「凍(こおり)の傷跡」








視線があうと、
目の前にたたずむ、壮麗な体躯の彼は
おどけた様に微笑んで見せた。


「まったく困った旅人だな。前代未聞だ。」


フェイティシアは困って、しかし返すように微笑む。
「バスローブを」
と、口にする前にてきぱきと動いて
彼の前に差し出した。

夜の闇が運ぶ空気には、独特のつめたさがある。


「・・・風邪をひかれると、旅をする体に障ります。」

彼の目を一瞬見つめ、
それからすぐに逸らした。
召使いとしてはできるだけ、
無防備な領主への配慮として視線は避けるべきだと、
この状況になってフェイティシアは思う。

一方エルゼリオは無言で受け取ったが、
彼女の思惑など気にせず
やわらかい手を一緒に引き寄せた。

「あっ。」

と小さな悲鳴があがる頃には、
彼女の体は彼の腕の中にある。
肌は湯からあがったばかりで、
ずいぶんと熱い。

やわらかい頬が、
彼の胸の辺りにあたった。

彼女の目の前にあるのは、
右胸を貫いたとおぼしき、痛々しい傷跡だった。
つたない縫い物をしたかのような、
糸で塞いだ跡は、
子供があわててつくった傷などとは
比較にならないほどの凄惨さである。

傷の周りの肉は、
いびつに盛り上がっていた。

生きようと足掻き、躍動した生命の軌跡。
それも、「恐ろしいほど」に、である。
それは醜く、定まらず、
目を背けたくなるほどの不均衡である。


だが彼女は、初めてその傷を直視したときから
彼の傷を誇りに思っている。


それは暗に、彼が領主だから
といった理由にはとどまらない。


彼が生きて帰った証のように、
その醜さこそ苦しさ、彼という生命の足掻きを
表しているように思えるからだ。


均衡や均整が、世の中のすべてではない。


地位や名誉、権力をもつことが、
世の中のすべてではない。


到達すべき目標でもない。


時々、それらを無心で信じさせてくれる存在が
彼女の前に現れた。

彼らは足掻く。
けれども、自分の足で立っていることこそ
人の本髄であるともいえると、
彼女は思う。

自立でなくとも、あるいはそうであっても、
手を貸す者であっても、手を貸される者であっても、
勝利を手にするものであっても、
あるいは敗者であっても。

愛する者であっても、
あるいは
愛される者であっても。

生きるものである限り、
彼女は絶望を信じない。

ただ・・・。


「・・・フェイティシア・・・。」

エルゼリオの声の響きは、低く甘い。
指の腹で、彼は静かに彼女の頬に触れた。
何度か、なでるように繰り返す。

この美しい召使いは、
彼の胸の傷を見ても一瞬たりとも臆さない。

ディム・レイの男達には勲章であっても、
女達にとっては目を背けたくなるような傷。

亭主のいる女房にとって、
いくばくかの恩賞しかでない傷に、
小さな土地とこれからの生活を支えてもらうことはできない。

彼の手に握られたバスローブを、
彼女はもう一度取り上げ、
彼の肩にかける。

「ローブを。風邪をひかれます。・・・旅の前ですのに。」

「・・・。」

彼は、身動きひとつせずに
彼女の腰を引き寄せていた。

「エルゼリオさま。」

「・・・。」

すねた子供の表情。

フェイティシアは、ゆるく微笑んだ。
今目の前にいるのは、
子供のころと同じ彼だ。

しぶしぶ、
エルゼリオはやっと手をはなすと、ローブを羽織り
フェイティシアを安心させた。


「エルゼリオ様!お客様は・・・。」

と、額の汗をぬぐって複数の召使いたちが
やってくると、
エルゼリオは「やれやれ」ともらし、ため息をついた。
せっかくいいところなのに・・・。

彼の心を読んでか、
フェイティシアの耳は、ほんのり赤い。

部屋へ入ってきた召使いたちの半数は、
男性だった。
主に力仕事を専門としている。
また、浴室の噴水を動かしていた者たちもいた。

半数の女性は、召使いでとくに医療チーム、
とでもいうのだろうか。
ライジアやナイルもいた。

どやどやと部屋へ彼らが集まり、
フェイティシアは驚く。
本来ならこんな風に、人々が動くことはない。
だが、前代未聞だったからなのか、
何が起こったのか、とにかくも
その場は一時騒然といった具合である。

