月が、青白い光で彼女の肌を照らした。



深々と胸を貫く剣は、本来の持ち主の手を離れている。
しかし、その黒い刀身は月の光すら受け入れない暗黒に艶めいていた。

彼女の体の血すら、吸っていそうな刃だった。


と、
刀身が震えると柄を握った手が力をこめる。

無造作に、何の躊躇も無く、
刀身が死体から引き抜かれる。
傷口が開き、生命を失ってなお、彼女の胸からは
どっと赤黒い血液が溢れ出た。


「汚い。」


飛び散った赤黒いそれが、
刀身を鞘に入れた持ち主の顔に飛び散っていた。


しかし、拭おうとはしない。


必要が無い。
何故それをする必要がある。
拭ったからといって、再びまた再びだ。


くるりと眼球をめぐらせ、
しかし無表情は、不気味につり上がった唇の端によって
消された。


「あはは。」


心の無い、ただ笑うという行為を行っていればいい、と
妙な妥協をした笑い声が、深い森に木霊した。
木霊は森の木々をすり抜ける夜風で、
不気味な反響を奏でる。


そうそう。
確かに。命令は下った。
だからといって、絶好の自由を逃すわけには行かない。
みんなそう思った。
だから当然逃さない。
たとえ王様の命令であろうとも。


けれども仕事は完璧にこなす。


だからこそ、こういう機会が
最高の余興になるのだ。

土を舐めるほど這いつくばり命乞いをしたり、
苦しみ泣き叫びながら息絶えていく者を
足蹴にしながら、
自分の中にわだかまった何かを重ね合わせていく。

眼下の敗者が苦しめば、
どれだけ自分の中が浄化されるだろう。
消え去れば、居なくなれば、どれだけ救われるだろう。


「何故」とは考えない。
それが鉄則。


「まだいない。もどっていない。血がつめたい。
かなた。取り戻せない。扉の向こう。王様。」

ぶつぶつとつぶやいて、
何かを待っている。

しかし、
望みのものは得られない。


足元に転がる死体の、どこの誰だかわからない女の頭を、
子供が石を蹴るように蹴って、
その場を後にする。


号令がかかる。


命令に従おう。
習性として体が動くとおりに、
草を踏みしめて歩を進めた。









『天に血の足跡、地に鳥の翼2』









「なんなのよ。この朝食はあ。」




エルゼリオが眠った客室で、
やわらかいソファーに
ここぞとばかりにふんぞりかえったララーは、
口を尖らせてぶつぶつと何かこぼした。
どうやら、自分が食べていた朝食とは
あまりにかけ離れた豪華さだったため、
面食らったらしい。

とりあえずうれしい悲鳴などあげ、
サラダ、肉、パンなどののせられた皿2,3枚を手元におき、
残りは足元のカーペットに置こうとして、
ふいに暴力的に伸びた手に奪われた。


「こちらにお置きに。」


念を押すように、ナイルがドスをきかせて
近くの小さなテーブルにそれを置くよう促す。


「いやよ。だって遠いもの。」


駄々っ子のように、ララーは皿を奪い返し、
上に載っていたパンをほおばり始めた。
実に美味い。
この領地の白いパンは、(そして特に領主・客人用のパンは)
ふかっふかの一級品である。


「では、せめて皆様と席につかれてはどうですの?」


ため息交じりで、ナイルは指示する。
彼女の視線は、
心中を語って余りある。

多分従いそうに無いことも想像できる。
正直信じられない。
一体、どこをどうなって節操というものを知らない体になったのか。
酒は飲むわ、朝は遅いわ、愚痴は言うわ・・・。


ナイルはこめかみがぴくぴくしそうなのを、
あくまで麗しい仕草で押さえつけた。
彼女の大混乱な心中とは裏腹に、
さりげなく軽い仕草のように見える。


しかし、それはあくまでララーが客人という立ち居地にいるからで、
ライジアであれば、雷鳴轟くが如くお怒りが下る。


あっ、あれは雷のサイン。


と、エレンガーラの朝食を運びながら、
ライジアは思わず震えた。


恐ろしい・・・。
あれを見たものは、二日間は説教の呪いに夜も眠れないのです・・・。


ライジアはナイルを覗き見たために、
思わず朝食の皿の上に、もう一枚皿を重ねそうになり、
ひやりとした。
椅子に座ってライジアを見ていたエレンガーラは、
「たべる?」と
にこにこしながら手に持った皿を差し出す。

「えっ、いえ、あの、だいじょうぶです。」

「そう?おいしいのに。」

「ええ。はい。実に。」


ライジアは思わず整然と並んだ、きらびやかな朝食をながめ、
涎をぬぐおうとして「ライジアっ!」とナイルに怒られた。


「もう少し静かにしてくれ。」


と、紅茶を注ぎたすフェイティシアを横に
エルゼリオが満足そうにその紅茶を口に含んで言った。


「あら、失礼いたしました、領主様。」


領主様、のあたりには何か痛々しい棘が含まれている。

しかし、何故か表情がやわらかいのは、
エルゼリオではなく隣に立ってひかえている
フェイティシアを見ているためだろう。


「フェイティシア、ここはよいから荷物の準備をなさったら?」


「ええ。」
と鈴の転がるような声を聞く前に、
エルゼリオがそれを制す。

「フェイティシアも俺と行くことになった。ロイドから、聞いているな?」

「・・・ええ。聞いております。」

ナイルは目を細め、獲物を眺める雌豹のような気配を漂わせた。
一方でエルゼリオは、どこか領主然たる風格で、余裕の笑顔である。


恐ろしい・・・。

ライジアはおもわず空気にどきまぎしてしまう。
このぴしぴしっとこめかみにくる感じ・・・。
あれだわ。港の魚市場のおじさんと魚を狙う猫。
ちょっとたとえが高級じゃないけど。


