「雨に濡れて」
耕作地に華やかな香水の香りが満ちたのは、
馬車から降り立つ高貴な女性の存在があったからに他ならなかった。
目の前に降り立った、あまりに場違いな存在に
農民達はどよめき、
フェイティシアは呆然とする。
彼女の手をとってささえる主人の姿でさえ
恐ろしいほど高位の存在であるように思えた。
あのこどもだった彼が・・・。
けれど彼の第一声はその場にそぐわず、かなり控えめなものだった。
「・・・すこし見にきたくて。フェイティシア。
こちらはアルアドネル嬢。社交界では有名なひとなんだ。」
いたずらを見つかった気まずい子供のように話す癖。
思わず顔がほころびそうになる。
安堵を無意識に感じて
「まあ。」
と口をついてでた言葉は、やさしいものだった。
エルゼリオはかすかに安心する。
フェイティシアは軽く会釈をすると、側にいた耕作人達に仕事に戻るよう継げた。
給金の話をしていたところで、あまりに身分の違う存在が
耕作地に降り立ったことで、耕作人の間では妙な空気が生まれている。
妬み・・・そして憧れ。
決して届かぬものへの・・・。
それを肌で感じ取って、フェイティシアは急にせつなくなった。
自分もまた、彼らと同様の身分であること。
そして、主人の横に並ぶような存在にはなれないという絶望。
いや・・・。
彼女は目をつむり、たった今一瞬でも脳裏をよぎった邪な考えを払拭した。
決してそのようなことは考えてはならないのだ。
主人の横に並ぶなどと・・・。
私は召使い。
主人に絶対的に仕えることが仕事なのだから。
人形のように、無機質に、存在は空気のように、あいまいに。
けれど
フェイティシアはそっと、華やかな二人を見つめた。
若い主人は、美しい女性の手をとって絵になるような雄雄しさを感じさせる。
彼女の手の暖かさを、彼は好ましく思っているのだろうか。
ふたりは、もう・・・
そんなことがフェイティシアの心を満たしそうになって、
おもわず彼女は両手をぎゅっとにぎった。
子供のころの彼の姿は全く見られない。
いたずらっぽい笑みも。
今は大人びている。
もう、手には届かないのだ。
胸に飛び込んでくることも、はしゃいではじけそうな笑みを見せることも・・・。
胸が張り裂けそうになる。
叫びたい!心の底から、二人を目の前にして
『わたしはもう、ここにはいたくないのです!』
『変わってしまったあなたを見るのが私は・・・』
こわい!!
遠くへ、触れる指先がするりと離れていくときの
温かみが失われたときの
絶望ににた感覚が、彼女の身体に絡んだ。
かすかにうつむいた彼女の様子を眺めて
エルゼリオは目を細める。
まだ、彼女の心はわからない。
嫉妬、してくれているかどうか・・・。
けれど、彼女の伏せた長いまつげにかすかな拒絶を感じて
彼は自分の立場に舌打ちをしたい気分だった。
彼女が嫉妬してくれるどころの話ではなく
完全に彼の手を離れるような危惧を感じた。
自分ひとりでフェイティシアと話すなら、勝算はあった。
それが・・・。
「フェイティシア。」
と話しかけるエルゼリオに、彼女は少し小声で言葉を紡ぐ。
「ご主人様、今日はあまりお天気も良くありませんし、どうぞ馬車でお戻りください。
もうすぐ雨が降ってくるでしょうから。」
ここは、もうあなたがいらっしゃるような場所では・・・。
無言で彼女はそう彼に諭していた。
彼女の中では微かに、自分の中にある思い出が
今現在の華やかな二人の出現で壊される恐怖を感じていた。
現実を突きつけられる。
少し息を呑んで、彼はかすかにうつむく。
彼女の言わんとしていることは、察しがついていた。
この場所に来ることは、もうありえない年齢の彼だからこそ
彼女はこの場所に逃げたのに・・・。
追いかけずにはいられなかった。
追いかけて、あの浴室での彼女の感情の変化を
どうにかして変えたかった。
再び側にもどってほしい。どうか・・・。
そのために来たのに。
「まあ、雨が降ってくるなんてわかるものですのね!素敵な召使いですこと!」
アリアドネルは嬉しそうにエルゼリオの腕に抱きつくと、刺すような視線をフェイティシアに浴びせた。
エルゼリオは一瞬焦る。
彼女にこんな姿を見られることを拒む自分がいる。
そしてまた、彼女の反応をみたいと思う彼もいた。
しかし、その思いは彼女を見て打ち消された。
ほほえましい二人を、見守るような表情をする。
召使いとして。
そんな表情が見たいわけじゃない!
