「浴室」


金の蛇口から、淡く湯煙がこぼれだしている。
まっしろな浴槽は、薄い青色をたたえて湯を受けて
浴室の壁は清潔な白で、
たたずむ彼女は心置きなくため息をつける。

白い湯気が、ぜんぶ隠してしまえると思えて・・・。

彼女の手には彼の脱ぎ捨てた上着があった。
ご主人さま、と今は呼んでいるが
かつては、小さいころからその癖も、行動も、声も
全て知っていると思っていた子供だった。
脱ぎ捨てる癖は、あいかわらず変わらない。
いつも、部屋の浴室に備え付けてある椅子の背にひっかけておく。
だから彼女は、それをみるたびいつも、心なしか顔がほころんでいた。

まだ、わたしの知っているあの少年なのだ、と。

けれど・・・。
今日は何かが違っていた。
椅子の背に投げ捨てられた白いシャツ。
やわらかくて、かすかにぬくもりがまだ残っている。
すこし、汗のにおいがして
もうひとつの香りに気づいたとき、彼女は一瞬その瞳を淀ませた。

女物の香水のかおり、だった。

昨日、この部屋に誰が来たのか彼女は知らない。
あるいは、彼が仕事を外でしているあいだ、
誰に会っているなんて、
一介の召使いが考えることではないのだ。

きりり、となぜか胸が締め付けられて
おもわず彼女はそのシャツを抱きしめた。
彼は今、この浴室を出て向かいのドアから入る書斎にいる。
軽く片付けてしまうから、といって風呂の用意を彼女に頼んだ。

彼がこの屋敷に帰ってきてから
彼が発する香りは昔の少年のものではないことに、彼女は気づいていた。
どこか、大人びた濁りがある。
その香りは彼女に彼の存在を頼もしく見せるとともに
どこか遠い国の、異国の人間のようにも感じさせた。

そして今、
彼女を遠くに突き放したのは、さらに知らない香りだった。
彼は
女性を知っている。
そんなことは当たり前なのかもしれない。けれど、苦しい。
彼女は目をぎゅっとつむって、何も考えないようにした。

誰だろう。そのひとは・・・。

一瞬そんな言葉がよぎって、彼女は次の瞬間頬を赤らめた。
考える必要の無いことを、考えてしまう。
自分は召使いで、主人へはあくまで客観的に接しなけばならない。
ただ仕える。
生活の補佐をする。
それだけを考えていればいいのに。
あるいは・・・

今も子供だと思えば・・・。


書斎からふらふらと出てきた彼は
ぼうっと立っている彼女を見つけ、仕事を終えた疲れで目をこすった。
いつもなら、無駄なく動く彼女の姿が、今日は人形のように静止している。
手には、彼のシャツをもって。
浴室に満たされた湯気で、表情はあまり見えないが
少し哀しそうだ。
あるいは
疲れているのかもしれない・・・。
そう考えたとき、彼は背中を冷ややかな手で撫でられるような感覚を覚えた。

最近、彼をとりまく環境のなかで最も華やかな場所である社交界で
ちょっとした噂が流れた。
まだ若い伯爵の娘が、心労で亡くなったというものだ。
やっと今から社交界に入るという矢先の訃報。
まだ正式に発表されてはいないが、
その娘が死んだのは、伯爵の絶え間ない暴力のためとの噂である。

愛しているものに、手を加えることができるのだろうか。

彼は多少なりとも疑問を覚える。
彼が「愛している」と思える存在は、彼女以外には考えられないし
暴力を振るうなどということは、考えたことも無い。
そして、意外にも女性の若さとはもろいものだということを
噂の中に隠れた真実に思い知らされたのだ。

彼女は、どうなのだろう。

あの告白。
「抱けば死ぬ」というような彼女の拒絶は、彼の心に深い溝をつくった。
触れたいけれど触れられない。
彼女を失うことが心底恐ろしい。
けれどだからといって、一体どうやって彼女への想いを断ち切ればよいのだろうか。
あふれ出す願望がある。
止められない欲望が渦巻いている。
いつから自分はそんな風になったのか・・・。
彼は、ぼんやりと考えながら足を浴室へ向けた。

浴室に足を踏み入れる。
水音から予想していたとおり、もう少しで浴槽から湯がこぼれ出るところだった。



「どうしたの?ないてるの?」
そう尋ねたときはじめて、彼女は彼が浴室に居ることを知った。
いたずらっぽい笑みを浮かべて、彼は彼女を見つめている。
驚いた彼女はおもわず、彼の問いに
「いいえ、この香水の香り・・・」
と、口走ってしまいあわてて口を塞いだ。
「なんでもありません。すこし考え事を・・・。」
とこまった顔で視線をそらし、言い直す。