「エルゼリオ様。」

と、人々の間をぬって、執事のロイドが現れた。
手には、エレンガーラがかついできた、ずた袋がある。

「これを。・・・これは一体・・・なんなのですか?」


そういってロイドは、不思議そうに顔を見合わせる
フェイティシアとエルゼリオの前で
その袋の中身をあけた。


妙な銀の器具が、おもちゃのように混在していた。
その形は、今までみたことのないようなものばかりだ。
ナイフのようなものや、あるいは何かをつかむためのものか、
何かの内臓でできた管のようなものもある。


「・・・これは一体・・・。」

「・・・ロイド、客人の個人的なものに触れることは、
一切禁じているのではないのか?」

エルゼリオは、眉ひとつ動かさないロイドが、
珍しく動揺していると嗅ぎ取った。

無理も無い。これらの器具は、人体を切開するときに使用するのだから。

とくにロイドは鼻がよい。
磨かれていても、器具から血の香りを感じ取ったのだろう。

周りの様子や話し声からも、
どうやらエレンガーラの脱いだ服からも、
妙なものが多数発見されたために、
召使いたちに噂が広がったらしかった。


あいかわらず、ぶっ倒れても人騒がせな男である。


「しかし、万が一エルゼリオ様の身に・・・。」

「心配するな、あの男はそんな気概があるような男じゃない。」

そして、ぱんぱん、と二度大きく手をたたいたエルゼリオは、
騒然としている召使いたちの注意をひきつけ、
同時に黙らせた。

「いいか。
客人の持ち物に興味をもつのはわかる。
だが、これはディム・レイに伝わる『儀式の道具』だ。
それも、極度に古い儀式に使う。
うかつに触れると呪いがかかるぞ。
丁重に扱うように。いいな。」

「何の儀式に使うんです?」

と、一人の召使いの声にエルゼリオはニコニコ笑い、

「人の命を救うのさ。」

と、答えた。

その場は再び騒然となる。
「これが?」「この妙な形の?」といった言葉が飛び交い、
エルゼリオは再び目を閉じた。

全く、どうかしている。

この館の召使いは、
客人の一人二人でこんなに騒がしくなったりはしない。
昔、国王の近臣を招いたときですら、
こんなことにはならず、いたって厳粛に事はすんだのだ。


それが、この有様だ。


エルゼリオは、時たま明け方に襲来する
安眠を妨げる
囀って止まない鳥たちを思い出した。

止めようがないのである。



何を語ろうというのだ。

ただ、別世界から来た男一人のために、
こんなにも乱されるとは、
もしかしたら、国王の近臣よりも
エレンガーラは大物なのかもしれない。


エルゼリオは大きくため息をつき、
隣のフェイティシアをちらっとみると
彼女は驚きも動揺もせず、
くすくすと笑っていた。

珍しく、こまってらっしゃる。

と、彼女の視線は言う。
エルゼリオは思わずむっとする。


ここは、ひとつ手を打とう。

「わかった。わかった。」

と、エルゼリオは大声で叫んだ。

皆がしん、と静まる。

「お前たちが、あの客人に興味を持ったのは
よーくわかった。
あいつのことを知りたい?そうだな??」

皆はうんうん、とうなずく。

エルゼリオは目をつむる。

「わかった。

では今日から特別に、
先ほどあいつが入って滑って転んで頭を打って
気絶したという
あの客人しか入れない、領内きっての名所、
噴水つきの大浴場をお前たちに開放する!」

その言葉に、召使いたちの空気が
一瞬止まった。

次の瞬間には、爆発的な歓声が挙がった。

朗報を伝えるために走り出した召使いもいた。

どういうことだ、とロイドは肩眉をぴん、と上げ、
ライジアは驚きに目を輝かせている。
ナイルは冷めた目でエルゼリオを見、
フェイティシアは歓声に驚いたのか少し身を硬くしてから、
ゆっくり微笑んだ。

