイティシアは無言で、
ただ訴えるように頭を横に振った。



その仕草は、さまざまな意味で拒否することを含んでいた。



しかしそういう仕草が、
エルゼリオにとってはとても可愛くて、
親指でフェイティシアの涙が伝った

彼女の頬をぬぐわずにはいられない。



抱きしめたい。


そんな単純な感情を押し殺し、
仕方が無いと、エルゼリオはため息を吐いた。




「わかった。じゃあせめて、
泣かせた罪滅ぼしをさせてよ。

おいで。」




フェイティシアは、大きな眼をぱちぱちさせる。

突然のエルゼリオの申し出に、
思わずたじろぎそうになった。




が、そのような隙も与えず、
エルゼリオはドアを開けると、フェイティシアの
柔らかな手を握って、
真夜中の青い光に包まれた廊下へと、
連れ出していた。










ここに来る機会は何度でもあった。



エルゼリオは、静寂に満ちた廊下の夜を、
フェイティシアの手を引いて歩き、
目的の場所へたどり着いた。


かつて、深夜に静かに、
忍び足で歩いた足の裏の冷たさを、
エルゼリオはふと、思い出している。






ただ、無性に胸が高鳴った。






ダンスフロアは、彼が幼い頃と全くといっていいほど、
変わっていない。




密やかに濡れた輝きを見せる大理石の床は、
色の違った石を綺麗に並べて、
幻想的な凪の湖畔のようでもある。



大きな窓から見える木々が、
床に写って、さも深夜の森の泉の上に
迷い込んだかのようだ。



機会はあったけれど、彼女を呼ばなかった。



握り締めたフェイティシアの手をひいて、
エルゼリオは幼い頃のことを思い出していた。


「よく、ここでダンスの練習をしたよね。
フェイティシア。」

「ええ。とても、懐かしいです。」



嬉しそうに微笑んで、フェイティシアは
エルゼリオに手を引かれて、月の光を頼りに、
ダンスフロアへ足を運んだ。



昔も手を引いていた。

エルゼリオはふと、自分がまだ幼い頃に
彼女の手を引いて、このフロアへ足を踏み入れたことを
今でも鮮明に覚えていたことに、
酷く懐かしさを覚えた。



「フェイティシアの仕事の時間を、無理やり奪って、
このフロアへ連れてきたこともあったっけ。

あの頃はほんとに、ダンスが好きだった。」

「今も、ではないのですか?」




と、フェイティシアはさりげなく問うた。

心の中では、
今日祭りの夜に、
彼が自分以外の誰かと、

楽しそうに踊っていたことを、
小さな胸の痛みとともに思い出したからである。



彼が誰と踊っても、当然かまわない。

彼は領主であり、そして主人でもある。

自分は召使いであり、乳母でもある。


誰と踊っても、誰と話しても、
当然自由である。




けれども、
そうはいっても・・・。




フェイティシアは、自然とエルゼリオから眼をそらした。



どろどろした自分の中の何かが大嫌いで、

何処かにほおっておいて欲しかった。



捕まれている腕から、彼の手へ、
このどうしようもない感情が伝わっていないことを、
フェイティシアは真摯に願った。





今すぐどこかへ隠れてしまいたい。



しかし、相変わらずなフェイティシアの
いつもの仕草が気に入らなくて、
エルゼリオは、握った手を自分のほうへ
思い切り引っ張った。



「今も好きだよ。勿論。」



と彼女の顔を正面から見つめて言うその言葉には、
さまざまな意味がある。

たとえば

「ダンスが」以上に「ダンスをするフェイティシアが」

あるいは「フェイティシアが」と、

広い範囲を指していると、

彼女に気づいて欲しいという、
ささやかな願望を担っていた。



しかしそれも、彼女が涙ぐんでいることに気づけば、
やすやすと砕かれて、奇妙な罪悪感と寂寥感に

胸が苦しくなってしまう。



泣かせたいわけじゃない。



再び繰り返しそうになる言葉を使うまいと、
エルゼリオは彼女の腕を握った手を離し、
一定の距離を置いて礼をした。



「何年も、待った。」



唐突の物言いに、フェイティシアは一瞬驚いたが、
静かに次の言葉を待った。





本当は、聞きたがっている自分がいる。






「あのとき言ったよね。
『フェイティシアが小さくなればいいんだよ。』って。

今、まさにその願いは叶ったって、思ってる。
もう俺を上のほうから見れないだろ。」


「はい。」


「だから、
大きいフェイティシアをターンさせてみるとき、
思い切り腕を伸ばして、結局届かなくて、

手を離したフェイティシアが一人で回ったり、

ステップでフェイティシアの足に踏まれて、
