溜息の糸をほどいて










「ああ・・・。」


朝の光の中、執事室の空気はやけに重い
ため息で満ちていた。


「叔父様?」

と、軽やかに扉を開き入ってきた美しい姪は、
頭を抱えてうつむく叔父の姿を、
いぶかしそうに眺める。

「・・・おはよう。フェイティシア。
何か、用かな?」

いつもは厳格な態度を崩さない叔父が、
心なしか疲労している。
フェイティシアは、心配事を増やすようで
申し訳ない気持ちを押し切り、切り出した。

「おはようございます。
はい。あの・・・エルゼリオ様が領地を経たれたら、
私もなるべく早く出立しようと。

それとともに…言いにくいのですが。」


執事ロイドは、フェイティシアのいくつかの言葉に、
すばやく反応した。

エルゼリオ様

領地

出立。


そして、それを言葉にしたフェイティシア自身。


この三つの言葉と彼女の存在で、今彼の頭の中は
大混乱中なのである。
思わず眉間に皺がより、再び盛大なため息が出た。


「・・いいにくいこと?・・・そうか。なんだね?それは」

フェイティシアは、ロイドの様子を計りながら、
今ではないほうがよいかもしれない…と思った。

だが、早いほうがいいにこしたことはない。


「旅に…ナイルとライジアも一緒に向かいたいと。
後で、二人からもお願いに伺うようなことになるかもしれませんが・・・。」

「ライジア!?」


ロイドは盛大に顔を上げると、「また災難が・・・。」
と、ぞっとしたような表情を一瞬見せ、そして
がっくりと肩を落とした。

ナイルはいい。
実際、フェイティシアの傍について、旅を守ってもらうつもりでいたし、
彼女も喜んでそうするだろう。
事実、それがロイドとナイル二人の、
あるいは二人以外の者達にとっての『計画』の一部なのだから。


だが、ライジアとは・・・。


「ですから、アルデリアへの旅道について
安全なものをお教えくださいませんでしょうか?」


くるくる顔色を変えたロイドに、
フェイティシアはそっと問いかけた。

「…そのことは、殆どナイルに任せておいてある。
後でナイルに聞きなさい。

それからフェイティシア・・・。」


ロイドは、乱れた髪を整えもせず、
酷く憔悴しきった表情で
フェイティシアを見つめた。


目の前に立つ、その麗しい肢体の彼女は、
ほんの少しだけ顔を傾けてちいさな疑問をなげかける様子でいる。
神が地上に降ろした奇跡のような、
そんな安らかな表情をして。



それを見るだけで、誰もが安らぎを得るような様子で。




この領地の若い領主に、
果たして彼女を任せることが可能なのだろうか。




ロイドは彼女を眺めながら、
そんな疑念ばかりを抱いていた。
もしかしたら、我々の計画に沿うように、
彼は動くことも可能だろう。

だが、それはあくまでロイドの希望でしかない。

なるべくことは悟られないように、
進めるべきだ。

真実を知ったエルゼリオが、
どう行動しても、
おそらくはロイドの計画が
全てにとって最善であることは間違いないのだから。



だがおそらく、先ほど彼が提案した言葉からは、
彼もまた、彼女を手放す気はさらさらない、
といった主張を見た。


『フェイティシアとその夫』



ロイドはその言葉を思い返すだけでも、
ひきつった笑いと、
自らの若かりしころの、
恐ろしい過去が視界によぎってならない。


何を馬鹿な・・・。


と、思う反面、彼ならばやりかねない発想だ、と
ロイドは幼い頃から見てきた領主を改めて思い返す。

かつて、執事であるロイドに手に余るほどの
やんちゃ坊主であった若い領主の姿が
今でも眼に浮かぶようだ。
父親に似たのか、あるいは母親に似たのかは
わからない。
だが、破天荒で物怖じしない性格は、両親のどちらともが
備えていたのかもしれない。

あまりにいたずら好きの彼に、思わず堪り兼ねたこともあった。
仕置いたところで、あまり反省しないところも
玉に瑕な少年だったが、のみこみも早かった。
利発だったし、ロイド自身の少年時代と比べれば
相当ませていたようにも思える。

しかしエルゼリオの父が、彼にこの領地を任せ、
母とともにディム・レイへ向かう日、
まだ幼い少年でありながら領主となった彼は、
酷く寂しそうに、両親の姿を見送った。


まだ、甘えたい頃だったはずだ。


その時初めて、ロイドは少年を支える右腕として、
執事の地位を手にしたが、
その重圧は計り知れず、またその地位による恩恵も
計り知れないものだった。

エルゼリオの父、オーデリオはロイドのかつての地位を慮り、
エルゼリオの養育と領地管理を任せたのだが、
一方で幼い頃から、このような孤独を味あわせる
妙な貴族家庭もあるものだと、
内心思った。