エルゼリオはその微笑をみながら、

「噴水は使うも使わないも好きにしろ。
今夜はお前たちが自由に使え。
指示はそれぞれ、かく長にまかせる。
以上だ。」

召使いたちはわっと騒ぐと、
浴場へ足を踏み入れていった。

何せ、今まで召使いが使用するなどとは
憚られる以外の何者でもない、浴場である。

今まで高貴な身分の者が、
その湯につかってきた。
その場所を、自分たちに開放されるとは、
予想外中の予想外である。

浴場の大理石を磨きながら、
入れることはないのだと、寂しく思っていた召使いの一人は、
大騒ぎでことを伝えに部屋を出た。

ナイルは騒然とする場を収めるために、
男湯だの女湯だの、どちらが入るだの、
初めての対応を執事ほか、
各役割担当の者と話し合う。

ライジアはフェイティシアの手を引っ張り、
浴場見学へと向かう。
そのかたわら、
すれ違ったフェイティシアの耳に、
エルゼリオは一言つぶやき、隣室へと向かった。




**





「フェイティシアさま、凄い!!こんな場所、
このお屋敷にあったんですね・・・。」

と、すっかりライジアははしゃいでいる。

彼女たちはそれぞれが、タオルを体に巻きつけ、
大理石の上を流れる湯に、足先を触れさせた。

フェイティシアはそうね、と微笑み
ガラス張りの天井を眺め、
広々とした浴場に足を踏み入れている。

ライジアは巻きつけたタオルの、
特に胸の部分を意識して凝視してから、
湯煙の中に見える、フェイティシアの肢体の
なめらかな曲線を凝視した。

私・・・もうちょっと・・・もうちょっと、ほしい。

胸のことである。

それどころか、もうちょっと腰のくびれとか。
肌が白くなってほしいな〜とか、
お湯で磨けば白くなるんじゃなかろうかとか、
いやいや、磨いてもこれはなりそうにないなあ・・・
なに?薬草がきくとか、噂であったっけ。
でも高いんだっていってたなあ・・・。
それより胸が・・・これじゃあ枯れ木同然・・・

などとライジアは思いをめぐらし、
再びフェイティシアをそっと鑑賞した。

・・・鼻血がでるかも・・・。

目の前に立つフェイティシアの神々しい姿は、
やはりどこか超越的といえばよいのだろうか。
それが、さらに湯煙の中で
幻想的におぼろげだと、
今見ているのはどこかから妖精だか、
女神なんかが現れたような
贅沢すぎる浴場に見えてならない
ライジアである。


・・・これ以上近寄ったら、倒れるかも・・・。

と、ライジアが客人の二の舞を意識したとき、


「・・・全く、もう。あの男はまたわけのわからないことを・・・。」

とナイルが頭をかかえて浴場に入ってきた。
彼女の惜しげも無くさらけ出された裸体に、
ライジアはさらに驚く。

・・・フェイティシアさまもお綺麗だけど、
ナイルさまも結構・・・。

特にナイルは、引き締まった腕と
はりのある均等な筋肉をまとって、
完全に健康な女性の体系そのものである。

ライジアはおもわず凝視した。

うわ、胸あんな・・・重力に逆らってる。
おなか・・・割れてる?うわ、二の腕引き締まってるし・・・
それにひきかえ私・・・・。何?ど、動物?植物?昆虫・・・?

「今日は、噴水係もはりきってしまって・・・。
明日、農地の耕作ははかどりそうに無いわね。」
と、ナイルはさっさと体を磨きに入っているあたり、
仕事と同じ要領である。

・・・休みとか、憩いという言葉が無いんだろうか・・・

と、ライジアは呆然としながらナイルのそばで
体を磨いた。

力仕事を役職とする男たちは、
新たな開墾地を耕しもする。
噴水係の今日の労働には、痛み入るばかりである。
今も浴場の噴水は、
こんこんと湧き出ている。

ライジアは噴水の装飾にみとれつつ、
体を念入りに磨いた。

すごいなあ、あの噴水・・・
こんこんと・・・
こんこん・・・っていうか、ガンガン?
あれ?
ガンガン出てない?ちょっと・・・ちょっとあれ・・・。



噴水は、なぜか三割り増しに吹き上がっていた。



ナイルはあいかわらず、独唱状態で
愚痴をもらしているし、
フェイティシアは噴水の吹き上がり方に
とくに疑問を持たないのか、
何か考え事をしているようで、
ライジアはその話題をきりだそうとしながら
ただおろおろした。