彼は目線をそらして農民達とその向こうに広がる広大な土地を眺めた。
彼の心の叫びも、彼女には届かない。
隣の令嬢は、エルゼリオの視線と態度から目の前の女召使いが
彼の何かに歯止めをかけていることに気づいていた。
彼が好んだ女。
そう思って召使いを細やかに観察すると、
社交界にもそうはいないほど美しい存在だと気づいて、はっとする。
化粧をすれば、皆が手の届かないほど美しい女に変身してしまうかもしれない。
いや、その白い肌には化粧など必要ないだろう。
決め細やかな肌。長いまつげが、瞳を飾って
唇はうるんだルビーの深い光のようでもある。
細い腕や繊細な細工ににた指のかたちから
柔らかく豊かな胸の曲線。
アリアドネルに強い嫉妬の感情が芽生え始める。
勝てないとはいわない。言わない、が・・・
もって生まれた形を、とりかえることなどできないだろうから・・・。
こんなに美しい召使いを彼が特別に思わないはずがない。
カマをかけてみよう。
そう思って、アリアドネルはこの言葉を強調したのである。
「素敵な召使いですこと!」
「そうなんです。フェイティシアは・・・。」
遠くを眺めてふと、腕にまとわりつく隣の彼女の言葉に彼は思わず反応した。
嬉しそうに彼はアリアドネルに語ろうとして、口をつぐむ。
高慢な笑みがアリアドネルの顔に表れていた。
彼女は無言でこう言っているのだ。
「あら!たいそう自慢の召使いなのですこと!!
そんなに嬉しそうにあの女のことを語りたいんですの?」
突然エルゼリオは、フェイティシアに対する感情を知られることを危惧していた。
この感情は、フェイティシアだけが知っていればいい。
たとえ領地の人間であり、彼の執事であっても
召使いへの恋を知られれば、二人の立場が危うくなる。
たとえ彼は領地の主人として、立場を保てたとしても・・・
フェイティシアは・・・。
引き離される。
ただでさえ、彼女が自分から遠ざかりそうな危険さえあるのに。
離れてほしくない。
そばにいてほしい。そして
自分の気持ちを、受け止めて欲しい。
エルゼリオは、ちょっと咳をしていつもの彼、
社交界で見せる表情へ顔を戻した。
アリアドネルはそれを見て、微かに不満を覚える。
ひどく珍しい表情だったのに、それを隠してしまうなんて
やはりこの召使いのせいだわ・・・。
彼はこの下等な身分の女にだけ、こんなに素敵な表情を見せる。
彼女は下唇を噛んだ。
「やっぱり違うんですのね!毎日こんな場所で泥遊びをしていれば
お天気のことも判るようになるってものなんですのね。」
からからと笑って、「ねえ?」とエルゼリオに同意を求めるアリアドネルは、
小悪魔的な笑みを見せる。
エルゼリオは同意できない心持ちでありながらも
彼女という存在に対する礼儀として、かすかに相槌をうった。
フェイティシアは、その一部始終を見ていながら、
どうしてよいかわからなくしている。
ただ、耕作人と自分を侮蔑の目で見ていることは明らかで
慣れない気持ちに、体が冷たくなり震えるような心持である。
この場から去りたい。はやくはやく!!!