その仕草が、あまりに不自然で彼は嬉しくなった。
彼女の動揺が、彼には蜜の味に感じられる。
彼女がみつけた香水の香りは、おそらく昨日会った
公爵夫人のものだろう。もちろん、特別な関係はない。
それを、彼女は想像したのだ。

その香りの女に嫉妬・・・してくれたのだろうか。

自分を意識し始めている。それも、浴槽からこぼれそうな湯に気づかないくらい。
そう思うと彼は、暴走しそうな気持ちを必死でこらえた。
どうすれば、何の禍根もなく彼女を手に入れることができるのか。
そして、彼女を取り巻く死への予感をはらいのけることができるのか。

「なに考えてたの?教えてよ。」
そんな昔から無邪気そうに問うてくる癖のある彼に、動揺を隠せないまま彼女は答えた。
「な、何も・・・。」
「だって考えてたんでしょ?ねーねー。」
そういって、本当にさりげなく彼女の腰に手を回して引き寄せる彼に、
ふと彼女は、あの香りを感じて意識した。

「!!」

思いっきり彼の手を振りはらった彼女は、次の瞬間に我に返った。
両手で口元を隠し、目の前の彼を見ると
酔いがさめたように笑顔を無くした表情がある。
「ご、ごめんなさい・・・!!」
謝って逃げようとする彼女の手を、彼は突然むしりとるように掴みかかった。
「今のは・・・。」
彼の手は一層強い力を込めて、彼女の細い手首を束縛する。
「今のはどういうことだ!?」
表情が一層険しく、彼と彼女の顔は鼻先が触れそうなほど近づいている。
突然、言葉も行動も力も、
全てが大人の男であることを示すものだと
彼女はさとり、愕然とした。

違う、ひと。

知らない人間に出会ったようだった。
そんな変貌をした彼の心の中では、言いようの無い不安と恐怖であふれていた。
目を背けるくらいの拒絶なら、許せる。
それは彼女が彼を意識しているとわかるからだ。
けれど、理由もわからない完全な拒絶を味わった今、
彼はどうやって彼女を繋ぎとめていいかわからなくなっていた。

やっと、小さな彼女の悲鳴を聞いて我に返った彼は、冷静になろうとつとめた。
細い手首を握った手の力を緩める。うっすらと赤みを帯びた手首は、薄紫に変色しようとしていた。
暴力。
社交界の噂が、彼の頭の隅でうづいた。
逃げようとするから、繋ぎとめておきたかった。
手段は選べない。そのために必要な暴力・・・。
彼はあらためて、自分の醜さを覚えた。
けれど、その醜さを否定する気には到底なれない。
彼女を奪うためなら、どのような手段を用いてもかまわないと
どこかで強く願っているからだろう。

「・・・オレが誰か知らない女と寝ているのがイヤか?」

と、冷静にならなければ聞いていたかもしれない。
けれど彼はあくまで彼女に不覚にも与えてしまったマイナスイメージを
払拭しようと努めた。
「ごめん・・・。でも、オレが「汚い」みたいだったから・・・。」
と、ちょっとすねた子供のようにつぶやく。
「そんなことぜったいに!!」
と顔を上げた彼女の瞳は、少し潤んでいた。
本当に綺麗な、そして彼にとってどうしようもなく欲望をそそる表情をする。
こぼれそうな涙をぬぐいたくて、無意識に手で触れようとすると
避けるようにうつむかれた。
「やっぱり避けてる!!」
と、彼はおおげさにむっとしてみせる。

彼女は、どうしていいかわからなくてただ呆然とした。
召使いとして、とんでもないことをしたのだ。
そんな罪の意識を強烈に感じている。
「ち、違います!!ただー。」
「ただ?なに?」
「・・・こわく、て。」

こわい。

彼が怖いのか、あるいは
自分が怖いのか。彼女には判別ができない。
ただわかっていることは、全部がこわいのだ。
自分がわからない。
彼のそばにいた女性に対する嫉妬。
そんな汚い感情。

「オレこわい?ごめん。その腕のこと、あやまるよ。」
「いいえ。そうではなくて・・・。」
うつむいて必死に言葉をさがそうとする彼女をみて、彼は少し切なくなった。
困らせている。
そんな不安。
ふと、昔の記憶が蘇ってきて彼は彼女から視線をそらした。
「昔と、立場逆になっちゃったみたいだ。小さいころ、よくしかられたからなあ。
オレ、こわかった。」
「・・・。」
涙をぬぐって、彼女はその言葉に微笑んだ。
「ほんとうに、いたづら好きでしたもの。」
「ほら、オレ凄い雨の日に外で遊びたくて、泥だらけになって帰ってきたこと、あっただろ?
遊びに行っちゃいけないっていわれてたのに。「風邪でもひいたら・・・!!」なんて・・・
はじめてあの時強く言われた気がした。おぼえてる?」
「ええ。」
いつものような笑顔をとりもどした彼女を見て、彼はすこし安心した。