「・・・噴水、ちょっと上がりすぎじゃない?」

やっとナイルがそのことに気づく。

「・・・そう・・ですね。でも、綺麗。」

フェイティシアも眺めながら湯につかった。

「そそ、そうなんです・・・。」

ライジアが慌てて答えると、

「これじゃあ明日は筋肉痛ね。
いい鍛錬になるわ。」

すぱっと言い放つ。

ライジアはひそかに、
これはフェイティシアさまやナイルさまへ
気遣い(あるいはそれ以上の好意)のために
起こった怪奇現象ではないかと思った。

フェイティシアもナイルも、領地内の男性使用人陣では
絶大な人気を誇っているアイドルである。

客人や領主もなんのその。

美人たちのためなら国だって動く。

噴水などお手の物である。

はたして、その美人の中に
自分も入ってはいないんだろうなあ
と体を磨き終えて
おぼろげに諦観するライジアである。

・・・でもいいし。
美人とお風呂に入れたし、
後で力仕事した奴らに
「どうだった?フェイティシアさまやナイルさま、
噴水どうだった?って?」

って聞かれたとき、

「フェイティシアさま、噴水綺麗だった、っていってたわよ〜」
って言って楽しませてあげることもできるし。
あわよくば、情報料ももらっておこづかいにしてしまおう。

などと企むライジアである。

しかしながら、そんなちょっとした企みも、
彼女の前では一瞬で消え去ってしまう。


フェイティシアさま。

ライジアは湯につかりながら、ぼんやりと見とれた。

しっとり濡れた髪が、つややかに揺らめく。
白い肌は吸い込まれそうな柔らかさである。
湯にとけると、甘い味がしそうだ。
そして実際、えもいえぬ香りがするのだ。
潤んだ瞳には逆らえない。
彼女のどんな願い事も、
彼女の声、視線、それだけで
叶えてあげたいと思うはずだ。
潤った唇。柔らかな曲線に満ち溢れて
圧倒的に官能的で・・・


・・・鼻血でそう・・・。

と、再び思うライジアである。
これは生きた凶器なのではないかと、
御伽噺で聞く、国をも滅ぼす美女の一人だと
つい思ってしまう。

喜びのうちに死に至らせる新手の凶器。
客人が倒れるのも、無理は無いのである。
至って当然の反応である。
ライジアは、思い返してうなずきながら、
フェイティシアの隣で、
今後のことを話すナイルに耳を傾けた。

「・・・フェイティシアも、旅の準備は済んだ?」

「ええ。でも持っていくものに迷ってしまって。
服は・・・ナイルが用意してくれたものと、
あと数枚、簡単なものを持っていこうかって。」

「・・・あのね、フェイティシア。」

と、ナイルは珍しく彼女の前で躊躇って話し始めた。

「・・・あなたが、婚約者のところへ行くの、
意思が変わらないことはわかったわ。
それでね、私も考えたのだけど・・・。」

「私!いきます!!!」

と、ライジアは突然湯船から飛び上がって手を上げた。
次の瞬間、くらりとして湯船に突っ伏す。
ばしゃーんと、派手な音がし、
「ちょっとちょっと!あなたまで・・・ライジアっ!!」
「ライジア!」
と、ナイルとフェイティシアが救いの手を差し伸べる。

ぷかりと体を浮かせて、目を回したライジアは
「・・・わ、わらしもへいてぃひあさまとたびにでまふ・・・。」
と朦朧とした声でつぶやいた。

「ライジア?」

と、フェイティシアが目をぱちぱちさせるとなりで、

「私もよ。ついていくわ。」

と、ナイルが声をかけた。
「心配なの。あなただけ、あなただけ・・・。」
と感極まったナイルは、その後

「あなたを、野犬の野に放って
むざむざ食わせるわけにはいかないのよ!

獰猛な男どもの手で、触らせるわけにもいかないの!