ただでさえ、先ほどフェイティシアのあごを持ち上げ、
こともあろうに唇を奪おうとした領主の姿を見せ付けられ、
叫び声を挙げた複数名の前で、
飛ぶように走っていきエルゼリオからフェイティシアを引き離した
ナイルの行動が目に浮かぶ。

その間も、まるで何事も無かったかのように
飄々と微笑んでいたエルゼリオに、
ディム・レイ語で非難?らしき言葉を浴びせて
さらにフェイティシアをかばったエレンガーラ、
そしてライジアももちろん加勢した。

「領主様、お戯れが過ぎますわ。」

と、ナイルの一言にも
エルゼリオは

「フェイティシアの顔をよく見たかっただけだよ。」

などと適当なことを言う。

しかしあれはまさに、
至宝の唇を狙わんとする悪の所業としか言いようが無く、
よってライジアはエレンガーラの分の朝食を
運んでくるように命じたナイルに従い、
フェイティシアをつれて部屋を出た。

背中で「あららら残念〜。でもおにあい★」

と、確かに納得なことを言ってのけたララーには、
ちょびっと、多く見積もって半分くらい
心の中で共感するライジアであった。


しかし、ナイルは違う。


ライジアはエルゼリオとナイルの間の空気に飛び交う、
魚市場のおじさんと猫の、魚の奪い合い、
目に見えない空中戦を夢想して、
フェイティシアに視線をうつした。

当然、フェイティシアは魚というより人魚である。

たまたま港で、偶然、何万分の一かの確率で、捕まっちゃった
絶世の宝石のような魚か、完璧な美女人魚か、
あるいは宝そのものか。
魚市場のおじさんでなくて喜ぶべきか、
あるいは魚市場のおじさんなら、やさしく海に放してあげるのか。


それはライジアのそばで、
思わずフェイティシアを直視してしまい、視線がはずせず、
フォークが皿の上の肉に刺さらないまま、躍らせている
エレンガーラの心中にも似ていた。


フェイティシアの姿たるや、
朝日に照らされた女神そのものである。

ふと、窓の外を眺める仕草も、
隣にすわって視線を送るエルゼリオに微笑む表情も、
圧倒的に天上的である。
清涼な雰囲気に蜂蜜のような甘い空気。


「いいわあ〜。フェイちゃん、いいっ!ああん、もっとそこにいてえ〜。」


思わず歓声を上げてソファーの上から手を振るララーに、
ナイルはぎんっ、と刺すような視線を送った。


「あら、いいじゃない?ねえ?」


と、目を細めて笑みを浮かべるララーは、
杯をちょっと上に持ち上げてナイルに問うた。
まるで酒を飲んで、輝かしい至上のものの存在を祝う
夜の女王の風情である。


ナイルが怒りの視線を送っているのは、
おそらく自分も歓声を上げたいのに、召使いたるものが
領主と客人の前でそれを行えないというジレンマに似た感情のためである。

顔が赤く染まり、何かに耐えているような
珍しい表情を見せた。


つねづねナイルとララーの関係を見るにあたり、
ライジアは実に興味深い感情を覚える。


ララーはあんな生活習慣不健全そのものに見えて、
まるで星の無い夜空である。

ライジアがララーにひそかに夜の女王の称号を与えているのは、
かつてフェイティシアに出会う前、
路上で出会ったやさしい?娼婦に実に似ているからなのだが、
そういう人間というものは、
ライジアの中では、一つの信念のような何かを
持っているように見えた。

実にそのためなら、媚を売ろうが、体を売ろうが、自分を殺そうが
一向に知ったことではない、
というような諦観にも通じているようだ。


その癖、何かを完全に諦めていない。


全てがそういう娼婦ではないにしても、
とにかくライジアはララーが嫌いではない。

だからこそ、
威勢のいい男勝りのナイルが持てない強さを、
ララーが持っているように見えるのは、
気のせいなのだろうか?


「それで?みんなで旅行?いいわねえ〜。」


杯の中身を飲み干して、ララーはにまりと微笑む。
すらりとした足を組み、
我こそこのソファーの女王という貫禄で、
背もたれに寄りかかる。

「ちょっとそこの素敵なお兄さん。」


と、朝食を口に運ぶエルゼリオに声をかける。

エルゼリオは楽しそうにララーを眺めた。
ライジアが彼の表情を見るに、我が領地の伯爵領主様も
ララーのことは嫌いではないらしい。


「まさか私をつれていかないわけないでしょ?」


「ん?」

何か奇妙なことを聞いた、と、ナイルとライジアは声をもらし、
息を止めて眉をひそめる。
思わず同時にライジアとナイルが首をかしげた様子に、
フェイティシアはきょとんとしてララーを見つめた。

隣のエルゼリオは目を細めると、

「勿論。ご希望ならば。」

と紳士的に返答する。


ええええええ〜!


