「雨に濡れて」




もう、三日経つ。

豪華な、本棚を壁一面に備えた書斎で、
ぼんやりと立ちすくみ
苛立ちを抑えながら彼は、目線を床に落とした。
口元に手をあて、かすかな動揺を隠そうとする。
部屋に彼以外に人は見当たらない。

もちろん、召使いもいない。

特定の、召使いもいない。

それが、彼の苛立ちの原因であった。

書斎の、美しい色彩を振りまくガラス細工のランプの横には
散らばった書類が山積みになっている。
握りつぶされた紙くず。
倒れたインク壷からは、残り少ないインクが流れ出て
あわや重要な書類すらも、濃い黒に染め抜こうとしていた。

「くそっ!」

そんな呟きを漏らして、エルゼリオは身体を勢いよく
そばにあるソファーに投げ出した。
別荘へ向かった日から
全くといっていいほど、フェイティシアの姿は見えない。

彼はぎゅっと瞼をとじると、眉間にしわを寄せ、記憶をたぐる。

この前、あの浴室で彼女に触れ、そして拒絶されてからもう一週間ほどだろうか。
耕作地では、森に彼女を取り残し
いや、彼女が自分を避けたからかもしれないが・・・
それから、一度もその姿を見ていない。
まだ、別荘にいるのだろう。
この屋敷の中にも、彼女の姿は見当たらなかった。

いつも、彼女は屋敷のどこかにいて、少し探せば見つけ出すことが出来た。
子供のころは、もし朝起きて、彼女がそばにいなければ、
この広大な屋敷を走って
探し出すことが日課になっていたほどだ。

見つけると、
「フェイティシア、みつけた!」
といって、かくれんぼの鬼になったように叫んだ。
彼女はそう叫ぶと、いつでも微笑んでくれる。
その微笑が、どうしようもなく大好きで、彼は彼女に飛びついていた。

温かな体温と、少し細い指で
そっと彼の髪をなでてくれた。

子供のころの記憶に、彼は苦笑する。

数日前までは、彼はその記憶に勝るほどの現実を掴もうと
浴室で彼女を抱きしめた。

拒絶の色が見えた彼女は、もう昔の彼女ではないのだろうか。

しかし、彼は諦めようとは思わなかった。
ほんの微かな、見えにくい仕草に隠された本音を見つけたくて、

自分を好きだと思ってくれていることを願って。

彼女に、わかってほしくて。
そして受け入れて欲しくて。

彼は浴室で感じた感覚を思い出していた。

流れる髪が、しっとりと彼の手のひらに感じられたこと。
ひどく柔らかな体をしていると押し付けた唇で感じたこと。
肌が白く、頬は微かに紅色に染まっていること。
そして
そして表情はいつも、どこか哀しげで・・・。

いまも?

それとも、微笑んでいるのだろうか。

と、彼は思うと苦しくなる胸を押さえた。
自分に会わないことが、彼女の喜びなのだろうか。
疑心暗鬼に駆られて、どうしようもない焦燥がうずく。

会いたい。
会いたい。
あいたい!

何度も何度も繰り返して、彼は突然身体を起こした。
ならば、会いに行けばいい!!
なぜ、行動しない?
すぐにでも、今すぐにでも。

しかし、後ろ髪をひく原因は書斎の机の上にあった。
書類。
そして、差し迫った期限が明日の夜の社交界での
密かな集会までなのである。

会えないから、仕事が進まない。
書類が片付けられないから、会えない。

どちらにせよ、彼の心境はぐらぐらと絶え間なく揺れ動いた。
おかしくなる。
おかしくさせられている。
この気持ちを、彼女は知らないのが、
それとも知っているのか・・・

フェイティシア!!