弱い男の食い物にさせるのも、まっぴらごめんなの!

女衒にさらわせるなんて、事件に巻き込まれてほしくないの!

貴女の持ち物を盗んだ盗人が、
貴女を盗んだりしないか心配なの。

貴女に・・・。」

と、あと十通りほど軽く言ってのけたあと、
最後には珍しく泣き出し
「あ、貴女が婚約者なんていう
わけのわからないものと結婚して欲しくないの・・・。」
(これが本音)
と嘆きだしたのだった。


傍らには、気絶寸前で湯船に浮かぶライジア、
傍らには、強気だがどこかもろいらしい(?)ナイル。
その間で、フェイティシアは
「わかりました。わかりましたから・・・。」
と、何かをなだめるしかなかった。

しかし、一方で不安が少し消えていた。

彼女が一人旅をしたのは、もうずいぶん昔のことだ。

時々、領地から出て買い付けにいく物資や、
エルゼリオについて王都へ向かうこともあったが、
必ず誰かのそばにいた。

一人での旅は、
おそらく、記憶にも残らないころのこと。

父も母もおらず、途方にくれ、
サファシュ信仰の山岳民たちに保護されていたころのこと。


・・・一人での旅も・・・。

彼女は、ほんのり希望的観測で、この
婚約者のもとへ向かう旅を楽しもうともしていた。
何かわからないものが、彼女の心を躍らせていることは確かだ。

たとえるなら、
真新しい絹糸の滑らかさに触れ、
どんなレースを編んでいこうか決めるまえの、こころ。


「よろしければ、私のほうからもお願いします。
でも、お屋敷のことが・・・。」

「あら、そんなの平気よ。」

と、今まで泣いていたナイルは、突然きっぱりと言い放った。

「だいたい、あの領主はお屋敷しばらく空けるんじゃない。
誰もどやしはしないわ。
それに、ちょっと私の仕事をやらせてみたい子もいたし、
いい機会よ。」

ナイルはさっと湯船からあがると、
「じゃあフェイティシア。領主が行ったら、
私達も出かけることにしましょ。」

と、今後の予定をさっと決め、大浴場を後にした。

「・・・ふぇいてぃしあさま・・・あたし、あたしも行きますから!
絶対行きますからね!!」

ライジアはまだろれつが回らないような状態で、
フェイティシアに泣きついている。

「あたし、あたし決めたんです。
フェイティシアさまに出会ったとき、一緒に行くって。
どんなところにも、どんなことでも、
いつも・・・いつも。」

「ありがとう。ライジア。」

フェイティシアはいましも天がさらってしまいそうな、
極上の微笑をみせて、
ライジアを安心させた。

ライジアは、初めて彼女に出会ったときから
この微笑に全てを許している。


大浴場を出ると、
ライジアは旅の準備をすべく、意気揚々と
部屋へ戻った。

フェイティシアは、おなじく少しずつ進めていた
準備をし終えてから、
領主の部屋へと向かった。


彼が、耳元で囁いたとおりに。



**


フェイティシアはすでに、寝着をまとっていた。

夜は冷たい空気で、
彼女の白い肌をさらに白く染めている。

あたたかな羽織ものの端を握り、
胸の前に冷たい空気が入らないよう
体に巻きつけた。

夜の屋敷は、
いつも青みを帯びて、
ところどころともされている火が、
ちりちり蝋を溶かす。

一歩一歩、
彼女は磨かれた廊下を、
丁寧に歩いた。


その間、
これからの旅のことを考えていた。

一体どれくらいの日数がかかるのだろう。
女の足で、
時には、何か乗り物に乗ってもいい。
馬にのってもいいだろう。

けれど、険しい山脈を通り抜け、
ディム・レイへ出るか、
あるいは山脈を蛇行して、
すぐアルデリアへ向かうべきか。

どちらにせよ、海を行かず、山脈へ向かうようには、
執事であり叔父のロイドが助言するだろう。



彼女は小さなころ、庭のようにすごした
山脈と、山脈の民への挨拶もかねて、
山を通るつもりでいる。

だが、平地や海をいけば、
人も多く険しい道を選ばずにはすみそうでもある。
とくにライジアや、ナイルとともにいくとなれば、
一人で、ではなく
皆で行きやすい道を選ぶべきだともおもう。


