「雨に濡れて」


フェイティシアはその日、曇り空の下、大地を踏みしめながら歩いていた。
彼女の目の前には、ただただ耕作地がひろがっている。
遠くに微かな起伏や森がみえて、彼女はずいぶん遠くに来てしまったと思った。

この仕事は、彼女の日課でもある。
主人である彼の領地から収穫できる作物。
この作物を耕作する耕作人たちの管理。
そして給料の配分を、彼女の一族は任されている。

今日までは・・・。

彼が領地に帰ってきてから、さっそく彼女は彼から達しを受けた。
今日まででこの仕事は終わり。
そのあとはまた昔のように、彼に仕えること。
「昔のように・・・。」だ。
それは
無理なのではないかと、彼女は密かにうつむいて立ち止まった。
この間の浴室で起こったことをきっかけに
二人の関係は「昔」の香りすら感じられないものとなった。
彼女はそれから彼を避けた。

だからこの仕事も・・・できることならやめたくなかった。

少なくとも耕作地に彼が赴くことはありえなかったし
あったとしてもそれは昔のことだ。
子供の彼は、真夏の光の下、木漏れ日の中を駆けてくる。
彼女の胸にとびこんで、とびきり素敵な場所を見つけたとか
あんな虫がいたんだとかを、こころから楽しそうに語る。
彼女はその額の汗を、そっとぬぐってほほえむ。

「エルゼリオさま。もう帰りましょう。風邪をひくといけないから。」

いまでも・・・

目を閉じると彼のちょっと不満げな表情が、瞼の裏に蘇る。
けれどそれはすぐに打ち消されてしまって、
変わりに今の彼。
がっしりとした体格の、容易に女の身体を抱きしめて放さない
領地の主人の姿が現れる。
とたん、彼女の首筋に彼の唇が触れた感触がよみがえり
彼女は顔を真っ赤に染めた。

考えちゃ、だめ・・・!

彼女は首をふると歩き出す。
考えない。考えない。ぜったいに!
そう意識して歩を進めるごとに、子供のころの彼の無邪気な笑顔と
今の彼。
女性の香りを漂わせている、「知らない彼」を
繰り返し思い浮かべてしまい、彼女は泣きそうになった。

お願いだから、もう考えさせないで!

誰に、それを祈るのか・・・。
彼女は自分の心を恥じた。

*                                     

「今日は耕作地にいってみようとおもう。」
と彼はコートを着ると準備を万端に、そばの執事に言った。
執事の男はもう初老といった風情だが、ぴんと背筋を伸ばし老いは微塵も感じられない。
「耕作地へ、ですか?」
「ああ。フェイティシアを・・・。」
と彼は言葉をこぼしてから言い直す。
「耕作人を見にいく。」

執事はその様子に、彼のただならぬ暗さを感じていた。
いつもは、ただ明るく後ろ暗いこともなさそうで
後光がさすほど明るく平等で、無邪気な性格の主人が
うつむいて言葉をにごす。
この状態が、三日ほど前から続いているのを執事は知っていた。
そして三日前はフェイティシアが、耕作地にある保養地へ向かったことも知っていた。

「エルゼリオさま。フェイティシアと何か?」

その問いに一瞬、彼の動きが止まった。
ぴりっとした空気が辺りを包む。
すこしして・・・
若い主人は、ため息交じりで低く笑った。
「いや、なんでもない。ただすこしイタズラをしすぎたんだ。」

彼にとっては
自分の気持ちを伝えたい一身のことだったけれど。
それを自分で「いたずら」などと、軽い言葉に変えている。
本当に、汚い。
彼は彼自身を責めた。
けれど、どうすることもできないことを彼は知っている。

「きげんを治してもらわないと・・・。」

いたずらっぽい笑みの奥で、子供っぽい甘さがもう見えない若い主人に
執事は密かに不安を覚えた。
きびすを返して外への扉へ向かうエルゼリオは、
一歩一歩踏みしめながら、一体彼女にどう弁解するべきかを考える。
そして、一体どうやって彼女の心を、
あるいはすべてを手に入れることができるかを
耕作地につくまでは考えねばならなかった。



扉を開いたとたん、曇り空にもかかわらず華やかな色が目に飛び込んできた。
「エルゼリオ!!」
そう叫び彼の胸に飛び込んできた女は、あっというまに彼の背に手を回す。
伸び上がって軽く口付けをする彼女は、社交界の香りを一挙に彼の元へ運んできた。
華やかなブロンドは、彼の柔らかな金髪ほどの気品はなくとも
限りなく黄金に近く、存在は圧倒的に強い。
真っ白な手には黄金のアクセサリーを、それでも控えめに身につけて
センスの良い風に仕立てたドレスは、明らかに都会の女といった風情だ。
頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚え、彼はしばらく呆然としていた。
「・・・アルアドネル嬢?」
社交界での記憶をまさぐる。