いつになく苦痛にみちた表情で彼は、よろよろと書斎へと向かう。
彼の筆が進むまでには、いま少し時間がかかりそうだった。





「と、いうわけなのだよ。フェイティシア。」
執事のロイドは、別荘の一室にあるベッドの横の椅子に座っていた。
彼は背もたれに背を預けることはない。
長年の美しい姿勢が、彼に体が緩むことを教えないでいたためだった。
執事の鑑といえる男の表情は、皺を深くきざんで曇っている。
白い口ひげを指でもてあそぶ癖は、
身内にしか見せない彼の安らいだ心を表していた。

「そうなのですか。」

彼女は、だるい身体を少し起こそうとして
側にいる叔父に止められた。
「いや、そんなに酷いとは思わなかった。
どうか横になってくれ。私にかまわず。」

まくらを背もたれにして上半身を起こしている
彼女の頬はかすかに赤い。
もともと、彼女は体調を表情に出せない体質だったが
とくに召使いを見慣れた執事である彼には
彼女が身内であることを除いても
恐ろしいほどその具合の悪さが知れた。

三日前、雨に打たれてから
彼女は風邪をこじらせていた。
体調管理は万全のはずが、思わぬ誤算だと
召使いとしてフェイティシアは、自分を恥じた。

だからか、無理をして体を起こす必要がある気がした。
かすかに間接が痛む。
風邪に特有の症状だった。

「大丈夫。まだ熱はあまりありませんから。」
「いや、早く横になりなさい。」

見かねた叔父は彼女の肩をそっと掴んで、
まくらへもたれさせた。
夜着の布を通して、彼女の体の熱が彼の手に感じられた。
そんな病人の彼女の表情は、少し困っている。
もともと、執事である立場上
召使いの彼女には少し突き放して接していたが
身内だけとなると、めっぽう弱くなる彼のくせを
彼女は微笑ましく思っていた。

ただし、そのようなときこそ
彼が無理難題を持ってくるということも知っている。
彼が出来ない仕事を。

「エルゼリオさまは・・・明日までに・・・?」
「ああ。明日の夜までには、気持ちを切り替えてもらわねばならん。
ご主人様もそれをわかっていらっしゃる。
しかし、どうやら環境が違うと弱くなる性質であられるようでな。」
「・・・。」
「お前を、心の支えにしているのだろう。乳母の一人として、昔から。」

「乳母として」、と聞いて彼女は思わずどきりとする胸の疼きを抑えた。
目の前にいる叔父は、エルゼリオのフェイティシアに対する気持ちを
知っているのだろうか。
あるいは、知らないのか。

彼からの告白。そして、拒絶と嘘。
「抱きたい。」
との彼の真摯な訴えに、
「そのような扱いに耐えることはできません。」
と、嘘を突き通している。
そして彼女は誰にも話すことなく、このことを胸のうちに秘め続けている。
と、
記憶が突然あふれ出して、彼女の心を占領した。
真っ赤に染まる顔の熱を感じる。

抱きしめられたときの、
唇がそっと、首筋に押し付けられたときの感覚が
急に蘇って言うことを聞かなくなった。

熱が、押さえつけてきた感情を開放しそうになっている。

あわてて、毛布を引き上げると、顔を隠した。
恥ずかしい。
恋しい。
けれど

どうしようもない。

だから
泣きそうになっている。

「・・・フェイティシア。すまんが・・・」
「ええ。わかってますから。」
「私が、馬車までお前を運ぶよ。明け方に、行こう。
行ってくれるか?」
「ええ。」

彼は、立ち上がると毛布からのぞいた頭を撫でた。
夜深い窓が、微かに音を立てて
外から冷たい風が流れていることを伝えていた。





「だめです!ぜーったい!!」
どーん、と廊下に立ちはだかって一人の少女は叫んだ。
毛布にくるんだフェイティシアを抱えた初老の執事は
思わず呆然として歩を止める。
腕を組んで、短い髪がいかにも活発さをあらわしている召使いは、
鼻息を強く噴出した。

「フェイティシアさまは、お風邪をひいていらっしゃるんですよ!?
そんなことも解からないでいらっしゃるんですか?
執事の名が聞いてあきれますわ!
全く人をなんだとおもっていらっしゃるのですか?
たとえ、叔父様であろうが神様であろうが、何様であろうが
ここを通すわけにはまいりません!」