と、声を出さずに心中で叫ぶライジアは、
目をひん剥いてエルゼリオを見つめるナイルに、つい同情した。

一方のエルゼリオの表情は実に涼しげである。

むしろ楽しげにカップを掲げ、ララーに旅の祝福をいのり、
口に運んだように見えた。
それを眺めて、ララーはいわくありげな微笑を見せると、
「喰えないこと。」と呟く。


「ん〜。これうま。」


やっとフェイティシアから視線を放すことができたエレンガーラが、
肉をほおばり感想を漏らした。

羊の肉はどうやら舌にあったらしい。



和やかな朝食の時間は、一応のところ成り立っているらしかった。














絶妙な空気とともに朝食が終わった後、
ライジアはナイルから馬車で向かうことを告げられた。

見慣れた自室で旅行荷物をつめこむライジアは、
手持ちの簡素な地図(しかも手書き)
を見ながら、ナイルの説明を聞く。

そばでララーが、窓枠に腰掛けながら空を見ていた。


「馬車。馬じゃなくて?」

「そうね。あなたは馬かもね。」

ナイルはドアにもたれて、腕を組んでいる。
どうやら領主様の意向がわからないらしい。
とくに、ライジアを連れて行くか否か、については
先ほどの朝食後のやり取りで、

「一緒にいきますっ!」

のライジアに「・・・いいけど?」と何かちょっとひっかかる言い方をしたためだった。


「いいけど?」なんなのだろう。

ライジアは少し不満げに、荷物を作っている。
といっても、
どの服を持っていくか迷っており、これがいいか、
あるいはあれがいいかなどと
入れたり入れなかったりしているのだ。


・・・やっぱり足手まとい・・・。

でも、もう決めたし。
ていうか、絶対決めてる!


「馬・・・。乗れます!」

「うそおっしゃい。貴女この前、
馬にのったら高速甚だしく駆け出しちゃったでしょ?
フェイティシアと私が止めなかったら、あんなに走る馬見たこと無い。」

「何〜?ライちゃん馬乗れないのお?」

ころころとララーが笑う。


「あ、あたしは止め方知らなかっただけです!
ララーさんこそ、どうなんですか。」

との問いに、「あら、あたし乗れるわよお〜。
ただ、私が乗るとあんまり走らないけど。」

と、どうやらライジアとは真逆の対応をとる馬事情がわかった。

思わず旅中止勧告がなされそうであることを予知し、
冷や汗をかくライジアである。


「客人であるララーさまは馬車に乗ってください。
ライジアの馬は私が誘導します。」

と、何かを諦めた風情のナイルである。
しかしララーは突然駄々をこね、

「あらあ。私も馬がいい〜。あんまり乗る機会ないし、
あたし重たい荷物もてないし〜。」

などとのたまい出した。
ライジアから見れば、恐れ知らずとは彼女のことを言うのだ。

「きっと山付近では・・・。」

と、ララーは窓を眺めながら歌うように楽しげにつづけた。

「雪はないけど、山道前で馬は引くか、もしくは乗り捨てるか
どっちかになるでしょ?
山脈付近なんか、どういう道通るかによっちゃ、
馬なんかじゃ動けないんじゃないかしら〜」


「ええー、そうなんですか?
私、山脈のほうへは1.2度しか行った事無くて。
深いほうまで足を運んだことは・・・。」

と、ライジアが感心する。

「んっ?ライちゃんって都会っこだっけ?」

「あ、都会って言うか、でも王都側の都市にはいました。
山や海ってあんまり行った事無くて。」

だからこそ、フェイティシアに連れられていった
はじめてみる海や、山脈手前の森は、
ライジアにとってひどく印象的な風景となった。

「はじめて」はライジアにとって、嫌いなことではない。

特に、フェイティシアがいれば最高になる。


「たしかにそうね。でも、実際馬車を一台持っていくかどうかも疑問なのよ。
さっき馬小屋に行ってみたけど・・・。」


ナイルは本来馬車馬にされない馬を数等、
馬車につないでいること。
さらにつないだ馬たちが、それぞれエルゼリオがよく乗る馬、
あるいはフェイティシアがよく使う馬らしいことを伝えた。


「馬車は捨てて馬だけ使うこともあるでしょうね。
でも、乗り合い馬車は四人が限度よ。
一応領主様用だし、客人2人とフェイティシアを入れれば、
私とアナタはあぶれるの。
わかった?ライジア。」