だが、彼の孤独を埋めた者は、
おそらくすでにそこにいた。


・・・彼女だ。


当然、忙しすぎるロイド自身の孤独と支えになった存在もまた、
姪である彼女であった。
だがまさか、幼い領主が彼女に恋心などを生むなどと
考えたこともなかった。


やがて、彼らは成長するというのに・・・。


一方で、フェイティシアを召使い兼、領主の乳母とする理由は、
必要以上に麗しい彼女を、
外の眼になるべく晒さないためでもあった。
彼女を外に出せば、今目標とすべきことへ災いを呼びかねないと
判断したからだ。

事実、時代はまだ聖地出身の者にとって冷たかった。
だが、ロイドが望むべき目標への道は、一つの紐のように煌いて
真っ直ぐに伸びてはいた。

当面の問題であるフェイティシアの存在は、しかし、
彼の目標に妙な結び目をつくってしまうだろう。


だからこそ、幼いエルゼリオの元へ彼女を置いたのだ。


その判断は、今でも間違っていなかったと
ロイドは確信している。


だが…まさか幼かった領主自身が…。



ロイドは再びため息をついて、
瞳を閉じた。
結び目は、彼の知らないところですでに解けずに居る。


叔父の様子を見かね、フェイティシアは
静かに歩を進めて、彼の座る椅子の横に立つと、
その白い手で彼の手を握る。
眉間の皺が刻まれたまま、
再びため息をついたロイドはフェイティシアを見つめた。

柔らかな手。
温かな…美しさ。


ああ。そうだとも。

私がもう少し若ければ・・・。


「どうされましたの?叔父様。」


と心配そうに言葉をつむぐフェイティシアに、
ロイドは静かに頭を横に振った。


「お前は・・・アルデリアへ行かねばならないのだ。
だが、お前の嫁ぐ相手については、私はまだ言わない。
アルデリアのモルヴァルド伯の領地に行ってから、
その旨を聞いて欲しい。

モルヴァルド伯の側近で、神官ルテアに頼りなさい。

よく取り計らってくださるだろう。」

フェイティシアを見つめるロイドの瞳は、
どこかしらいつもより温かな光を帯びていた。


「・・・私は、お前を傍に置いて暮らした数十年、
とても幸せだったと思っているよ。フェイティシア。

それこそ、慈愛の神の加護を一心に受けたと
思えるほどに。

お前は、私にとっては・・・・。」



そこまでつぶやいて、ロイドは静かにうなだれた。




フェイティシアは、彼の肩を抱いている。
嗚咽こそもらさなかったが、ロイドは泣いているのではないかと、
フェイティシアは感じた。

「叔父様。・・・私は・・・。」

フェイティシアは朝日で金に輝いた瞳を潤ませ、
彼の肩を抱いたままつぶやく。


「ここへ戻ってきますわ。必ず。」


フェイティシアの言葉に、そっと顔を上げたロイドは、
彼女の言葉の意味をはかりかねた。


いいや、お前は戻ってきてはならないのだ。


・・・そう伝えるには、まだ早すぎる。




・・・ああ。

またため息がでるのをこらえ、ロイドは
「先のことは、とりあえず領地へ向かってから考えなさい。」
と彼女を諭した。


おそらく、私が考える以上に、
お前の旅は困難を極めるかもしれない。
だが、そうだな。




確かに私がもう少し若ければ・・・。





ロイドは軽く会釈をして部屋を出たフェイティシアを見送り、
再びため息をついた。



お前の領主と同じような行動をとったかもしれんな。



ロイドは、眼を閉じると低い笑い声をもらす。
あの妙な案を投じた若き領主に、
どこかで深い共感をしている自分を、嘲笑していた。



数分後、どたばたと執事室へやってきたライジアに
「休暇届」を突きつけられるまで・・・。














領主の眠る部屋の前で、フェイティシアは立ち止まっていた。





石作りの廊下。磨かれた床の上に、
輝く朝日が差し込む。

しかし、彼女の眼には昨日の夜の冷たさが
まだ淀んでいるように見えた。
彼女が部屋へ一歩踏み出すことを、とどめている。




・・・どこかで、解けきれない結び目を
もてあましているような気分・・・。



どういう顔で、彼と顔を合わせればいいのか、
と、珍しく迷っている自分に気が付いた。

いつもなら、召使いであることに徹しているはずが・・・。


・・・また、心乱れて・・・いる。


フェイティシアは、白い柔らかな頬に、手を当てると
火照って赤くなっていないか確かめた。
何故、こうも乱されてばかりなのか。
長いまつげを伏せがちに、彼女は小さなため息を漏らす。