全く舌をかまずに一挙に言いあげた彼女は
片手に持っていたモップの柄を、見事に突き出して見せた。
まさに「戦え!いますぐに!!」というような意気込みである。

「ライジア。・・・もう少し静かになさい!
フェイティシアさまのお体に触ります。」
執事の後ろを歩いてついてきた、別荘の管理人は叱咤した。
「あっ!」と両手で口を塞ぐと、ライジアはモップを派手に落として
さらに大きな音をたて、それに慌てた。
管理人は額に手を当て、いましも気絶しそうな体勢をつくる。
執事は、かすかに片眉をぴんと跳ね上げただけだった。
くすくすと笑っているのはフェイティシアだけである。

「ご、ごめんなさい。フェイティシアさま。
そうですよね。お風邪のときに大声なんて不謹慎・・・
ああ、いっそこの場でどんなお叱りも受けます!
ですから、ですからどうかこんな寒い中をお出かけになられるなんて。」

「いいのライジア。叔父様、おろしてください。」
「・・・そうか?」

毛布を彼女の肩にかけ、廊下に立ったフェイティシアは
もうすでに、いつもの服を身に着けていた。
「少し眠ったから、ずいぶんよくなったの。
だから、大丈夫。」
少しずつ、確実に歩を進めながら、フェイティシアは微笑んだ。
そのさまは、その場にいるどの人間が見ても
かなりの痛ましさを覚えずにはいられないものだった。
彼女は普通に歩いているようでも、
周りが見れば、かなり不自然に、なおかつゆらりとよろめいている。

少し視界がくもって、フェイティシアが倒れそうになると
悲鳴をあげる前にライジアは、彼女の身体を抱えた。
「おねがい。いかせて。」
「でも・・・。」
悲痛な、かすかな声はライジアの決意を
いとも簡単に変えてしまう力を持っている。

ライジアは、フェイティシアに拾われた少女だった。
それまでは、親がなく路上で生活していた子供時代を過ごしていた。

だからこそ、召使いという仕事と三食食べられる環境を与えてくれた恩人を、
子供のころから忘れることはなかった。
ご主人様に仕える時間のために、
フェイティシアに会える時間が、限られているときもあったが
それでも、ライジアの心にはつねにフェイティシアがいた。

「わかった。ライジア。お前も来なさい。
フェイティシアの補佐を頼む。」

執事の一言に、ライジアの表情はぱっと明るくなった。
フェイティシアは、申し訳なさそうに彼女を見たが
人一倍元気に、ライジアは胸を叩いた。
「わかりましたっ!」
「ただし、ご主人様にフェイティシアの病状は話さないように。」
「ええーっ!」

突然むくれるライジアに、どうしようもない不安を隠せない執事と管理人。
すかさず釘をうっておく。
「我々の目的は、ご主人様の不安定なお心をどうにかするために
フェイティシアを送るのだよ。
もし、フェイティシアが病気だとしったら、
ご主人様は酷く不安がって、それこそ仕事ではなくなるのだから。」
「だからなんなんです!?
ご主人様のあまえんぼっ!ムカつく!ムカつくっ!」
「これっ、はしたない!」
と管理人が癖でつい躾けのお叱りを飛ばす。
「一日だけよ。明日の夜まで・・・だから。」
「ほんとうですかっ?フェイティシアさま!
わかりました!期限すぎたら、もう連れ帰りますからね!
っていうかむしろ奪い去りますからね!
略奪ですよっ!?いいですねっ?」
「・・・ええ。」

また病人の側で、大声で話していることに気づかないライジアに
執事と管理人は深いため息を吐いていた。
フェイティシアは微笑を絶やさず、ライジアの言葉のひとつひとつを
静かに受け取っていた。





朝日が窓から漏れると、書斎の上につっぷした
金髪の男は鮮やかに染めあげてられていた。
眠ってしまったのだろうかと、そっと扉を開けてフェイティシアは
書斎に足を踏み入れる。
隣の部屋では、ライジアが部屋の豪華さに呆然として
振り当てられた、フェイティシアの日課である仕事を
忘れそうになっていた。