「私は馬にのれますっ!」

ばちんとかばんの蓋をしめて、
「ぜ、絶対フェイティシアさまと一緒にいきます!」
と少しかすれた声で叫んだ。

その意気込みは、ナイルも時に驚くほど強い。
ララーは「ライちゃん、どうどう。」と、馬扱いでいるが、
ライジアの鼻息は依然荒い。



一体何が、これほどまでにライジアを駆り立てるのか。



しかし、ナイルはその様子に息の抜けたような笑いをし、
「いいわ。一頭、用意しておきます。」
と約束した。

部屋を出て行くナイルと入れ替わりに、フェイティシアが入ってくる。


「どうしましたの?ライジア。顔が真っ赤。」

と、少しあわてた様子を見せた。

ライジアはあわてて、息を吸いなおして呼吸を整える。
フェイティシア様には、なるべく心配かけたくない!
という心がけが成した技であった。

しかし、逆に吸いすぎてむせ始めた。


その様子に笑いながら、ララーが
「ああん。もう。いわんこっちゃない。」
とライジアの背をさする。

「ライちゃんたらも〜。いきがっちゃったのよ。
馬に乗れます〜って。実際のとこ、結構危なそうだけど。」

「ええ。乗れますわ。
私よりも、うまいくらいです。」

との返答に、ララーは「駆け出したんじゃなかったの?」と問い、
微笑み返すフェイティシアの笑顔にしばし見とれた。

「あれだけ走る馬の上に、ずっと乗っていられるんですもの。
落ちたりもせず、それにふふ、あの時・・・。」

むせがおさまったライジアは、フェイティシアの微笑みに
少し「?」な表情を見せた。

フェイティシアはつづけて答える。

「あの時、馬が止まってからの第一声が
『景色が最高でした。』だったんですもの。
あんなに速ければもっと怖いなんて、怯える子だって多くないのですよ。」

「あらあら。」

と、ララーは意外そうに微笑み

「へえ〜。ライちゃんスピード狂なのねえ。」


などと感心した。

が、実のところライジアは内心そうではないと解っている。


馬が急速に走り出した時、
正直声がでないほどの風を感じ、震える手で手綱を引いた。
馬はまったく止まる気配もなく、
ライジアは成すすべもなく、馬の首にしがみつくと
呆然と遠くを見つめるしかなかったのだ。

高速でゆがんだ景色は、
いつか路上で風景を描いていた絵師が持っていた
ブラシでかき混ぜられたパレットの上の絵の具のようだった。

が、視界が開けると、
遠くの景色は動かないことに気づいた。

その景色をただ「見ているしかなかった」が正解である。


「・・・ちがいます。結構大変だったんですから!
フェイティシアさまに褒めていただけるの、嬉しいです。
でも、私そんなに甲斐性のある人間じゃないし。」

「虚勢を張らないところ、ライちゃんらし〜。
いいのよ。有能ってことにしときゃあ。」

こしょこしょとララーが耳打ちしたが、ライジアは不満そうにうつむいた。


「私、絶対あの馬、乗りこなして見せます!」


その様子に、フェイティシアは静かで優しげな微笑を返していた。















ライジアが用意された鞄を、馬車につめてくると言って部屋を出た後、
フェイティシアはララーを前に少し戸惑っていた。


ララーの豊かにカールした黒髪は
フェイティシアと同じく腰まである。

彼女のまとう服は、山岳民がまとう簡素なものだが、
妙にあだっぽく着こなせるのも、彼女の才能だろう。
不思議な色気を感じる。

豊かな胸は少し形が崩れてはいるが、
それが返って妖艶なのかもしれなかった。

厚ぼったい唇からは、フェイティシアとララーが二人きりになると
必ず漏らす言葉がある。


「・・・綺麗ねえ・・・。」


長い睫をぱちぱちさせ、目を細めて舐めるような視線を送るララーに、
フェイティシアはいつも戸惑ってしまうのだ。

頬を赤く染めると、ララーはそれに気づいて「あらあら。」と
声を漏らした。

「こういう視線には慣れていると思ってたけど・・・。
この領地では、私みたいに貴女を見てる人なんか、ざらにいるわよ。
でも、貴女は慣れてないのかしら?」

「・・・苦手です。」


フェイティシアは両手を重ね握り締めると、視線を床に落とした。

ララーは側にあった寝台の上に腰を下ろし

「もうちょっと、誇示したりしないの?『女』であることとか・・・。」

と、問いかける。
あくまで優しい言葉だったが、少し棘があるようにも思える発言だった。

「・・誇示・・・ですか?」


「そう。ん〜、そうね。たとえば、仮によ?
あのかっこいいお兄さんを色仕掛けで、え〜、こう、こう、こうよ。」

こう、こう、こうのあたりはララー独自の手話のようになっていたが、
どうやら、こう1→抱きつく。こう2→ベッドに倒れる。
そしてこう3→彼の寵愛の?になる
(そのときの様子をララーの手話では
扇を仰いで誰かにもたれかかるような様子)で表現した。

つまり、愛人にはならないのか、ということだ。



フェイティシアは顔を真っ赤にしている。

今朝のことを思い出していた。




その様子を見て、ララーは「・・・ないわけじゃないのか。」とつぶやく。
どこか「やるじゃない」といったニュアンスを感じた。

思わずフェイティシアは

「私には。私は・・・。」

「永遠の隷属を誓った身、でしょ?」

「はい。」

何故か不思議なことに、ララーの発言に対しフェイティシアはいつも
決まった言葉で返答せねばならなくなっている。
毎回ララーが質問する内容は、必ずフェイティシアには
『永遠の隷属を誓った身』だからとの返答が当てはまるのだ。