と、


「悩み事?」


背後から温かな声が聞こえたかと思うと、
彼女の腰に、太い頑強な腕が巻きついてきた。

思わず顔を赤らめたフェイティシアが、
顔を横に向けると、確認したい当の本人の顔が
すぐそばにある。

彼女が驚く暇もなく、彼は軽く唇に触れると、
「おはよう。フェイティシア」と囁いた。
廊下に立っていることに気づくと、
フェイティシアの顔はさらに赤く染まる。

さらに、彼が珍しくすでに着替えを終えていることに
気が付いた。


「あの・・・。」

「つづきは部屋へ入ってから?」

「・・・ち、ちがいます。」

「俺は違わないけど。」


そして、目の前の重々しい扉が彼の手によって開かれると、
フェイティシアは半ば強引に「つれこまれ」た。

すなわち、彼女の白くて細く、柔らかい腕をつかみ、
部屋へ入ってすぐに扉を閉め、鍵をかけた。

扉にもたれたエルゼリオは、
そのままフェイティシアの細い胴に腕を絡めたまま、
彼女の耳の後ろから首筋の、美しく官能的な曲線を
舌でなぞる。

彼女の滑らかな肌が心地よい。


「ん・・・っ。」


フェイティシアが顔を赤らめたまま声を漏らし、
恥じるように身をよじると、
エルゼリオは楽しそうにくすくす笑った。

腕の中で天上的に柔らかな肢体が動く感触を、
味わえることへの微笑である。

・・・服の上でなければ、さらに良いのだが・・・。

「昨日はごめん。」

とエルゼリオは彼女の耳元で謝った。
息の混じった密やかな音が、余計に彼の声を艶っぽく染める。
それを聞いたフェイティシアは、
びくっと体を震わせた。

「怖がらせた?」

「・・・いいえ。」

虚勢をはって、彼女は可愛らしく首を横に振った。
本当は、なにか心にわだかまっているものがあるのに。
けれど今は、本当に何がわだかまっているのか、
核心は見えなかった。

不安はさまざまにある。

まるで、乱れた色とりどりの糸のように、
もつれて絡み合っている。
解きほぐそうとしても、どこから手をつけていいのかわからないような
複雑な結び目。


「怖いなんて・・・。」

「ごめん。」

少し甘えるように謝る声。
しかし、到底謝罪の言葉とは程遠い様子であった。
彼は彼女の肢体を大きな手のひらでなぞって
放すつもりはないらしい。

「ごめん。だけど・・・。」


と、エルゼリオは少しだけ困った様子で、
彼女の肩に顎をのせると、彼女を背後からしっかり抱きしめた。

「だけど止めれない。」

その言葉を聞いてすぐ、フェイティシアは自分の体が浮いたことに気づいた。
軽々と、領主の両腕に、全体重が乗せられている。

「えっ!」

と声をあげて思わず彼の首に抱きついた。
その間も、平然と若い領主は部屋を横断して寝台に彼女を
横たえている。




流れる濃い蜂蜜色をした彼女の髪が、朝日に甘く美しい。




柔らかな曲線を魅惑的に描いて、横たえられた肢体は、
物言わずともすでに彼を誘っている。

恥じらいを浮かべた睫が伏せられると、
彼女は表情どおりに胸の前で自らの両腕を交差させ体を抱いた。

「ああ。」


エルゼリオはため息をついている。

それは、彼女の姿があまりに麗しい感覚を呼び起こさせるから、
あるいは
もう見ただけでも襲いたくなるような本能的な肉食性を
呼び起こさせるから
だったのかもしれないが、
どちらかといえば
ため息は少し困った色をしていた。

が、そのため息とは真逆に、随分と楽しそうな動きで
かばわれた胸のあたりはほおっておき、
まず彼女の背後にあるエプロンのリボンの裾をつかんだ。

さっと腕を引くと、きつい結び目がいとも簡単にほどけていく。
「あっ!」
と、フェイティシアは声を上げた。


意外だったらしい。



「困った。昨日の夜の二の舞だ。これじゃあ。」

とつぶやくと、半ば機械的にエルゼリオは彼女のエプロンを取り外し、
彼は再びため息をついた。
フェイティシアは、この目の前の若い領主が
一体何に困ってため息をついているのか、
よくわからない。

彼は、真っ白なエプロンを片手に取り、
「まだ温かいね。」
などとつぶやいてにこにこ微笑んだ。

「意外と簡単にほどけるなあ。」

「か、かえしてください。」

フェイティシアはいたずらっぽい領主の見慣れた微笑を、
少しばかり怒って見つめた。

おお、コワ。
と、エルゼリオは肩をすくめてみせる。

エプロンを彼女の手の届く場所へ置いておくと、
胸の前で交差されたフェイティシアの腕が、それを取りに伸びた。

ふたたびため息をつきながら、
エルゼリオは早速彼女の服の胸のボタンに手をかけている。




・・・まったく「困って」いない。




先ほどのため息の意味が解らないほどの、
明快な行動である。


フェイティシアはボタンがはずされていくことに気づくと
再び「や・・・」
と可愛らしい声をあげた。
あまりにことが早く進むので、呆然とする暇もなく、
あわてて彼が開いた胸の前のボタンを
再びかけ直した。

が、神妙な顔つきでエルゼリオは再び彼女のボタンをはずし始めている。
「だ、だめっ。」
と、再び顔を赤く染めてフェイティシアがボタンをかけ直した。

二人の指が、互いに競い合うように、
フェイティシアのボタンの周りで動く。
はずしてはかけ、かけてははずしていく間にも、
二人の指は絡まっては解け、それを繰り返す。