そうこう考えているうちに、
エルゼリオの部屋の前に立つと、
ノックをする前に、さっと扉が開いた。

重々しい音が響きそうな扉だったが、
彼がひくと、なぜか無音に近い。


「御用は・・・。」

とつむぐ前に、「入って」と促された。
胸が鳴っている。

「何も・・・されません?」

と問うと、

「何かしてほしい?大歓迎するよ。」

と、彼はいたずらっぽく笑った。

彼女が室内へ一歩踏み出し、
扉を閉めると
彼は笑って「ほら、なにもしてない。」
と手を上げた。

そして、きびすを返す。

彼の歩調は、
ダンスのそれと似ている。
違っているのは、
前を行く彼の顔が見えないことだ。

この部屋は
いつもの彼の部屋とは
似つかわしくないほどの広さの部屋である。
優に百人は収容できそうな部屋だ。

客人をもてなす際には、
領主はこの部屋を使うことになっている。
おなじ構造をした隣室には、
今日倒れたまま運び込まれた
客人が眠っているはずだ。

暖炉では、積み上げられた薪が
煌々と燃えあがり、
音を立てて爆ぜた。

床は、磨かれた大理石で冷たい白をしている。

その上を歩いた彼が、
フェイティシアの手を強く引いて、
無言のまま部屋を横切った。

大きな窓際に置かれた、天蓋つきのベッドは、
五人は悠々眠れそうな広さをしていた。

盛り上がり具合から察するに、
綿が豊かに敷き詰められている。

フェイティシアは、寝台を確認する前から
すでに頬が染まっていた。

しかし、後ろをついてきたフェイティシアを、
エルゼリオの腕がやすやすと抱き上げ、
軽々とベッドの上に乗せ、
有無を言わさず、彼女の両肩を
両手でゆっくりと押さえつけると、
フェイティシアは目をみひらいて赤面した。

贅沢な寝台のやわらかさに、
彼と彼女の体は沈みこんでいく。

彼はそのまま、無表情で見つめている。

視界に、彼しか映らないように、
彼女を見下ろしていた。


「・・・なにもしないと、さきほど。」

「さっきはしなかった。今はしたい。」

彼は、到って淡々と、言葉数少なく端的に
言葉を選んだ。
彼女は視線こそそらさないが、
困った表情を崩さない。

「・・・また、逃げます。」

「・・・今日はもう、逃げ場は無いよ。
いいかげん、あきらめたら?」

そういうエルゼリオは、
いつもほどのおどけた様子もなく、
何かを慎重に考えながら、
ことを進めていくつもりの様子だ。

まず、手始めに彼は彼女の柔らかで
繊細な髪に触れてみた。

「どう?怖い?」

いたって淡々と、エルゼリオは問いかけた。
無機質な声に、フェイティシアは呆然とする。
こんな声も、彼はできるのだと
思えるほどの、静かな対応だった。

いつものように、
すこしだけ茶化したり、おどけたりする
子供のような彼がいない。


いたずらっぽい微笑みもなかった。


しかし彼の問いに、
フェイティシアは、無言で首を振った。

こわくは、ない。
ただ、少しだけ驚いている。

・・・おどろいているだけ。


彼はそのまま、顔を下ろしていくと、
彼女の唇を自分のそれで触れた。

さっと、皮膚に触れる感じの、
軽い接触だった。

顔を上げたあとも、
笑顔もないまま、
フェイティシアの真意を見定めようとしている様子である。


「なにも、話すつもりはないんだね。」

エルゼリオは、フェイティシアがこの領地からどこかへ
向かおうとしていることを知っている。

だが、どこへ?
なんのために?
ひとりで?
どんな服で、どんな顔で、何を決意して?