たとえば、

「あの素敵なお兄さんと結婚しないの?」
「あのお兄さんとつきあったら?」
「領主夫人になりなさいよ。」
が、最終的には
「あたしとどっか行こうか?」

などである。
そして毎回フェイティシアは、自分が召使いであることを知る。
知りすぎるほどに、知る。
思い出さずには居られない。

が、
ララーはそんなことは気にも留めていないのだ。

「ダメよ。」

「?」

「だからダメ。」

「・・・??」

ララーはフェイティシアのかわいらしい肩をつかむと、
傾れかかるようにもたれる。

「隷属しちゃだめ。ね〜ね〜、フェイちゃん。あたしとどっか行きましょうよ〜。
あたしなら大丈夫よ?
美女を妬んだりしないから。
体は汚れても心は綺麗なんだから。
フェイちゃんみたいな絶世の美女を連れて、
男を手玉にゴホンゴホン、
いえ、男の方と一緒に素敵な夜を過ごしてみたいの〜。」

ララーはフェイティシアにしだれかかるように泣き崩れ、
フェイティシアはいつも不思議と慰めている。

「あたし、あたしはもっとフェイちゃんを語り合いたいの!
フェイちゃん、なんで美女を使わないのよ!!
フェイちゃんくらいの美女だったら、
膝枕だけでも国を動かせるお金が動くわよ!!
下手すると国王の愛人にもなれるのよ!?
なのになのに・・・
なんで??
なんでこの領地に居るの?
伯爵さまのとこに嫁いだりするの?
それで満足なの??もっと上にはいかないの?
好きなものを食べて、働かない、誰にも文句を言われない生活を
したいとは思わないの?
あたしはその為なら、自分の持てる全てを使のにい!!」


どこか強制的な発言の連発だったが、
不思議と嫌味な雰囲気がないのが、ララーの魅力である。
とともに、彼女の内心は奇妙なことに
移住してきた耕作人の妻たちが舐めてきた辛酸の嘆きにも似ている。

エルゼリオ領へやってきた他貴族の領からの民は
時々こぼすのだ。


他領には
それぞれ統治権と定められた規定があり、
独自の国家を成り立たせている。

理不尽な制度で成り立つ領地も多い。

全ては、領主の采配次第なのだが、
慣れの恐ろしいところは、苦痛も慣れの範疇に入り
それを知らぬものに強いてしまうことだ。

必要な慣れもあることは
フェイティシアも認めている。

たとえば、仕事をこなすための慣れ。

たとえ苦痛であっても、いずれ慣れればこなせる様になる。

問題は「何に慣れるか」、そして「何を許すか」だ。



「ララーさん。少なくともこの領地では・・・。」

と、フェイティシアはつぶやく。

「この領地では、誠実であることが尊ばれます。
サハシュ信仰の掟です。
女性であっても、地位にそってできる限りの仕事が与えられますし、
男性が女性に卑下されることも、あるいはその逆も
この領地にはありません。」

「でも、だって・・・フェイちゃんは隷属してるじゃない!」

ララーは眉をひそめている。

「ロイド様も、フェイちゃんも領主様に仕えているんでしょ?
領主様の望んだことをするのが隷属でしょ?
ならなんで?
なんでもっと『女』を使わないの?
気のいいお兄さんが望んでるのに・・・。
いい子ぶってないで、利用できるものを最大限使うべきよ!」

「私は!」


フェイティシアは思わず声を出して、自分の声に驚いた。
ララーは目をそらさず、フェイティシアの表情を見つめている。

答えを急くように。


フェイティシアは思わず、表情を暗くした。

「・・・私は、確かに隷属してエルゼリオさまにお仕えしています。叔父も・・・。

確かに私は、完全に隷属している身とは言えません。
エルゼリオさまのご期待に沿えるだけの行動もしていませんし、
常に、エルゼリオさまに許してもらっているだけです。

・・・あの方の召使いと名乗ることすら、おこがましい・・・。

・・・けれど私の存在が、あの方の将来に傷を付けることは、してはいけないこと。」

フェイティシアはぐっと何かがのどに詰まりそうになるのをこらえた。

「この領地を治める方ですもの。
尊ばれ、誰からも愛される方であってほしいと、願うのは
私の傲慢でしょうか。」

「違うわよ。」


ララーは首を振ってフェイティシアの手を握り締めた。
その表情は、どこか悲しげだった。


「フェイちゃんが、あのお兄さんと一緒になったって、
傷なんかつかない。
幸せになって、何が悪いの?気のいいお兄さんは望んでるじゃない。

囚われてるのはフェイちゃんよ。
召使いだから何なの?ふつーの貴族の女の子みたいに着飾ったり、
おしゃべりしたり、しちゃあだめ?