彼女はレースを編むほど器用な指をしていたが、
少しばかり無骨で、
長く整った彼の指もまた、
この応酬に渡り合っているあたり、
酷く器用だった。


どちらかといえば、
落ち着いたエルゼリオの行動のほうが、
顔を赤く染めて、
あわててかけ直すフェイティシアよりも分があるようだ。

あるいは、服を着ている者から見た視線よりも、
彼女の様子を直視できる者のほうが、
それをやりやすいらしかった。



あせって顔を赤らめた彼女の様子を眺めながら、
おぼつかなくボタンをしめようとする
彼女の両手の白い指に、
エルゼリオはやっと自分の指を絡めさせた。



それから、両手で彼女の手をやさしく握ると、
シーツの上に固定させる。


「これでやっと困らない。」


エルゼリオは満足そうな笑みを見せる。
逆に困った表情で恥らう彼女は、
「・・・こまります。」
と、小さくつぶやいた。

が、それもすぐに聞こえなくなる。
彼の唇は彼女の唇にも首筋にも、
少し熱い。




朝の光がこぼれる部屋に、淫蕩なため息がこぼれていく。




その間も、フェイティシアは彼の両腕で組み敷かれている体を、
少しずつ浮かせようと試みた。
だが、やはり力では勝てない。

困って考えた末に、彼女は後で思い出せば顔を赤らめるだろう
行動に出ることを選んだ。



やがて、組み敷いていたエルゼリオは、
途中からフェイティシアの口づけが積極的になったことに、
少しばかりでなく大幅に驚いていた。

当然悪い気はしない。

彼女は上半身を浮かせるほど、
熱を入れて彼の唇を奪っているのだから。

「フェイティシア?」

おもわずエルゼリオが吐息交じりで思わず問うと、
彼女は酷く顔を赤らめて、虚ろな瞳を潤ませ



「・・・もっと。」



つぶやいた。




・・・もっと?




エルゼリオは一瞬固まったが、
次の瞬間には
意識せぬ間に行動に移していた。


唇を奪いながら彼女の両手を開放し、
再びボタンに手をかける。



と、


「えいっ。」


と、可愛らしいフェイティシアの声とともに、
エルゼリオの両腕がエプロンの紐でぐるぐる巻かれていく。
呆けてそれを眺めているエルゼリオの前で、
しっかりと両腕が縛られた。