ベッドに横にならずに・・・。

と、微かに若い主人の体調への不安を考え、
フェイティシアはソファーにかけてあるひざ掛けをそっと取ると
眠る主人の肩にかけた。

指先が、彼の肩に触れた。
数日振りの主人の体温を、一瞬で彼女は吸い取ったように思った。
熱だからか、ひどく過敏になっている。
顔を赤く染めたまま、彼女は困った顔で心の中に生まれた動揺を
隠そうとした。

とたん、彼が飛び起きた。
一瞬にして、彼女の眼に鮮やかな新緑の瞳がとびこんできた。

驚くフェイティシアは、動かずにいる。
寝癖をはねさせたまま、彼は横に立つ彼女を凝視した。
目を見開いたまま、
朝日に照らされた彼女の鮮やかな全身を見つめる。
けっして夢ではないことを、彼は願った。

「フェイティシア。」

その、つぶやきに似た言葉に、彼女はそっと微笑んだ。

「はい。」

彼女の笑顔に満足して
どうしようもなく微笑むと、椅子に座ったまま彼は彼女の腰を突然抱きしめた。
額を彼女の豊かな胸に押し付ける。
抱きついた子供のような金髪の位置に、
彼女は微笑まずにはいられなかった。
たとえ、彼の大きな腕が自分の腰いっぱいにまわされていても
その香りが、大人びた男のものだったとしても、彼女には
子供のころの彼が、戻ってきたような感覚を覚えた。

対する彼もまた、これは夢ではないかと疑ったほどだった。
もし、このまま消えてしまうものなら、
捕らえて放さずに、抱き続けていよう。
そう考えをめぐらせたほどだ。

「あーっ!ちょ、フェイティシアさまがっ!」

と、突然の大声に二人は扉のほうへ視線をやった。

突然の叫び声に、第三者の視線を感じ
びくりと身体を震わせたフェイティシアに、
抱きついたままのエルゼリオは気がついて、うれしくなった。
いつになく、敏感な反応をする彼女が可愛く思えてくる。
そっと顔をあげて、彼女の表情をたしかめると
フェイティシアの顔は心なしか赤い。
戸惑いの表情。心の動揺が見え隠れする。

こまっている。

彼はそれを見て、いたずら好きの少年のように
急に彼女をいじめたくなって
どうしようもなく微笑むと
もう一度彼女の胸に顔をうずめた。

ちいさな罰。
自分から、こんなにも長くはなれていたことへの・・・

「・・・エルゼリオさま。」
かすかに放れるよう呼びかける彼女を無視して
さらに強く腕に力をこめた。

ライジアは窓から差し込む朝日の中の二人に
唖然としながらも、どこかで見とれていた。
どう、言葉にしていいかわからない。
この二人の間に、割って入っていいのかも・・・わからなかった。

「エルゼリオさま。」
と、本当に困ったときに出す彼女の声に
顔を半分彼女の身体にうずめたままのエルゼリオは
無表情で、少しむくれた子供のように口をすぼめて言った。
いっそ見せ付けてやってもいいくらいだ、といわんばかりだ。

「だれ?」
「ライジアです。今日はお手伝いをしてもらおうと思っています。」
「そうですっ!わたし、フェイティシアさまのた・・・」
体調がお悪いので、という言葉を飲み込んで、
ライジアはから笑いをしてみせた。

ひやりとしてフェイティシアは、しぶしぶ抱きつくのをやめたエルゼリオを見る。
イラついているときの癖、
ささくれをいじって、微かに傷ついている指を見てから
机の上にちらばった書類に目をやった。

あえて、目はあわせなかった。
合わせると、どうにかなってしまいそうなほど、
彼女はいつにもまして鼓動をはやくしていた。

今日は、しっかりしなくては・・・。

けれど、そのとたん彼と目が合って、
彼女は頬を染めた。
逃げるように、ライジアの側へ駆けるしかなかった。

「ライジア。仕事のほう、できそうですか?」
「ええっ!ばっちりですっ!さっそくやりますから、
フェイティシアさまはソファーでおくつろぎになってください!」
派手な身振り手振りをする彼女に、
「なかなか、上司思いの召使いだな。そのとおり。」
と椅子から立ち上がると彼女を追って、
すぐ後ろに迫った彼の手が肩に触れ、
フェイティシアはびくりと身体をすくませる。