ステキな贈り物に喜んだり、
綺麗な装飾品で着飾ったり、
甘いお菓子を食べたり・・・。

あの気のいいお兄さんは、それだってきっと許してくれるわ。

でも歳がフェイちゃんのが上だから、だめ?
乳母だったから?親が居ないから?
そんなの・・・。」


そこまで言って、ララーは口を閉じた。
フェイティシアの手が、ララーの手の中で震えている。

「・・・ごめん。言い過ぎたわ。」

ララーはため息をつくと、崩れそうな肩をしたフェイティシアに
「いいわ。」
と、何かを決意した。


「あたし、フェイちゃんに教えたげる。」

「???」

ララーはかつてないほど艶やかな笑みを見せた。





「あたしが、フェイちゃんをいい女にしてみせる!!」

















それから意気込んでフェイティシアの後ろのドアへ向かったララーは
「大丈夫!バッチリよ!!」と
想像の中で何かを計画し、さらに貫徹させたらしく
色気たっぷりのウインクをして出て行った。


半ば呆然としてしまったフェイティシアは、
しばらくしてから部屋を見回し、
ライジアのベッドの毛布の乱れを無心でそろえ、
部屋を出た。


よい女性・・。


と、ついララーの言葉に少し考え込んでしまっている。


廊下を歩きながら、今までであったよい女性は
どういう人だったかしら、
などと考えながら、フェイティシアは
それでも例えばララーの豊かな髪の流れを思い出し、
夜の香気を無意識に感じてしまうことや、迫力ある行動力、
ライジアの高潔で謙虚な態度、
ナイルの物怖じしない物言いや秩序を重んじる気風に
何か綺麗なものを見出したりした。

それはおそらく、よい男性やよいもの、よい風景など、
色々とあり、フェイティシアの心の中をいっぱいにした。


しかし、答えはララーの中にしかないのだろう、
と、ふと窓を眺めて思う。


窓の外には馬車が用意されており、
すでに旅支度も整いつつある。

そろそろ、この屋敷ともお別れだ。



感傷に浸りながら、窓の桟から手を放したフェイティシアは、
奇妙なリズムでやってくる足音を聞いた。

廊下をふらっと歩いているのは、エレンガーラである。

しかし彼の視線は、廊下を飾っている妙な石像に夢中である。



「エレンガーラさま。」


と、声をかけると振り返った彼は「んごっ」
などと妙な声を出し、背を壁に付けた。

彼の肌から汗がだらだらと流れていく。

フェイティシアは顔色が悪くなっていくエレンガーラに、
思わず「大丈夫ですか?」
と声をかけずに入られなかった。


彼の目の前には、廊下の窓から差し込む日の光で、
天使のような後光をいただいたフェイティシアの姿がある。


まさに、今日は天使日和だと、
今朝の夢から覚めた光景を見たことを考え、
エレンガーラは感動した。


「汗でびっしょりですわ。
何か、気持ちが休まるようなお飲み物をおつくりします。
こちらへ。」


と、フェイティシアが促すと、エレンガーラはただ声もだせずに
うん、うんと頷きながら
後についていった。

彼女の後姿もまた、神々しく、流れる髪のつややかさに
思わずぽーっとしてしまうガーラである。

しかし、フェイティシアはなんだかそわそわして、
果たして再び後ろを歩く客人が、
突如倒れてしまわないかを心配した。


ララーの先ほどの言葉を思い出す。


「綺麗ねえ」と言われることに慣れないのは、
周りの人々の反応があまりに過剰なためだ。

自分の見慣れた顔のどこに美しさが潜んでいるのか、
特殊さがあるのか、
フェイティシアには一向わからない。

彼女の目から見れば、おおよそ周りの人々にも
美しさを見出すことは可能だ。
それを、彼女の周りの暮らす人々は、何故か彼女に対し
より過剰に反応し、過敏に接する。

彼女を見て倒れた人物がいたのは初めてだが、
似たような反応をする人々もまた、
彼女のある種の悩みにもなっていた。


たとえば、この領地で暮らし始めた頃、
彼女は身も知らぬ男にさらわれかけたことがあった。


行商人らしい男は、領地にやってきて
毛皮などの狩猟された動物の加工品を売りさばいていた。
それが何かの関係で領主のいる屋敷へと赴き、
そして、フェイティシアを発見したらしかった。


腕をつかんだ男の手は、ごつごつしていた。


もがくことはしなかったが、
彼が真剣にどこかへ行こうと誘い、
彼女は横に首を振った。


ただ、首を振っていた。


男が何かを早口で喋る。
おそらく、彼の願望だった。

この領地を越えて、違う領地の商売をやっているのだと
彼は言った。
その地でいっしょに暮らそう、などと早口で話す声は
ひどく情熱的で、
一方で暴力的なほど握り締められた腕を、
振りほどけないでいた。

夢見がちな言葉が、彼女に豊かな想像を抱かせる一方で、
今の生活を捨てられないことや、新しい土地への不安、
まだ出会って間もないことを考えても、
彼女の心には、黒っぽい不安が大部分を占めた。


彼女が頭をたてに振らないままでいると、
男は馬車の座席に彼女を座らせ、
そのまま馬を走らせた。



腕はまだ握られたままだった。



無言のまま、フェイティシアは流れる景色を眺めていた。
一体どれくらい、その状態がつづくのか、
領地を離れていく景色を眺めながら
彼女はふと、心からなにかがこぼれるのを感じた。