・・・。



エルゼリオは目の前で一生懸命
エプロンを自分の腕に巻いているフェイティシアを眺めていた。

それは、たとえば彼女が真剣にパンの元を捏ねているときの
顔だとか、
そういうものに何故か近かった。


「・・・あの、フェイティシア?」

「・・・おしおきですっ!」

結び終えると、フェイティシアは顔を赤くしながら
両手に少し力をこめて、
彼の体を倒した。

腕が固定されたエルゼリオは、
面白いくらい簡単にベッドの上に倒れる。


「・・・途中までは最高だったのに。」


と、倒れながらエルゼリオは再びため息をついた。
今度は本当に困ったため息である。



そう。



彼女が「もっと。」なんていうことは、自分が言っても
フェイティシアには今まであり得ないのに。


しかし、誰であってもあんなフェイティシアの乱れた様子を見れば、
「もっと」だろうがなんだろうが、
奪いつくさないで「男ではない」という気になるはずだ。



・・・あれは殆ど本気に見えた、



などとエルゼリオは思い出して彼女の様子を反芻する。
できることなら、もう一度や二度以上に
何回でもお目にかかりたい。

「えいっ。」なんて声も、フェイティシアはそうそうあげるものではなかった。


色々反芻したエルゼリオは
思わず思い出して笑ってしまう。




その様子に、全く懲りていない彼をみつめて、
フェイティシアは小さなため息をついた。



「・・・『もっと』、までは。」

「い、言わないでください。」

ボタンを留めなおしながら、フェイティシアは顔を赤らめる。

エルゼリオはベッドに倒れこんだまま、無表情で繰り返して見せた。

「もっと。」

「エルゼリオ様!!」

「あ、今のは俺の願望のほう。」

「もうっ。」

彼女は寝台の上から床に立つと、「お食事お持ちします。」
と、ため息混じりに声をかけた。

「いっちゃうんだ?」

と、エルゼリオはベッドの上からうつ伏せで
身動きせずにフェイティシアに問うた。
何かひどく憐れを誘う様子で、
フェイティシアは心がぐらついた。

昔、随分昔のことだが、
「おしおき」をした後のエルゼリオは総じてしおらしかった。
仕置き人の誰もが仕方ないと折れることも
しばしばなほどである。


全くそういったところは、変わっていない。


が、今折れたら二の舞になりそうだったので
フェイティシアは「お食事を持ってくるまで、です。」
と、仕置き時間をきめておく。

「・・・まだおこってる?」

「・・・はい。」

フェイティシアは答えてから、しばらく彼の様子を眺めた。
視線が合うと、彼女は言葉とは裏腹に少し微笑んで、
部屋の戸を閉める。


エルゼリオは両手に結ばれたエプロンの紐を眺めて、
再びため息をついた。

















それから数十分後。



食事を運んできたフェイティシアと、
その後について部屋へ入ってきたライジアは、
ベッドの上で何かを手に巻きつけて
うつぶせに倒れた領主を発見した。


「・・・。なんです、あれ。」



眉をひそめてフェイティシアのほうを見やると、
顔を赤らめながら視線を合わせない。

ライジアは「ん〜」と唸ると、
こりゃなにかあったな・・・。
などと妄想した。


一通り朝食をまっさらなテーブルの上に並べ、
支度を終える。
それから、ベッドのそばへ近づいてみた。


何か奇妙な生物を見やるように、
ライジアは色々な角度から
例の存在を鑑賞してみる。



微動だにしないわりに、
何か小動物的オーラが発散されている領主は、
領主という雰囲気では到底ない。




「・・・お食事、できましたけど?」



一応、ライジアは声をかけてみる。
本来なら、フェイティシアがかけそうなものだが、
どうやら今朝は自分の役目であると判断した。
しかも、随分と小動物の雰囲気なので、
いつもの凄み(でも、ほぼ無いに等しい)はどこへいったのか
さっぱりである。



「・・・。」



エルゼリオはくるっと体をねじると、
観察しつづけるライジアを無表情でじーっと見つめた。

ライジアもじーっとその様子を眺めたが、
どうやら手に巻かれているのはエプロンらしい。



ま、まさかフェイティシアさまのっ!!?



ライジアは声をあげず驚いた表情をして、
口をぱくぱくさせると、
あれがこうなってこれがああなってと、
指先でフェイティシアとエルゼリオの姿を
何往復かさせた。
その間も、ライジアの脳内は
フェイティシアのエプロンを脱がせるという、
淫靡な光景でいっぱいである。



朝。いま、朝朝!ああ、朝なのに・・・この・・・。

ライジアは思わず溜息をついて、



「・・・天罰!!」


びしっと領主に指を指すという
おこがましい行為を行った。
それからせいせいした、といった気分で
腰に手を当ててエルゼリオを眺めた。


「・・・とって。」


と、彼は何故か言わない。
しかし、その眼がありありと何かを語る。

ライジアは思わず召使いとしての心を揺さぶられた。

これは・・・とってあげるべき?
でも、でもフェイティシアさまが・・・。

と思い悩み、支持を仰ごうとするフェイティシアだったが、
フェイティシアはいつもどおり朝の麗しく清清しい光の中で、
お茶を入れている。

朝の光は清浄な空気で満ちていて、
磨きのかかった新しい靴を履き、
うっとり眺めるときのように
自然と嬉しさがこみ上げてくるライジアである。



・・・この光景も見納めかあ・・・。



などと、つい考えてしまう。


この部屋や、このお屋敷でのことも、
風景やお部屋や食器も、
旅にはないもの・・・。
ちょっとだけ、さみしいな・・・。


先ほどロイドに休暇願いをほぼ「叩きつけ?」てきた。

何故か、ロイドは憔悴しきっていて、
もっと反対するだろうと思っていたことが、
意外に短時間(30分はかかったが)で済んだのには、
驚いた。


でも、フェイティシアさまと旅なんて、わくわく・・・。


と、ライジアは一人の世界へ没入しつつある。

しかしはた、と気が付いて
ライジアは目の前で寝そべる領主の姿を
あらためて眺めた。

彼は今、仰向けになって天井を見つめたまま、
微動だにしない。

額にこぼれる金髪は、天蓋の影に隠れて
少しばかり曇った色をしているが、
それでも柔らかく見事な輝きでいる。

整った高い鼻梁から、
新緑の瞳のなんと豪華なことだろう。
厚い唇は、おそらく
多くの女達を捕らえ溶けさせるに十分な形をしている。

体躯は、
服を通してでも素晴らしく整っているように見え、
前がはだけた上着から、雄雄しい胸板が覗いていた。

腕に巻きつけられているエプロンですら、
もしかしたら引きちぎることもできるかもしれない。


いや、おそらくできるのだろう。


ライジアはまじまじと領主を見つめ、
いつのまにかしゃがんで、頬杖をついていた。


この領主のお気に入りの召使いは、
今から「婚約者」なるもののいる土地へ向かうのだ。
まだ見ぬ婚約者とはいえ、
ある程度地位も保証されている。
おそらくだが、
彼女の叔父であるロイドの目にかなった人物だから、
相応にふさわしい人格の人物なのだろう。