「では、馬車にお戻りください。アリアドネル嬢。
私はしばらくここに残らせていただきますので。」
エルゼリオは当たり障りの無い言葉で、体よく彼女を追い払うことにした。
一刻も早く、フェイティシアの気持ちが知りたい。
聞いて、話して、触れたい。
もう数日会っていなかった彼女に、同じことの繰り返しでもかまわない
自分の気持ちを伝えて
できることならもう手放すことなく、
ずっと捕らえていたい。
閉じ込めてしまいたい。
彼の心の中は、そんな感情でいっぱいになっていた。
子供のころ、彼女のもとに走っていって抱きついた。
あのときの感覚。
ずっとそばにいてほしい。
だきしめて、離れないでいてほしい。
嫌いにならないで・・・!
忘れないでいて!!
しかし、大人になった彼の心の中では、もう一つの感情も生まれていた。
召使いという身分の彼女が、主人に逆らうなどと・・・。
かすかな痛みに似た怒りが心の底にある。
本来なら、社交界でも噂されていた
召使いに子供を身ごもらせたという
下世話なあの話のように、
権力を行使することもできるはずなのだ。
けれど、抱けない。
彼女の体が、彼女が言うように本当にもろく崩れるようなものだとしたら・・・
医者にみせて、一時の健康を保障されたとしても
不安は尽きないだろう。
不安、焦り、そして怒り。
さまざまな感情があいまって
冷静にフェイティシアを見ようとしているエルゼリオがいた。
だからこそ、ふたりになりたい!
彼の気持ちは、表情にあらわれない心深くで張り裂けそうになっていた。
「いやです!」
と彼の思いをさえぎったのはアリアドネルだった。
彼女は、彼とこの得体の知れない召使いの二人にさせることが
たまらない不安を掻き立てられることに気づいていた。
「まだ散歩をしましょう。エルゼリオさま。
こんな召使いの言うことでお天気は左右されませんことよ。」
そういうと、フェイティシアに手持ちの日傘を乱暴に渡した。
突然のことに、彼女は日傘を落としそうになる。
エルゼリオはとっさに彼女を助けようとした、が。
ぐい
と腕をアリアドネルに引っ張られた。
「ちゃんと持ちなさい!召使いなら当然でしょう?なっていないのね!」
冷たく突き放す、高位な存在特有の棘を感じさせる言葉。
「いきましょ。エルゼリオさま。」と可愛い声で彼に話しかけながら
振り向いて吐き捨てるように言う態度は貴族特有の冷酷な雰囲気をもっていた。
「ついてくるのよ!召使い!!」
めしつかい。
フェイティシアは森に入っていく二人の後を、静かに追った。
めしつかい。
彼女の心の中で、くりかえしその言葉がちくちくとした痛みを運んでくる。
いっそ、彼が「めしつかい」と突き放してくれたなら
自分はこんなに苦しい思いをしなかったのではないだろうか。
そんな思いに囚われる。
子供のころから、ただめしつかい、と。
『フェイティシア!』
一瞬、
子供のころの彼の笑顔が鮮やかに目の前に現れて
彼女はどうしようもなく泣きたくなった。
涙がこぼれそうになる。
目の前の二人は、まるで別の世界を歩いているように
絵の中にいるように
うつくしい。
綺麗な、とうていフェイティシアの手には届かない服を身に纏い
ともに黄金の髪を風になびかせている。
子供の彼が、自分の胸に飛び込んできたときも
あのやさしい色の髪が、ふわふわとなびいていたことを
彼女は鮮明に思い出していた。
やわらかい香りがする髪。
けれど、今はもうその香りもない。
あのころの少年は、もうその小さい身体を彼女に預けることはなく
ほかのひとと
腕を組んで、あるいている。
この森の獣道を二人で歩いたことも、彼女は鮮明に記憶していた。
今、目の前で歩いている二人のように
自分もまた昔、遠い日に小さな彼の手をにぎって歩いた。
それがすべてズタズタに引き裂かれる。
もう、二度と、もどらない。
彼女は、
歩くことを
やめた。
かすかにアリアドネルは振り向いて、
一人森にたたずむ召使いを確認した。
こうして彼と歩くところを、彼女は見せ付けたかったのである。
お前には
このひとは
手が届かないのだから。
そっと、強く彼の腕を抱いて、彼女は心の中で笑った。
突き飛ばして、思う存分痛い目を味あわせてやろう。
それは彼女の心の中の不安を拭い去るための、唯一の方法でもあった。
誰かを虐げ、思うが侭に動かして快楽を得たい。
彼女の心の中は、楽しげにフェイティシアの行動を見守っていた。
ふと、雨が降り始めた。
エルゼリオははっとして後ろを振り返る。
彼女が、雨にでも濡れてその身体を壊したなら・・・!