それから領地の境にたどり着いた頃、
追ってきたロイドと、幼いながら巧みに馬を操るエルゼリオ、
そして数名の耕作人によって、
男は捕らえられた。

彼女の目の前で、無残な力が振るわれ、
一撃で男は気を失っていた。

それでも意識を失うまで、
男の手は彼女の腕を離さなかった。

だらりと力が抜け、
ざらりとした彼の手の皮膚の感触から、
腕を放すことができるだろうと気づいても、
何故かフェイティシアはそれを出来ずにいた。



そんな様子を見て、男の手をフェイティシアから払ったのは、
エルゼリオだった。
男は縛られ、ロイドの前に屈し、
エルゼリオのそばで
彼女は呆然と立ち尽くしていた。


「あいつは領地から追放する。」


幼いエルゼリオが、男を眺めながら
無慈悲な声を響かせた。



それからエルゼリオの馬に乗って帰る間も、
フェイティシアはただ呆然としていた。
領地に帰れば、乳母の小言が待っていたし、
同僚の「いい気なものね」などと言った声も聴かずにはいられなかった。


誰もがみな、何かを欲しては
手に入れられない悔しさで、
狂おしい感情を抱いていた。


それが、さまざまな形で入り乱れ、
不協和音を奏でている。
彼女はそれを聴くにつけ、いつもただ不安と悲しさだけが心に満ちた。

腕に残った、男のざらついた皮膚と、体温を感じた。
そして今でもそれは感じられる。



扉を開き、客室にエレンガーラを案内したフェイティシアは
ガーラを椅子へ誘い、
いくらか心の落ち着く飲み物を調合できるよう、
香料の壜を棚から選んだ。


こういったことを覚えたのも、
男にさらわれてからだ。


ナイルやエルゼリオは、例の誘拐の一件のあと、
珍しく意気投合してあらゆる暴言を吐きまくり、
過敏に領地の外のものへ嫌悪の反応を示したが、
一方で彼女を慰めたのは
山岳民の一人にいる、薬草術師の老婆だった。


ロイドがフェイティシアをそこへ連れて行き、
数日間滞在させることにさせたのだ。


その静かでひっそりとした小屋には、
壁にびっしりと小さな小瓶が並べられていた。
一つ一つにラベルが貼られ、
さまざまな色の液体、乾燥した草が並べられている。


老婆はすでに目が見えなくなりつつあったが、
記憶でどの位置にどの薬草や液体の壜があるのかを
的確に覚えていた。

彼女は老いた身を気遣いながら、
不思議と老婆と暮らす間に、それらの薬草、成分、
それに見合う経典の箇所から、
どんな病に効くのか、効用があるのか、
身近のどんな場所に生える草なのかを
知っていった。


ロイドが彼女を領地へ戻してからも、
時々老婆に会っては、
客人を迎える際に飲ませるもの、あるいは香として焚くものを尋ねた。

そして、老婆が亡くなってから、
遺品である全ての小瓶と、2・3の遺品を譲り受けた。


フェイティシアはしばし思い出に耽りながら、
いくつかの壜から薬草を取り出し、手早く香を焚き、
いくつかは調合して、湯と混ぜてカップに注ぐと、
エレンガーラの前に差し出した。

ガーラは特に疑うこともなく、「おいしくいただきます」と
小さくつぶやいて
震える手でカップを包み、飲み干した。

喉を豊かな甘さが通っていき、
どこか清清しい香りに包まれて、少し狐につままれたような
気分になる。


「結構なごちそうでした。」

と、お辞儀をする余裕ができたのは、
やはりお茶のせいなのだろう。
エレンガーラはほっと、ため息をついて
そばに立つフェイティシアを再び眺めた。


フェイティシアの表情は、いささか曇っている。

余裕の出来たエレンガーラは、眉をひそめて思わず
美しい人の表情を曇らせる原因を聞こうとした。

「フェイティシアさん、なにかおありで?」

その問いかけが、妙に上品な貴族女性風なわりに、
どこか子供っぽい要素を含んでいて、
フェイティシアは思わず微笑んだ。


「・・・いいえ。昔のことを、思い出していたんです。
本当にせっかちな方にお会いしたのですけど・・・。」


「急いでいる人なのですか。いやな人なのですか?」


エレンガーラの返答と問いかけは、どこか間が抜けていて、
フェイティシアは小さく笑い声をもらした。


「いやなひと・・・そうですね。とても夢見がちな人でした。

でももし、もう少しお時間がもてて・・・余裕があって、
それでもう少しだけ、
私が歳を経て、色々なことを知っていたら・・・、
もしかしたら、エレンガーラさまと同じように、
お茶を飲んで、一緒におしゃべりできたかもしれない・・人でした。」


エレンガーラは、彼女の表情に、
微笑とともにないまぜになった苦しみを見て取った。
それはどこか、エルゼリオが山へ登っていこうとした表情に、
ひどく似ているようにも思えた。


これは大変なことなのだ!