だが、それを、彼は知らないのだ。
そして、今日領地を旅立ってしまう。

と、思いを馳せたライジアは、何か複雑な気分であった。



・・・こういう別れ方って、あんまりかも・・・。


「・・・フェイティシアさま。あの、
領主様のこれ、解いてあげてください。」


ライジアは、心の中で「ほどくな!」と命令を下す天使を、
ちょっとばかり無視して、懇願した。

ベッドの上では、意外そうな視線の領主。
彼の表情を眺め、ライジアも心の中で
「私も私が意外だわ」
と思わずにいられない。

自分でも困りはてて、事の発端の女神様へ
視線をむける。
慈悲深い聖母のようなたたずまいのフェイティシアは、
ライジアへ困った微笑みをかえした。

「お食事を運ぶまで、でしたから
もうほどきます。大丈夫ですよ、ライジア。」

彼女の声はつとめて優しい。
しかし・・・


「いいよ。」


と、突然答えたのは、エルゼリオだった。

ライジアは目をむく。

こちとら慈悲をかけとるのに、その態度はなんじゃ〜!!
と、思わず拳を振り上げそうになったが、
彼の瞳は天蓋の闇を見つめて、
何か物思っていた様子だった。

おおかた、
「召使いに慈悲をかけられる領主ではない」
といったようなことなのだろう。

そう、ライジアは想像して思わずムカつき、
強く鼻息を噴出した。

が、例の領主の言葉は意外なものだった。




「フェイティシアは、ほどくのが苦手なんだ。」




その言葉に、フェイティシアは思わず顔を上げた。
驚いた表情の彼女の瞳には、
彼と同じく部屋の景色も、そしてライジアも映っていない。



彼女の耳のそばで、少年の声がする。

瞳にうつるのは、幼い日の、思い出・・・。










その日、あまりにも熱心にレースを編んでいた彼女は、
そばで暇を持て余していた彼に、
編んでいたものを奪われていた。


四六時中編んでいたわけではないが、
こつこつと編み続けた、新しいパターンだった。
形が出来上がっていくと嬉しかった。

エルゼリオが暇そうに、
しかし夢中になっている彼女を眺める間も、
彼女はその視線を感じていなかった。

朝の光も、昼の光も、夕日が差すころになっても、
夢中になってしまえば、
いつがなんであろうが、
彼女にはわからなくてもよかったのだ。


快活な少年であるエルゼリオは、
それがどうもよくわからないのだった。


何故、あんなふうなことを、ちまちまとやるのだろう。
確かに、素晴らしい出来で、しかも喜ばれる。
色々なことに使われるし、テーブルクロスだって
ものの数時間で出来上がってしまうだろう。

けれど、彼女がそれをする必要はないのではないか?

エルゼリオは寝台に横たわって
枕を抱きながら、眉をひそめていた。



そう、彼女がする必要なんて無い。


エルゼリオが不満なのは、おそらく彼女にその仕事を与えている
もう一人の乳母の存在だった。
あの年老いて凝り固まった老婆は、
自分が正しいことをしていると、思い込んでいるのだ。
それが、幼い彼にどれだけ不可解か。