たしかそばにいて、軽い話を好む女性だったはずだ。
シャンパンが好きで、軽く3,4杯口にすると、
社交界では顔が広く、しかもこの金髪の美しさと美貌
そして地位、それらすべての華やかさのために
男性からダンスの誘いが後をたたない。
けれど、それを全部断ってでも
「わたし、あなたと踊りたいんですの。」
と、とんでもない言葉を口にした女だ。
まったくそのために彼は、他の殿方から相当恨まれたことは間違いないし
恐ろしくタフな女性で、鮮やかに踊りを何曲もこなしてみせる。

「わたし、あのあとご婦人方から聞かれましたのよ?
『あの方はあなたの恋人?華麗な踊りをなさること!うっとりしてしまいますわ!!』」
「アルアドネル嬢・・・申し訳ありませんが、一体突然何のようで・・・。」
彼はため息をつく。
これから彼女の、フェイティシアのそばへ行こうと思っていた矢先
嵐のようにやってきたこの華やかな女性を、どうするか考えねばならなくなっている。

あの人のことだけ、考えていたいのに・・・。

「なぜ?なんてお聞きにならないで!私・・・。」
彼女はそっと彼にしだれかかった。
「私は貴方のそばにいたいから・・・!!」

とんだ強気な女性が、そっと涙を見せるほど切実に訴えるとき
何故こんなにも可愛らしく見えるのかが彼にはわからない。
そして彼女が、彼をどれほど思い、どれほどその心うちを感じ取っているか。
それもまた、エルゼリオはわかっていない。
彼女は彼の胸の温かさを感じながら
同時に彼の彼女に対する一種の疎外感がどこから来ているのか、
それを知りたくてたまらなかったのである。



今まで彼女にはどんな男も振り向き、
その白い手の甲に愛撫し挨拶し、吐きそうなほど贈り物だなんだと
さまざまなプレゼントを用意した。
けれど、それが一体なんだというのだろう。
彼女にとってこの毎日が享楽の渦中にあることは
当たり前といっても過言ではないし
当然といってもよい。
ごく自然の成り行き。
強いて例えるなら地上に林檎が落ちるような行為
とでもいえよう。

けれど、どこかで心がうずくのは何故なのか。

彼女はさまざまな愛とモノに囲まれながら考える。
それは当然、彼女が本気で愛したいと思った存在を見つけていないことにあった。

でもついに!

彼女は彼という存在を見つけたのである。
美しく若々しく、どこか言いようの無い無邪気さとともに
陰のある男。
彼は今やその手腕を買われ、国王の側にも並ぶことのできる存在でもあり
同時に彼の叔父は他国の王であるという高貴な存在。

まさしく私の夫でなくて誰のものとなろうか!

彼女はそれこそ、本当に欲しかったおもちゃを手に入れた子供のように
彼の側に近寄っていった。
しかし・・・
どこか、彼女を避けるそぶりを見せる。
それどころか、彼女以外の社交界の女達にも見向きもしない。
当然男が好きだ、といったことも態度からは考えられそうに無く、
高貴な身分に相応しい礼節を心得ている。

けれど彼には隠したい何かが、ある。

彼女は女の直感でそれを感じ取っていた。
彼が本気で愛している誰か。
それを確かめたい!そして運よくつきとめられたのなら
それを粉々に砕いて、潰してやりたいと願った。
そして標的を抹殺したとき初めて彼女は、
心から誰かを愛し、愛される存在になると確信していたのである。



「アルアドネル嬢。いずれまた社交界で会いましょう。
けれど今日は・・・。」
「今日は、なんですの?なにか大切な用でも?」
彼女は子供が問うようにせがむ様子をみせたが、あくまで彼を冷徹に観察していた。
エルゼリオはかすかに動揺するが、ため息を吐く。
「いえ、たいした用では・・・。しかしこれから耕作地へと赴こうと思っていましたので。」
「まあ!耕作地ですの!?あの泥をこねて遊んでいるような・・・。
私のお父様はよく言ってますわ!
『小作人ときたらろくに仕事もせず、給金をふんだくってたいした利益も出さんのだ。
作物の育て方はなっとらんし。まったく。』なんて、ぐちをこぼしますのに。」
「アルアドネル嬢・・・。」
かすかなため息とともに彼は、彼女の肩をつかんだ。
そっとひきはなす。