「まったく!ご主人様といえども、フェイティシアさまに
甘えることはゆるしませんからねっ!
いいですねっ!」
たとえ主人であろうが、態度を変えないライジアに
「お前は誰に仕えてるんだ。それでも召使いか。」
と、くすくす笑って彼はフェイティシアを見る。
『妙なのをつれてきた』と、彼女に眼で訴えた。
困った顔で、彼の表情を追うフェイティシアを見て、ライジアには
二人が一瞬、絵か何かの恋人同士に見えた。
決して派手ではないのに、なぜか鮮やかすぎる雰囲気をもった二人。
思わず、見とれた。

そして、ぼおっとしている隙に、
エルゼリオに鼻先で扉を閉められ
ライジアがそのかん一瞬目に焼きついた風景を
あとで偶然だったと思うことにした。

強く引き寄せられるフェイティシアと
苦しそうな、けれどやっと大切な宝物を見つけることが出来たような
エルゼリオの表情を。





扉を閉めたとたん
片腕で彼女の身体を抱き、逃げないように捕まえた。
扉を閉めた手で、そっと長い髪に触れた。
彼女がいないとき、思い出そうとした記憶とは
やはり質感が違う。

ここにいる。
それが全て記憶より勝る。

突然捕らえられて、彼女はさらに顔を赤くした。
逃げようがない。
がっしりとした、彼の腕にとらえられ
体の芯がかっと燃えるように熱くなった。
熱にうかされるより、酷い。

「逃げたりして、冷たいな。フェイティシアは。」
髪を指先でもてあそんで、彼はそっと小声で耳打ちした。
吐息がくすぐる。
熱を帯びているからか、いつもより敏感になっている感覚に
彼女はどうすることもできずにいた。

「さっきも、あの浴室のときも。別荘に行ったときも。」
扉を閉めた手で、そっと彼女の髪を指ですいた。
触れられる髪ですら、背筋を這うような妙な快感がある。
彼の、聞こえてくる言葉が遠くに聞こえる。
心地よい波動で。

対する彼は、後ろから抱いたことを少し後悔していた。
彼女の表情が見えない。
どんな風に思っているのかが、わからない。
ただ、解かることは彼女の体が微かに震えていることだけだ。

「鬼ごっこしたいの?昔みたいに。見つける自信は、あるよ。」
明るく声を出して、微かに笑って彼は
彼女の震えが止まった瞬間を感じて、
すぐに顔をうなじのあたりに埋めると、つぶやいた。

「だけど、もう見つけたから放さない。」
「・・・!」

言葉に身体を震わせて、そのあとに感じる彼の唇の感覚に
彼女は意識が遠のきそうになる。
身体は寒くて、だからこそ彼の腕から、唇から感じる熱が
ひどく心地よい。

過剰な彼女の反応を腕から感じて、
ひどく楽しくなった彼は、しばらく唇で彼女の首筋をもてあそんでいた。

「なにしてたの?オレをほおっておいて。」

行為をやめると彼の顎は、彼女の肩に触れた。

もう、これ以上は・・・

と恥ずかしさで思いつめても、抵抗はできない。
それだけの力は今の彼女にはなかった。
だめだと解かっていても。
召使いという自分の位を理解していても。

だめ!