あのあと、彼女は思わず声を荒げた自分自身を責めて、涙を流して少年の彼に謝った。
そのことは、彼の心に鮮やかで強烈な思い出として残った。

ただ、ちょっと彼女を困らせたかっただけだった。

「そのあと、すごくやさしく髪の毛を洗ってくれたよね。」
暖かい湯に浸かって、彼女のやわらかい指を感じながら、
心には苦い罪の意識があった。

あったかいガウンをはおったときも、
温められたミルクを手渡されたときも
ありったけの毛布を用意されて
ふかふかのベッドにもぐりこんだときも
夜中そばにいてくれた彼女を見つめながら
一度だってもう困らせるようなことはしないと、心から誓ったのに。

「ねえ、今から一緒に風呂入ろ。」
「!!」
突然の提案に顔を真っ赤にして、彼女は彼を見つめたが
彼はいたづらを仕掛けて、それがうまくいったとき特有の笑みを見せた。
けれど、その表情は次第に崩れて、寂しそうにうつむいたとき
彼女は胸を奥からわしづかみにされるような気分を味わった。
知らないうちに彼を傷つけている!
そんな言いようの無い不安が、襲ってくる。

「・・・また、髪の毛洗って、昔みたいに。
オレの汚れた性格も、生活も全部、昔のオレになるまで洗い流して。この浴室で。」

それは・・・
大人になってしまった二人には
もうかなわない夢だけれど。

「いいえ。」
と、彼女はどうしようもなくて彼に背を向けた。
「いいえ。いいえ。」
繰り返す言葉が、湯気に満ちた白い浴室に響く。
言葉の語尾は、涙声で聞き取れない。

彼は、どうしていいかわからなくなる。
泣かせたくない。
壊したくない。
汚したくない。

けれど欲しい。
苦しませても、我儘でも
壊しても汚しても

全て欲しい。


彼は
そっと背後から彼女を抱きしめた。

「大好きだよ。フェイティシア。だからー・・・。」

その後の言葉は無い。
ただ、ゆっくりと首筋を這う彼の舌に、
ゆっくりと彼女の服のボタンをはずしていく彼の手に
彼女は浴室の湯気の中
抵抗のないままめまいを覚える。
それが、湯気のせいだと信じたかった。
奪われたいと願っていた。
そのことを否定する理性が消えていきそうになる。
目の前のしろく曇った鏡に映る自分も、
にごって消えていきそうに感じられる。
まるで今の自分の心のように。

彼もまた、熱に浮かされたようになにも考えることができない。
ただ彼女のうなじの白さや、肌のきめ細かさが
触れた唇から鮮明に感じられる。
柔らかい胸を服の上から手のひらで包み込む。
甘い吐息と、ちいさな悲鳴が彼の耳をくすぐり
さらに力強く彼女を引き寄せた。
離したくない。
たとえ暴力を使ってでも
彼女を壊してでも・・・。

それでも細心の注意をはらって、浴室の冷たいタイルの上に横にすると
かすかにはだけた服から見える白い胸に、唇を寄せた。
首筋から唇へ。
そして彼の手は彼女の服をさらにはぎとろうとして・・・・。

コンコン

と、部屋のドアから音がして、彼女はふと我にかえった。
彼も一瞬手を止める。
その瞬間、真っ赤に顔を染めた彼女は、奇跡のように彼から離れた。
「お食事をお持ちしました。」
「・・・はい。いまいきます。」
と、彼女ははだけた服のボタンをしめながら、また泣きそうになっていた。
彼は、その表情に不安を覚える。
どんどん彼から彼女の心が遠ざかっていくような・・・。

去る彼女の後姿は、一度も振り返らない。

自分が彼女の心の中からいなくなる不安。
消されてしまう不安。
意識されない存在。
ただ、主人としてのみ存在する・・・・
「まっ・・・!!」

まって・・・

彼は彼女の手を掴むと、軽くそのあざをつくった手首にくちづけた。
おどろいて彼女は振り返る。
一瞬、二人は互いに見詰め合った。
許してくれる?
と問うような彼の表情は、いたづらをしたあとの少年、昔の彼と変わらない。
そう。ただの・・・

ただのこどものいたづらだったと、おもいこむこと・・・。

彼女はしずかに微笑んで、声をかけた。
きわめて巧妙な、平静をよそおった演技だった。
「お食事まえにお風呂へ入ってください。ご主人さま。」
彼の手からすりぬけていく柔らかい彼女の手。
そして去っていく足音を聞きながら、彼は浴室に立ち尽くした。

いつでもオレがいることをわすれないでいて

そう彼女の後姿に投げかけた願いを、彼女は聞き届けてくれるだろうか。

浴室は、さらに白く曇っていく。
金の蛇口から滴る水滴が、二人の心のような波紋を水面にひろげていた。


おわり






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