彼女はこう言うだろう。
「いずれわかることですよ。ぼっちゃま。」
と。

だが、果たしてそうなのだろうか。

彼女が、窓の外で楽しげに歓声をあげている
召使いの少女達の中で、同じように楽しげに遊ばず、
そして彼とももちろん、外で駆け回ることを禁止されている。

いずれ。

いずれ。

いずれ、だ。

おそらく、いずれ彼も彼女もそんな年を過ぎれば、
歓声を上げて駆けることすらできなくなる。


今。

今しかない。


その思いが、彼を奇妙な行動に移させた。

おもむろに、フェイティシアの編んだレースを取ると、
椅子に座って思わず固まっている彼女の前で、
レースを編むための棒を、静かに引き抜こうとした。



彼の瞳は、しかし、彼女の瞳を、表情を見据えている。




フェイティシアがどうでるのか、見張るように。
それでいて、いたずらを楽しんでいるわけではなく、
真剣に、何かを訴えようとするように。


フェイティシアは、知らぬ間に目の前の幼い領主の手を、
掴もうとしていた。
今までのことが、時間が、ふいになってしまう。


「ほどかないで・・・。」


小さな悲鳴のような声で、フェイティシアは思わず叫んだ。
夕闇が差し掛かる頃、
突然、部屋の空気は冷たくなったように感じた。

しかし、エルゼリオはそんな悲鳴も聞かず、
半ば苛立った様子で、
彼女のレースに必要な棒を、幾本か引き抜くと
ゆっくりと白い糸を引いていった。


煌びやかな模様をつくっていた糸は、
簡単にほどけていく。

白い。

彼女の時間。

彼の時間。

そして、おおよそすべての時間が、
彼の足元に流れ、積もっていく。



今までの苦労も嘘のように・・・。


フェイティシアは、そのままじっと
彼の様子を見つめていた。
かつて、舶来の奇術師が手に持っていた果物を
一瞬で消したときの、奇妙な感覚すら覚えた。


ああ。


彼女は、小さくため息をついている。
少し、瞳に涙が溜まった。
が、彼を止めようとしないのは、
彼が領主だからではない。

言葉にならない何かを、
必死で読み取ろうとしていたからだ。


エルゼリオの足元に、糸が白く散らばり終わると、
彼は小さくつぶやいた。



「フェイティシアは、ほどくのが苦手なんだ。」




そして、部屋へ食事を持って入ってきた老いた乳母に、
彼は嬉しそうに微笑むと、
フェイティシアのレースをばらばらにしてみせたことを
誇らしげに語った。

乳母は新しい仕打ちを、随分楽しそうに聞きながら、
フェイティシアの沈んだ様子を眺めて
さらに満足げに微笑む。


エルゼリオは、この老婆のいつもの笑みが大嫌いだった。


一刻も早く、この屈折した老婆から
フェイティシアを離したい。



そのために、彼女のレース編みを終わらせなければならないのだ。



「じゃあ、これからフェイティシアの編むものは、
みんな解いてみるよ。」

エルゼリオは、老婆にこれからもレースを編めば
かたっぱしから解くことを、無邪気に、高らかに誓う。

一瞬喜んだ微笑の老婆も、
それでは困ると気づいたのか、
慌ててエルゼリオをたしなめた。


それは困るだろう。
何せ、フェイティシアが作ったものはすべて
かの老婆が売って、その売り上げ全てが、
老婆の懐に入るのだから。


それを思うとエルゼリオは、
さらにだだをこねてみせ、

「いいっていっただろ。笑ってたじゃないか。」

といたずらっぽく万遍の笑みを見せた。





「フェイティシアは、解くのが苦手なんだから。」












その後の記憶はおぼろげだが、
覚えている限りでいえば、フェイティシアはその後、
エルゼリオと一緒に外で遊ぶ機会を得た。

実のところ、彼が彼女と外で遊びたいがために、
小さなテーブル用レース一枚分をふいにしたのかもしれなかった。

晴れた日に、野原のやわらかい草を踏む感触は、
レースを編んでいるときよりも、心地よい。

だが、レースを編み終わった後の感動は、
野原で駆け回ったあとの、
遊びが終わってしまう哀しさには、到底かなわない。

どちらかを選べといわれたら・・・?

考えると、フェイティシアは今でも迷わずにられない。
当然、幼かった少女であったフェイティシアが
二つのうちどちらかを選べるはずもなかった。

日差しの中でかけまわる彼を眺めながら、
木陰に座り新しいレースを編む。



いつしか、そんな風に彼女の中で何かが決まり、
そしてそれが「彼女」になった。




フェイティシアは、目の前の寝台の上で
同じく思い出に口元をゆるませている、成長した領主を見つめた。

「今は・・・」

と、フェイティシアは彼のいる寝台へ近づく。


「もうほどくことだってできます。
練習はしていませんけれど。」


エルゼリオは微笑んでいる。


ライジアは二人の様子を察知すると、「あ、あたし色々用意します。」
と、旅の準備に心を傾けることにした。
今日は心の中の天使も、魔手をもつ領主の所業を許してやろうという
慈悲があるらしい。

扉がそっと閉められると、
フェイティシアは彼の傍らに膝を付いて、
手に巻かれたエプロンをほどきにかかった。

思いのほか、きつく結んでしまったことを悔やみながら、
赤い顔で彼の戒めを解こうとするフェイティシアに、
エルゼリオはくすくす笑った。

「やっぱり、解くのは苦手なんだ。」


「できますっ。」


「そうかな・・・。」


エルゼリオの唇が、無防備な彼女の首筋をなでていく。
意識が集中できずに、
ほどこうとするフェイティシアの指先がおろそかになっていく。
顔を赤らめている横で、
エルゼリオは涼しげに、彼女の耳元で問うてみる。


「おおかた、教えてくれないことも、絡まってるんじゃない?」


「・・・。」


彼の吐息交じりの声は、彼女の耳元で深く体に振動していく。
やっとのことで彼の戒めを解くと、
かえって彼女の体が彼の腕に絡めとられた。

綺麗に縁取られた睫と、深い色をたたえた
二人の瞳から、視線が絡み合う。


「俺がといてあげようか?」

「・・・じぶんでほどけます。」

「そう?」


「・・・それより、腕をといて下さいませんか?」

「フェイティシアに、結ぶのが得意なところを見せたいんだ。」


エルゼリオはいたずらっぽく微笑む。

が、腕の中で何か思いつめたように
睫を伏せる彼女を眺めると、
エルゼリオはため息をつかずにはいられない。


やはり、彼女は秘密を教えてくれる気がないらしい。


彼は彼女を捕らえたまま、
もう二度と離したくない気持ちをこめて、
少し苛立たしげに口を開いた。


「・・・ロイドから聞いたよ。
アルデリアへ行くんだろ?」


「!!」


フェイティシアは目を見開いて、エルゼリオを凝視した。

一体、どこまで知っているのだろう。
旅に出るということ?
かつて戦争の相手をした国の領地へ赴くこと?
そこに、見もしない婚約者がいること?

そして、旅の間も、あるいはその後どうなるのかも、わからないこと?