耕作地でフェイティシアにつれそって遊んだことは、今でもよい思い出である。
耕作地を耕す農民達は、みな人がよく
たとえどんな嵐がこようとも、どんな水害があろうとも
できるだけ多くの作物を育たせるよう最善の対策をし
地道な、血のにじむような小さな努力を重ねている。
その中から、領主が暮らせるだけの利益を儲け
領主の機嫌を損ねないよう取り分をもらわねばならない。
彼の父は良くできた人で、勿論彼もまたそれにならった。
フェイティシアは、農民の何たるかを口にすることは決してなかったが
農地にかかわり指導する立場であった彼女が
農民達に大変な気を使っていたことは、幼心に理解していたのである。

それを・・・。

「どうか、アルアドネル嬢。この場は御引き取りください。後日あらためて・・・。」
「いやです!」
アルアドネルは口にした言葉が彼の機嫌を損ねたことを、すぐに感づいていた。
このまま引き下がるわけにはいかない。
どうしても、彼の陰にいる誰かを突き止めなければ気がすまない。
「わたしも・・・。」
彼女は少し考えて、ゆっくりと言葉を口にした。
「わたしも耕作地へまいりますわ!一度、見てみたいと思ってましたの!!」

・・・。

呆然とするエルゼリオの側から、彼女は自分の馬車を呼びつけて
早速彼の腕に自分の華奢な腕を絡めた。
「いきましょう。いい気分転換ですわ。さあ!馬車をだしなさい!!」
召使いという存在を人外の生物のように扱う彼女は、生粋の社交界の人間といえた。

どうしようもないまま、エルゼリオは馬車の中、流れる風景を窓から見ながら考える。
空は曇っている。
彼の心もまた、同様の色をしていた。



馬車に揺られながら、彼は密かに下唇を噛む。
苛立ち。
つまりは召使いに振り回されているという事実でもある。
アルアドネル嬢を見る限り、社交界に暮らす人々は召使いのことを人とは思っていない。
まるで空気のような存在、とでもいおうか。
食事を運び、室内を衛生的にし、そして服を召しかえる手伝いをする。
よく聞く社交界の俗な話の中には
召使いを妾とし、密かに子供を産ませたというものもある。
召使いとは上流階級の人間にとって、
彼らの気を紛らわせるような玩具であるともいえる。

フェイティシアは・・・。

彼は子供のころのことを思い出していた。
召使いでありながら、どこか姉のような存在でもあり
同時に母のような存在でもあった。
けれど、同時に別の存在でもあった。
決して手に入れられないもの、というイメージ。
どこかはかない存在。
弱弱しいとまでは言わないが、水のような存在とでもいおうか。

嗄れた喉を潤してくれるような存在。
いつから、彼女に惹かれたのかあやふやだが
それでもいつからか、どうしようもなく意識する存在になっていた。
側にいると嬉しくて、抱きつきたくて、離れたくなくて・・・。
そしてどうしようもないほど自分が子供であることを自覚する。

何故、大人の身体ではないのか。
抱きしめれるほど、長い腕を持っていないのか。
彼女に抱きしめられるたび、どうしようもない失望が彼を襲ってきた。
それはたとえ虫をとって遊んで、駆けつけて彼女の胸に抱きついて
笑顔でどのように遊んだかを語るときでさえも・・・。

けれど、いまは叶う。

身体はもう小さくはない。腕も彼女の細い腰を抱けるほどある。
それなのに、「抱けない体だ」との告白を受け、
彼の心の底からの告白は、そのときを境に消えてしまった。
いや、
消えてはいない、けれど消さねばならなかった。
壊れるというのなら、大切に扱うほかは無かった。
どうしようもない。
そう自分に言い聞かせる。


本当は狂わせるほど求めたいと切望していながら・・・。


ぎりぎりの均衡で、彼の理性と欲望はあった。
どちらかがバランスを崩せば、何かが崩壊する。
そんな危うさ・・・。

馬車からしずかに変化する景色を眺めながら
この馬車が彼女の元に到着するときを予想する。
多少の不安。そして期待。
不安はフェイティシアの彼に対する拒絶である。
浴室で見せたときのような、拒絶。
けれどまた、それは期待とも考えられる。
隣に座るアルアドネル嬢への嫉妬。
そして彼を男として求めてくれる、彼女の心の奥深くにある彼への恋心。
そんなものが確実にあるのかどうかはわからない。
けれど、期待したい。
期待・・・そして不安。



馬車は、彼にさらなる無残な仕打ちを与えるように
耕作地にたたずむ保養地へと到着した。







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