と心の中で叫んでいても!
どこかで、彼に会えてどうしようもなく嬉しい自分がいる。
それが許せない。

だからいつでも、泣きたくなるのに。

エルゼリオは、無言の彼女を再び強く抱きしめた。
たとえ、彼女が「抱けない」ほどもろい存在だったとしても
今はそのことを忘れていたかった。
いや、忘れずにはいられなかった。

なぜ、あんな別荘があるのか、とまで思った。
彼女に逃げ場所を与えてしまっていることが、腹立たしかった。
耕作地を回る彼女の日課にすら、苛立ちを覚えた。
そんなことは、後回しにして欲しかった。
いつでも、どんなときでも。
その時間だけ、彼女が部屋にいないと
いつでも彼は彼女の面影を探して、窓辺をうろついていた。
そして、いまもその癖は治らない。
窓辺に書斎の机を置いたのも、そのためだ。

窓から、外に目をやって
彼女が帰ってくるのを、待ちわびる時間の苦しさ。
どうやって、その思いを彼女にぶつければいいのか。

籠のうちに捕らえて、すぐそばにいて愛でることがてきる鳥のように
彼女を捕らえていたかった。
けれど現実は、彼のほうが籠に捕らえられている。
部屋から、窓の外をみつめていつもそんなことを思っていた。

再び目の前に現れたなら、 壊したいとばかり思いつめ、
おかしくなりそうなほど数日間を過ごしたからこそ。
だからこそ!

今度はもう放さない。

背後から強く抱きしめたまま、
首筋に顔をうずめて、彼女の肌を感じる。
こころなしか熱い気がしたが、彼女の圧倒的な質感に溺れた。
やっと、触れられたのだ。
一週間ごしに!

それからは言葉もいらなくて、ただ頬を彼女の髪にあてていた。
片手で、彼女の唇に触れ
なめらかな顎の曲線をなぞり、のどを通って、胸に落ちる。
それから両腕を胸の下のあたりにまわして、強く抱きしめた。

しばらく無言の時間が続いた。
二人とも、どこか心の隅で互いに陶酔していた。

フェイティシアは、このまま彼に身体を預けていたい感覚に囚われていた。
体が寒い。
しかし、彼の体温は服を通して温かい。
吸い付くように、熱を求めている自分の体を叱咤し、
彼女は召使いとしての自覚だけで、崩れそうな身体を支え
どうにか立っていた。

「エルゼリオさま。お仕事は・・・?」

と、ふと漏らす言葉に、彼は思わず身体を硬直させた。
「う?うん。」
と、曖昧な返事をする。
子供のころの癖で、こういうとき彼は視線を斜め下に落とす。
そして、左手で髪をかきあげるのだ。

けれど、彼は予想に反して両腕で彼女の身体を捕らえたままだった。
かすかに抱きしめる力が弱まっただけ。

「今日の夜なのでしょう?」
「ロイドが告げ口したのか!全く!」
「告げ口だとか、そんなことをいっている場合じゃないでしょう?」

あくまで昔からの保護者的な口ぶりに、彼は雰囲気が台無しだ、
と思わずにはいられない。

ああ、なぜ早く仕事を終わらせとかなかったんだ。
と彼は苦悩した。
彼女が帰ってきたときのために、彼女に触れるだけの時間を
さっさと確保しておけばよかった。

取り掛かりの遅い彼は、小さくうめいた。
「エルゼリオさま。」
と、ほとんど力のなくなった両腕から、体勢を変えて
彼女は彼の顔が見えるように、身体をまわした。

本当は、顔を見たくなかった。
見てしまえば、そしてもし、甘えた表情でもされてしまえば
彼女に勝ち目はなさそうな気がした。
とくに今日は・・・。

けれど、彼女がみたものは予想に反して精悍な表情の彼だった。
真剣な苦痛を浮かべ、彼女にまざまざと見せつけていた。
もう、わかっている。
そんな表情。
甘えることはない。
解決すべきことも、もうわかっている。

私を頼ることは、もうほとんどない。

そう悟ると、彼女は極端に不安になった。
居場所がなくなった気分にさせられる。

不安が表情に現れて、迷子の子犬のように見えたのは
フェイティシアのほうだった。
愛おしくてたまらない、彼が求めていた表情。

昔、彼女に初めて恋心を抱いたときも、
こんな表情を見せた。
年下のまだ幼かった彼に。
それを思い出し、エルゼリオは片手を彼女の頬に触れさせた。
彼女のために、この領地を支えていかねばならないとすら、思う。
そのためには、仕事をするよりほかはない。