一度に不安が爆発すると、
フェイティシアは折れそうになる心で、
瞳に涙をにじませないよう努力した。

自分の肩と腕に絡まる、彼の腕や手のひらを
どれだけ大きく、温かく感じたことだろう。


彼はすでに、彼女よりも随分昔に、
その長く辛い旅を終えて帰ってきたのだ。

ひとりで。

孤独に耐えて。



それを、できるだけの力が私にはあるのだろうか。



絡まる幾多の結び目の中心に、
いつも横たわっている疑問。
答えの見つからない疑問。

それでも、考えずに朝を向かえ、鏡の前の自分に
「できる」のだと。
「やれる」のだと、小さな子供に言い聞かせるように。



・・・彼の前では、何故かそんなことが嘘のようにはがれてしまう。



これほど辛い気持ちにさせるのはきっと、
彼しか居ない。
それでいて、どこかで安らいでいる自分がいる。


思わず、彼の胸の上に手を置くと、
小刻みに震えているのがわかった。


こんなに自分が脆くなってしまうなんて。


そしてその震えは、エルゼリオにも伝わっていた。
アルデリアへ向かうことを教えたとたん、
彼女が向けた驚きのまなざしと、その後の行動。
推測しなくても解る。



・・・驚かせすぎた。


エルゼリオは気づかぬまに、
彼女の肩から柔らかな二の腕ををゆっくりなでて
震えをなだめようとしている。

混乱してしまいそうだ。

いつだって泣かせる気はないけれど、
こうして素の部分を見せてくれる彼女が愛おしくて。


「・・・何しにいくかは知らない。
行きたくないなら、行かなくてもいいとすら思ってる。

俺はしばらく、フェイティシアと会えなくなると思っていたし、
ここで、この領地で待っていてほしいと思ったから。

でも、今は何も聞かないでほしい。
ここで詳しく説明するのは省くけど・・・。」

エルゼリオは指で彼女の顔にかかる髪を耳にかけて
できるだけ表情を読み取ろうとした。
どんな顔をするだろう。


「送っていく。
一緒に行こう。アルデリアへ。」


そのとたん、彼女が顔を上げたときの、
言いようの無い表情が、目に飛び込んできた。

それは、かつて彼に彼女が忠誠を誓ったときの表情に、
少しだけ似ていた。



けれども、数倍も違う。



普段は茶色に見えるその瞳が、
濃い黄金色にきらめいて、潤んでいる。
薄い紅色の唇が、微かに震え、
けれども、彼の胸に当てられていた彼女の手の震えは
もうない。


「ああ。」


と、彼女がつく溜息は、到底失望の色など含んではいない。
賛嘆、とでもいおうか。
そして、彼がもっと見ていたいと思った表情は、
彼の首のあたりに飛び込んで、
彼女の甘い香りをまとった腕と体、柔らかい重みが、
胸に一度に飛び込んできた。


「エルゼリオさま!」


耳元で聞こえる彼女の声が歓喜に震えている。
彼女の頬や顎が、彼の首もとで
身を摺り寄せるように動いた。
柔らかな胸が、彼の胸に押し付けられ、
思わずもうしばらくそうしていられるように、
エルゼリオは腕をしっかり彼女の背に巻きつける。

首のあたりに巻きつけられた、フェイティシアの腕を感じながら、
エルゼリオは「ん?」と、嬉しい声をもらした。

そのとたん、彼女ははっと我に返ったらしかった。
思わずはしたない、
召使いにあるまじき行動をとったと、思ったらしい。


「あっ、あの、ちが・・・。」


「だから、全然違わない。」

彼女は顔を赤らめて少し身を離す。
しかし、がっちり捕まえられた彼の腕は、
びくともしなかった。


「あの・・・でも。今日、エルゼリオ様は王都へ向かわれると・・・。」

「だから、詳しいことは今は話せない。」

「・・・あの、・・・あの、ありがとうございます。」

フェイティシアの表情は、心底嬉しそうなときに見せる、
例の表情で彼は少し驚きを隠せなかった。
例えば、新しいレースのパターンを覚えたときの表情や、
それが出来上がったときの表情にも近かった。

相変わらず、彼の瞳を見つめてはいなかったけれど。

それが、どうも彼には気に食わない。




少し首を動かして、うつむく彼女の唇をすくい取るように奪った。




また二の舞になっていることに、彼は気づいている。

けれど、先ほどと違うのは、
彼女が彼の前で抵抗するのをやめたことだ。

驚きと、歓喜と、そして少しばかりの謎を含んで、
彼女の視線は彼を捕らえた。

彼女の潤んだ瞳に見つめられると、
言葉がでなくなる。

その声に語られると、
体が甘く震える。

官能的な唇が、うっすらひらくだけで、
彼は祈る気持ちで
その声を待つ。

「エルゼリオさまは・・・。」

「うん?」

彼女はそう囁くように言葉をこぼして、
心のどこかが焼けてしまいそうな
微笑をみせた。


「エルゼリオさまは、上手にほどけますの?」


少しだけ甘えて、挑発するように、
彼女は問いかけてみせる。


ああ。


彼は、またため息をついていた。
けれどもそれは、おそらく失望の色は到底含んでいない。
むしろ、満足したときのそれだ。


「いくらでも。」


その言葉の意味は、殆ど編み物のことを指していないのは、
二人の間では明白である。

今度は両手を戒められることもないだろう。
彼女が、望んでいるのだから。


再び彼女を寝台へ横たえると、
とりあえず柔らかく結ばれた唇を、
解くことからはじめた。



彼女が隠している何かが、
こんな風に楽しくとければいいのに、
などと願いながら・・・。




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