物凄く痛かったり、

俺のほうが歩幅が小さくて

多くステップをしなければならない、

なんてこともない訳だ。」

「そうですね。」



古い練習の記憶を思い出して、フェイティシアはおもわず、
くすくすと可愛い笑い声をたてた。


その反応にはほっとさせられた。
次に言う言葉で、彼女の顔が曇ってしまっても、

まだ救われる。



エルゼリオは、少し息を吸って、

ゆっくりと大切な言葉をつむいだ。



「好きだよ。フェイティシア。

前にも言ったし、昔にも言った。

何度も何度も。そばにいて欲しいと思ったし、

今そばにいてくれることに、とても感謝してる。



嫌いだって言ったときもあったけど、

それは『ダンス』みたいなものだと思って欲しい。



絶え間ないステップの中で、

足を踏まないようによけたり、

人とぶつからないよう配慮したり、

時々、近くからじゃなくて

少し離れて踊るのも、楽しめるみたいに。




でも、完全に離れているんじゃなくて、

ダンスの誘いに、最初から乗らないんじゃなくて・・・。」




エルゼリオは一息ついて、

真摯な言葉を紡ぐ為に、静かに口を開いた。

瞳は、しっかりと目の前にいる

フェイティシアの瞳の中を、見据えていた。





「踊って欲しい。



『俺と「踊る」ために生きている』って、

思って欲しい。

勿論ダンスには色んな種類や踊り方もあるけど、

今は、


その時々で、意味が違うから、なんて

思わないで欲しい。」



そして、予想通り顔を赤らめたフェイティシアに、

一呼吸ついて、エルゼリオは手を差し出した。



「一曲お相手願います。」



それに答えることは、はたして
彼の告白を承諾したことになるのだろうか。



それとも今このときを楽しむための、「ダンス」なのだろうか。






おそらく、

エルゼリオは総てを含んだだろう。







答えることは、出来ない問い。



しかし、逃げるわけにもいかず、
フェイティシアは戸惑ったまま、身を硬くしていた。


差し出された彼の手は、もう骨ばっていて、
ぶ厚くて、とても熱いと知っている。



領主として、素晴らしい人。



そばに仕えて、誇りにおもう主人。



けれど、彼の思いに答えることは、
してはならない立場。



・・・みんな好きだったのよ。そしてこれからも・・・ずっとね。




ふと、フェイティシアには街で会った、

あの女の言葉が耳にこだましていた。



これからもずっと、フェイティシアは
目の前に立つエルゼリオを愛していくだろう。



しかしそれは、女としてではなく、召使いとして、である。


目の前に立つエルゼリオの視線が、
俯いた彼女の視界に入らずとも、
酷く辛く苦しく感じられた。




彼の望みは、いまだ夢。

そしてまた、彼女に望むのもいまだ夢。


叶えるのは彼女であれば、
それは彼にとって、夢ではなくなるだろう。



だが、彼女も、そして彼もまた
当然身を滅ぼしかねない夢である。



だからこそ、今は考えたくない。
目をそらして、楽しいことだけを
追い求めていけたなら、
どれだけ幸せなことだろう。



けれども彼女は、一生召使いであり続ける。




そして永久に、永遠に従うことを、
生まれ育ったときから、
この土地で誓わされている。







静かにたたずむ二人のいるこの場所が、
夢であったなら…。



「・・・」


深呼吸をして、
フェイティシアはこのダンスホールの空気の蒼さに、

少しだけ救われた気がした。


いつか一人で踊っていたときも、この場所の夜は
素晴らしく幻想的だった。



まるで、夢の中にいるように。

そう。本当に、夢の中にいるように。






フェイティシアは、ためらいがちに返答をするため

口を開いた。






「・・・泡沫の戯れと思わせて頂けるなら・・・。」









それは仮のとき。


本来は存在しない、戯れの時であると

約束してくれるならと、彼女は答えた。


彼の告白もまた、戯れであり、
ダンスもまた「戯れの時」であり、
そしてまた、
ダンスも「時の戯れ」であることを、認めよと。



認めればこそ、彼女は初めて
彼と踊れるのだと。







それは真実でもあり、
召使いとしての立場の表れでもあり、
彼の告白への拒絶でもある。






エルゼリオはため息を吐いた。

先の長そうな返答である。



エルゼリオは、しかし、甘んじて彼女の申し出を受け入れた。


当然の如く「泣かせるつもりはない」のだし、
なにより、


ダンスは『楽しむためにある』のだから。