自分を頼りにしている。
そんな瞳が、彼には嬉しかった。
子供のころ、いつも面倒を見てきた彼女は
頼られる存在ではなかった。むしろ、頼るしかなかった。

頼られたい。

強く思ってきたことが、今目の前で成就しようとしている。
けれど、彼女はそれをどう思うのだろうか。

「大丈夫。やるよ。だから、その前にオレを励まして。」
「励ます?」
「そう。」

彼はいたずらっぽい微笑をみせ、つい、と指先で
彼女の顎を軽く上にあげた。

どきりと胸が高鳴る。
自分の体が震えていることに気がついて、フェイティシアは彼から眼をそらした。
その仕草が気に喰わなくて、彼はすこしむかっとする。
「オレの仕事ができなくてもいいの?フェイティシア。」
と、妙な脅しをかけた。

「こんなことで・・・お仕事が終わるくらいなら・・・。」
と反論すると、
「なんで、しばらくオレのそばから離れてたの?」
と、言い返してきた。

召使いなのに。
ずっとそばにいたのに。

わかっているなら、その罪の重さを知って罰を受けて。

鬼ごっこで彼女が見つからなかったり、
あるいは彼との約束を彼女がわすれていたとき
「なんか大切なものを頂戴。」と、子供のころ彼はよく言っていた。

我儘をを聞くことが、彼女がやらねばならないこと。
交換条件みたいなもの。

それなら・・・?

と、一瞬彼女は思った。
そう、無理やり自分の中のなにかを納得させようとして
ぼんやりと彼を見つめた。

顔を赤くして、瞳を潤ませた彼女は、恐ろしいほどの艶やかさを秘めて
彼は吸い込まれるように
唇を、彼女のそれに触れさせようと頭をもたげていく。
彼女もまた、熱に惑わされたまま思考をしばらく停止していた。
体のどこかで苦しくもがくものを、一瞬にして解放しようとする力が働いていた。

もう少しで、触れそうになったそのとき

彼女はやっと事の重大さに気づいて
手のひらで彼の唇に触れて制した。

召使いとしてあるまじきことであること。
それ以上に、風邪をうつしてしまうかも知れない。
ここに自分がいることは、大きな賭けなのだ。
そう、彼女はうまく飲み込もうとした。

むかっとして、けれど制した彼女の白い手のひらの感触を
唇で感じ取って、彼は念を押すように言った。
「なんで?触れるなら大丈夫だろ?抱けなくても。」
「抱く」という直接的な表現に、あいかわらず体が震える。
動揺を隠そうと、視線をそらした。
彼は、あえていつもその言葉を使っている。
彼女の恥ずかしそうにしている姿が、どうしようもなく好きだった。

「そんなこと・・・それより」
「仕事。わかってる。だから先に頂戴。」
先になにを?という疑問を抱えて真っ赤になるフェイティシアに
エルゼリオはくくっと笑みをこぼした。
「じゃ、後に?仕事が終わったら、くれるの?」

なにか、大切なものを。

何をあげるのかは考えないことにして、彼女は小さくうなづいた。
彼に仕事をさせることが、彼女の目的でもあるのだ。

ふう、とため息をついて彼は彼女を放した。
かすかによろめいた彼女を、彼は見ていただろうか。
熱で、意識が遠のきそうになった彼女を。

「わかった。けど、この書斎からは一歩もでちゃだめだからな!
まったく、また逃げたりしたら・・・。」

にげたりしたら?

と、彼女はおぼろげに聞いて、うつむいた。
「そのソファーに座ってろよ。仕事終わるまで、待ってて。」
彼は、にこりと頼もしそうな表情を浮かべると、机へと向かった。
彼が見ていないことを確認して、彼女は重たくなった足を
書斎のソファーへと運んだ。

小雨が、降り始めている。
窓から外を見つめてから、
彼女はぼんやりと書類を片付ける彼の姿を見つめていた。
しかし
襲ってくる眠気と寒さに、いつのまにか彼女は逆らえぬまま瞼を閉じていた。

雨はしばらく止むことなく、降り続けていた。





へつづく

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(こちらは週1回)


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