その全てを、彼女は彼に教えないのだ。


今夜は、質問攻めをしてでも、眠らせなくても
おどしても、襲っても、
どんな手を使っても、聞き出すつもりだった。

けれども、彼女は話さないだろうことも、
彼には予測がついていた。


彼女は、ときどきとても強情で、
彼が涙を流して懇願しても、
時にはヒントすら与えてくれないことが
時たまあるのを知っている。

こちらの甘えは、ほとんど聞いてくれるのに。

ある線から踏み出そうとすると、
彼女は完全に拒むのだ。


「・・・はい。」

フェイティシアは、彼の瞳のまえで、
あらためて誓っていた。

「召使いのことは、領主が一番把握してて
しかるべきはずなのにね。」

彼は、彼女に皮肉めいた微笑を返す。

「そういうことには従わないんだね。
悪い召使いだな。」

いつもなら、彼は彼女に対し否定的な発言はしない。
けれど、今日はどちらも
何かを譲りそうに無かった。

フェイティシアは目をそらさず、

「・・・わるい、召使いですわ。」

と答えた。

フェイティシアがゆるく微笑むと、
エルゼリオは微笑み返し、
再び唇を彼女に落とした。

今度はゆっくりと、
静かに触れる。

やわらかな弾力が、唇に感じられる。
とろけそうな白い肌と、桃色の果実のような唇は、
今夜は完全に、彼のものだ。

唇から、そっと彼女の首筋に顔をうずめた。

彼女の体に手を回し、
ほとんど身じろぎしない彼女を
寝台の上で抱きしめた。

フェイティシアはされるがまま、
エルゼリオの腕に身を任せている。

抵抗はしていない。
逃げ去ろうとも。

けれど、心はすでにここにはないように。


「・・・俺がもし、異国の果てて朽ちていたら・・・」

エルゼリオは思い出す。
彼の過去を。
あの、冷たく寒い孤独に満ちた山。
その頂にありながら、消え去ってしまいそうなほどの
自らの命を。

「こうすることも、できなかったな・・・。
風呂に入ったり、またエレンガーラに出会ったり、
フェイティシアを抱きしめたり。」

エルゼリオはやさしく、自分に語りかけるように
囁いた。


「でも、もしかしたら今でも、
俺はあの山にいるような気がする。
まだいるのかもしれない、と思うときがある。

・・・いま、フェイティシアを抱きしめている腕は
本当はもうぼろぼろで、朽ち果てていて、
冷たい、氷で出来ているんだ。
風が吹けば、降る雪で削れて行くような、
そんな体でね。