「今宵は、貴女の戯れに傅きましょう。」



「今宵は」、をできるだけ強調して、
子供っぽく微笑んだエルゼリオに、フェイティシアは
花のような微笑を見せた。



「私で良ければ喜んでお受けいたします。」



エルゼリオは、救われたような笑みを見せ、
フェイティシアの手を再びとった。













音楽はない。



演奏者も、観客も、彼等の周りを巡る
ダンスに興じる人々も、いない。



装飾されたシャンデリアの、

細やかにカットされた石英の一粒一粒が、

やわらかな月の光と戯れている。



その煌きは、古風で美しい音色のようでもある。



彼等のステップは、さり気なく静かに、

しかし堂々と臆することなく、

一定のリズムで踏み出される。





収穫祭の夜に、
農地の人々は、農作物を神に祈って、

祈るためにダンスをする。



祝いのとき。



豊作は彼らの心からの希望であり、
暮れゆく未来と輝かしい過去にある。




群舞にはあった、


触れて、離れていく互いの指先の弾力、


ちいさな温かさ。



そして巡ってくる新しい相手。




けれどここには、二人だけ。






だからこそ、離れ、

再び互いに握り締めた手の指先は、

まるで永久に結ばれた約束であるように、

きつく、そして固い。




見詰め合う二人には、何かを話すことも

必要はない。

けれど、一つだけ存在しているもの。



言葉にならない祈り。




エルゼリオはダンスを突然止めると、
フェイティシアを抱きしめた。



突然の行為に、腕の中へおさまった彼女は、
高潮する顔を、彼の胸に押し付けることになる。




「・・・エルゼリオさま?」


「・・・いのるよ。」


エルゼリオはきつく眼を閉じると、
フェイティシアの耳元で囁いた。




「祈ってる。

ずっと、こうしていられることを。」





囁いた声は、かすかに孤独を帯びていた。

フェイティシアがいつも感じない、
昔の彼にも見られなかった感情が、
今、

彼女の目の前で揺れ動いている。



「・・・だから祈って。今だけでいい。」



今が戯れのときであっても、

泡沫のときであっても、

今日が過ぎ去ってしまっても、

明日は報われなくても。



「・・・私は・・・。」

と、彼女は静かにつぶやいた。

しかし、その先の言葉は出ない。




「そばにいますわ。いつでも、そばに。」




言いたい。


けれど、言ってしまえはそれは、


また違った意味になるかもしれない。

そうとはとらないで、

沢山の意味をかき分けて

本当に、心の全てを乗せることのできる

言葉が存在していたのなら…。





私のダンスはきっと、

「あなたと生きるために踊る」ではなく、

「あなたのために生きる、」

そのために祈りを捧げる踊り』





それを彼女は、
ただの思い込みだと言われようが、
痛いほど知っている。




だから、言えなかった。





だが、別の言葉で彼女が彼を慰める前に、


エルゼリオはフェイティシアを解放した。



彼の表情は、穏やかに微笑んでいた。




・・・見たくない。







昔の面影残る微笑の中に、

真摯な思いを見せられると、


一体どうしていいのかわからなくなる。







一瞬頭の中をよぎった感情に気づく前に、
フェイティシアには、涙が溢れそうになった。








答えたい。







しかしその思いは、果たして

『召使いとして傍に仕える感情』なのか。

あるいは

『乳母としての責任感から来る感情』なのか。


それとも・・・。



『それら以外の別の感情』なのか。






あまりにも、見えなくて…。







「・・・答えられません。」



と、彼女はつぶやいた。





だが、「答えなくてもいい。」と、
静かに返答したエルゼリオは、





「祈ってる、って言ったろ。」



と、至極さらりとその場の重い空気を払うように、
付け加えた。




フェイティシアは、少し困った風に微笑む。





いつも彼に、踊らされてしまう自分がいた。










「もう少し、踊ろうか。」








誘いに、彼と彼女は、

時の無残な足音に耳を貸さず、

しばし夜の闇を音楽に、

二人戯れる。



収穫祭の夜に、

一層深まる互いの心の底を、

その足取りに、滲ませながら。







終わり



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