と、自分の声が脳内に警報となって響いた。
エレンガーラは思わず歯を食いしばって、
彼女の様子を見つめた。

何かを言わねばならない早急さを感じた。

つたない言葉を、エルゼリオ領地の言葉に頭の中で変換して、
エレンガーラは思わずつばを飲み込んだ。
確かに顔がほてりがちである。
おそらく、今ならいえそうな気がする。

エレンガーラは「えー、えー」と繰り返してから、思い切って言葉にしてみた。



「なら、その早い人も、もうすこし余裕をもつべきでしょう。
歳もとるべきでしょう。
いろいろ知って、考えて、時間もたっぷりなときに、また会うとよいのでしょう。

そしてこのおいしいお茶をだして飲む。
おいしいものは心が安らぐのです。

ふぇいてぃしあさんのお茶は、とてもいいのです。
また飲む。
いっぱい飲んで、頭のなかもお茶でいっぱいなのです。
おぼれます。息とまります。
それでも飲みます。

ほしいものをほしいのです。もらえないなら、さがします。
みつけたら、近くにおきたい。
いつものみたい。
これは、どんなことでもだれのことでもいっしょのこと。

けれど悲しいは・・・どんなことでも
次へ向かうのです。向かう前には出発の準備をする。
これもどんなことでもいっしょ。」



エレンガーラはふーっと息を吐いて、額の汗をぬぐった。

フェイティシアは彼のその仕草と、
言葉のどこか意味がつかめないこと、
けれども何か温かいものを感じて、思わず微笑んでいた。

「お言葉、とてもうれしいです。

エレンガーラさまの、温かい心遣いが
エルゼリオ様もまた、助けてくださったのですね。」

「?」


目を白黒させてフェイティシアの言葉の意味を
読み取ろうとしているエレンガーラに、
フェイティシアは深々と頭を下げた。
柔らかな唇から、どこか清らかな発音の言葉が、あふれ出した。


「貴方の魂の清らかさに、感謝いたします。
深く蒼い慈悲に満ちたナルレンティアの神の慈悲を受け継いだ方。
より強い鎖と、強い鋼を打ち、打ち続ける方。」

フェイティシアは顔を上げる。
本来、召使いであるものが、主人の賛美を主人の関係者に口にしないのは、
私情を漏らすことで、
主人と周囲との関係を混乱させないための鉄則があるからだ。

だが、あの凄惨なエルゼリオの胸の傷を目にし、
生きて帰ってきたことは奇跡であると思わない者はいないだろう。
そして、生還させたものが目の前の青年であるならば、
どうして賛辞を口にせずにいられよう。


一方目の前の青年は、目をぱちぱちとさせると

「ナルレンティア?それは『ナル・アルエトアーラ』ですか?」

と、異国の言葉をつむいだ。
その言葉は、聖典の言葉に似ていた。

エレンガーラは急にしごく真面目な表情になり

「失礼、今話しているのは、ディム・レイ北部の言葉。
それに、そう。エルフ・レ・フェウス語とも言えます。
この言語を話せるものは、とても珍しい。」

フェイティシアはかろうじて意味を汲み取ると、

「その神の名は、叔父から習った聖典の言葉です。
山岳民がよく使います。神の名は、ミルティリアでは少し変化していて
今は『ナルレンティア』と。」

と聖典の言葉で答えた。

エレンガーラはそれを聴いて、万遍の笑みを見せた。
どうやら、この美しい人と話す際、
もう少し混乱しなくてもいい方法が見つかったらしい。


そこで、「フェイティシアさま〜」
と叫び声が近づいてくると、
扉が開きライジアが駆け込んできた。

息を荒くしたライジアに、エレンガーラは「おう。我が同士。」
と声をかけ、
ライジアはエレンガーラにジェスチャーで「お勤めご苦労」
(右手をまっすぐにして、敬礼する)のように腕を動かし、
思わず我に返って

「フェイティシアさま、出立の準備が整いました。」

と声をかけた。

フェイティシアはエレンガーラに「それでは、エルゼリオさまのもとへ。」
と、促す。
部屋を出ると、真昼の日差しが妙に温かかった。



中天の陽の神が、まぶしい仕草で踊っている。














「戻りました。」


朝焼けが始まるころ、
小柄な男は隊に戻り、体を守るよう作られた厚くて黒い服のまま、
敬礼した。


列に並んだ三名は、お互いの服から漂う血の匂いでむせ返りもせず、
むしろそれを楽しんでいた。

狩りだ。

当然楽しむのが、本分なのだ。

上気した頬が、それぞれ赤く染まっている。
だが、目の前に立つ男は白い肌にしわを深々と刻み込み、
使い慣れた鉄の棒を握り締めなおすと、
何の余地も前触れも、気配すらなく、
突然、目の前にたつ彼らの部下を殴り倒した。

「馬鹿め。」


男の言葉には、抑揚がない。

倒れた三人の刺客たちは、それぞれ古傷のある場所を殴打された痛みに、
しかし悲鳴を飲み込んだ。


叫び声など挙げてみろ。
お前はこの場で撲殺し、
肉片の一つも見つからないように細切れにしてやる。


上官の瞳には、血の通わない意思が宿っていた。


「命令を下す。
探索、そして略奪だ。
『女神の欠片(ルルフェウス)』
『不死者(フォタモニカス)』を発見しろ。
それは必ずモルヴァルド領にある。」


長官はそういい残し、夜の闇に消える。


朝の光が差し込むとともに、
三人の刺客の姿はそれぞれ失せている。






ただ、血まみれの足跡だけが大地に無数に残っていた。






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