背筋が凍った。
恐ろしい、未来の予感。
彼女の死。
はなれる。いなくなる。
きえてしまう。
森を出た彼が振り返ったそこに
彼女はいない。
「フェイティシア!!」
その声は、彼が昔彼女の胸へ飛び込ぶまえの叫びとは
似ても似つかないほど悲痛に満ちていた。
思わず森へ戻ろうとする彼に、隣の彼女の腕が絡みつく。
こまった顔で、
「わたしは?あの召使いよりも身分の高いわたしを置いていくの?
こんな雨の中に!!」
と、訴えている。
けれど、彼女はまだ森の中にいて・・・。
雨に濡れていて・・・。
はなれてしまう!!
彼は思わずその腕をあらん限りの力で振り払いたくなった。
が、
「エルゼリオ様。」
と馬車に乗って現れたのは執事だった。
彼は二人に傘を差し出すと、タオルを渡す。
エルゼリオは助かった、という気持ちを表してため息を吐いた。
「助かった。彼女を頼む。」
馬車にアリアドネルを乗せ、その場を離れようとする彼に
執事は静かにこういった。
「そのような任は私には・・・。
どうか屋敷へお戻りください。エルゼリオ様。
私がフェイティシアを迎えにいきますので。」
絶句するエルゼリオは初めて苦い表情を表に出した。
身分の違いは、こんな彼の一つの行動にすら制約を与える。
主人はあくまで、召使いに仕えられるもの。
召使いを思って主人が行動をおこすなど・・・。
常識的ではない、か。
心の中での冷静な部分が警告をする。
「お前は主。
お前が召使達の生活をにぎっているのだ。
しっかりしろ。」
それは、父の言葉でもあった。
彼女が、自分のもとからはなれていく。
彼は馬車に乗り込むと、執事の肩に手を置いた。
「たのむ。」
全ての彼の感情を、その手に注いで、彼は馬車を出した。
隣に座るアリアドネルが、微かに勝ち誇った笑みを見せた。
*
森の中では、静かに雨の音が響いていた。
かすかな草の香りが、彼女を落ち着かせる。
思い出がめぐって、いつの間にかつめたくなった身体も
まだあのころの木漏れ日の中にいるように、寒さを感じない。
もう戻らない。
そして、これからも絶対にありえない夢。
「フェイティシア。」
ふと、執事の声に彼女は濡れた頬の辺りのをぬぐった。
雨は静かに降り注いでいる。
「わざわざ迎えに来てくれたのですか?叔父様」
「ああ。だいじょうぶかね?」
その問いには、どのような意味まで含まれていただろうか。
我々は、めしつかいなのだから・・・。
「ええ。」
とあらん限りの晴れやかな感情を表情に出して
彼女は微笑んだ。
「わたしは、この近くの耕作地へ向かいます。
まだ、仕事が残っているの。」
「そうか。気をつけなさい。」
「はい。」
手渡された傘をにぎって、彼女は叔父のそばからはなれた。
一人になりたかったからでもあった。
まだ、雨に濡れていたい。
彼女は歩きながら、目の前に広がる暗雲を無表情で眺めた。
そっと、彼女の頬を再び流れ濡らす雨は、しばらくやむことはなかった。
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