誰の体温も、温かい湯だとか、
やさしい日差しだとか、
そんなものにも、全く解ける事なんて無くて・・・。

もう、何にも動じない。

誰かの死も、誰かの傷ついた姿も、誰かの攻撃にも、
たえられる。
誰かのやさしさも信じない、裏切りにも傷つかない、
そういう体になってる。

全てを凍らせてしまうような、体になってる。

だから・・・フェイティシアも。」




彼は、そこまで言うと思わず口をつぐんだ。




エレンガーラに出会って、気づくべきだった。
彼が、自分の過去の記憶を再び
鮮明に蘇らせる存在であったことに。

けれども、一度思い出すと
止め処も無く過去の感覚はあふれてきた。





針が全身を突き刺すような痛み。

愚かしいほどの空腹。

急激な寒さ。
孤独のために用意された満天の夜空。

頬を切る風の痛み。

そして、
痛みを感じなくなった痛み。


白くて乾いた死が、
隣で寄り添っている。

彼は、何かを待っている。

どこかで、
憧れのように。





だが、それを眺めて嘲笑できるだけの
自分もいる。





エルゼリオは盗み見るように、
そっとフェイティシアを見た。

胸の傷に手を置き、
見上げた格好のフェイティシアは、
もう片方の手で彼の頬に触れている。

子供をあやすように。

けれど、
彼の唇から、つづきの言葉が漏れることを待った。


エルゼリオは、彼女の腰に手を置くと
ゆっくり引き寄せた。
視線はそらさなかった。

彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。
フェイティシアは、彼のそんな瞳を初めて見た。

今まで、何を見てきたのだろうと、思えるほどに。
あれほど寄り添い、
幼いころから過ごしていても、
彼は戦場へ行き、彼女の知らない何かを得た。

何かを失ったとはいわない。

ただ、得てきた。

両手に溢れるほどに。


小さかったころの彼が、
どこかへ隠れて見えなくなってしまうほどに。


「でも、その凍った体は、戻って着たのですから・・・。」

フェイティシアは、彼の言葉を待てずにつぶやいた。

「嬉しかったです。

ただ、いつまでも、変わらないでいればと
思っていました。」

フェイティシアは、そっと叶わない願いをつぶやいた。




「変わってなんかいない。」





エルゼリオは、耳元で甘く囁いた。

「昔の小さな領主のままだよ。」


声は、乾いた心をした悪魔に似ていた。


フェイティシアは、その言葉の意味の解らないままでいる。
けれども、到底わからなくてもよかった。

目の前に見えるのは、慈悲深い天使。
金の髪をふわりと揺らして、
温かな新緑の瞳は、
どこかの精霊に似た高貴な色をしているのに。

その微笑みは、限りなくやさしく
彼女の心に、幼い彼を思い起こさせるに
十分なのに。

「泣き虫で弱音ばっかりの領主を、
優秀な召使いは抱いてくれるものじゃないのかな。
そうでなければ・・・。」

彼の微笑に、ほんの少しの悲しみが見えた。






・・・フェイティシアも、凍らせてしまおうか・・・?」






瞳は、何の感情も持たない無機質な色をしている。
言葉は、裏切りの甘い香りがした。
彼女は、その香りに怯え、一瞬陶酔した。

もしかしたら、
そのまま彼に従うこともできた。

けれど、できない。

「・・・。」

彼女は無言で微笑んだ。



昔の彼を思い出して
今の彼につぶやいた。
手は、彼の頬をなでている。


「されませんわ。エルゼリオさまは。」



小さかったころの、かんしゃくを起こした彼を、なだめる様に。

急に、視界がぼやけたようにエルゼリオは感じた。

それが、涙らしいことに気づいたのは、
それからずいぶん後のことだ。


エルゼリオは、彼女の微笑を見つめ、
そして黙ったまま、彼女を起こした。


それから、そばにある豪奢なテーブルの上の酒鬢に手をつけ、
グラスにそれを注いでから、
背中越しに彼女へと伝言した。



「・・・あした、ここを経つ。」



フェイティシアは、その時、少しだけ体が震えた気がした。
怯えに似た振るえだった。


けれども、すぐに「わかりました。」と答える。
もう、震えてはいない。彼女は、それを抑える術を
いやというほど身につけている。


妙に無機質なやりとりだった。



彼女が、「いってらっしゃいませ。」と丁寧に挨拶をし、
「いってくる。」と、彼が答える。

彼女は、彼の横を通り過ぎる一瞬、
何かを思い立ち止まった。



その背中に、手を当てて頬を寄せたい・・・。



そう思う前に、
彼女は行動していた。


ほんの一瞬、
エルゼリオはどういう状況か疑った。


背中に触れるものが、
彼女の柔らかい手で、
その唇が、長いまつげ、鼻梁、頬が、
彼の背中に押し付けられていることを・・・。


「・・・ごめんなさい。」


その言葉に、彼は目を見開き、
一瞬、頬を染めた。

すぐに体をねじり、彼女を抱きしめたいと思う。
けれども、
彼女の吐息を、背中で感じていたいとも、
強く思った。

ずっと・・・。


「・・・凍りたくなった?」

エルゼリオの声は、心なしか高揚している。

しかし、彼女は背中に押し付けたままの顔を
ゆっくり横に振った。

エルゼリオは、少しだけ俯いた。

「・・じゃあ、抱きしめて。」

と、すねた子供のように提案する。
フェイティシアはくすりと笑って、背後から彼の胸に
腕を回した。
すかさず、彼は彼女の手をとると
その指を唇でもてあそぶ。


「ご無事をお祈りしています。いつでも。」


フェイティシアの声は、かすれている。
エルゼリオはそれを聞き、苦い笑みをもらしながら

「それは、俺のほうが言いたいくらいだ。
どこへ行くかも教えてくれないで。」

とつぶやいた。

彼女が、無言のまま彼の背からはなれ、
扉へ駆けていくのを、
彼は黙って見送った。

エルゼリオのつぶやきは、
彼女がそのまま立ち去った部屋に、
残り香のように消えず、
彼の心に凍り、傷跡のように残っていた。






へつづく


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