「白の彼方よりー回想ー」









全体が、白く濁っている。


液体と固体の中間地点で、


液体と固体であることを見失った自分が、


ぼろぼろに崩れていく夢を見た。



恐怖という言葉も、かつてはあった気がする。

痛み、という感覚も?


いや…痛みは、あった。



前身を劈く飽和状態から、意識のかなたへ。




それから、一瞬で引き戻された、
二度の目覚め。



瞳に映るものは、
ただ、





闇。













口に感じた湿り気が、
かさついた唇の上に優しい。

口が一つの傷口のように、
かさぶたで覆われたような感覚で、動かない。
唾液も、出なかった。

それを補うように、水が数滴、
無造作に流し込まれる。


ほかには、いったい
何をしているのか、
されているのかがわからない。



「・・・・・・・きで・・・ない・か?」


と、かすかに聞き取れる言語は、
かつてどこかで聴いたことのある、
しかし、全く異質な音で、
彼の耳の奥深くに落ちていった。


ー誰・・・か、が・・・・いる?

ーここは?


ー・・・そう、たしか・・・山に。

ー山に何を・・・?


ーやま・・・に・・・。





山に死を求めて雪に埋もれた。



「・・・」



彼は再び、眠りに落ちる。


幸い、かつ最悪なことに、
身体をかけめぐる
痛み、を思い出しながら。






そうそう、

なんて言葉も
かつてはあったなどと、
静かに思いおこしながら…。


















「なにもないんです。エルゼリオさま。」



牛が死んだその日、
エルゼリオの部屋まで、彼を送ったフェイティシアが、
ふとつぶやいたのが、
その言葉だった。

夜はもう更けていて、
空は紫色を濃く深く潰したようだった。

なまぬるい風。
靴に入る砂利を見つめながら、
エルゼリオは、
今日はもう何も話さないほど、
ショックを受けているのだと決め付けた
フェイティシアの一言を聞いた。


「・・・なにか、あれば、きっと。」

「なんのこと言ってるの?フェイティシア。」


少年エルゼリオは極めて不満げである。
フェイティシアは少しだけ目を潤ませていた。
言いたいことがあると、いつも少しだけ涙ぐむ。
そういう変な癖が、彼女にはあった。





「…会えなくなるのは、いや、です。

でも…会えるために、
たくさんのことを我慢することなら、
それならきっと、
私には、できる。

できるとおもうんです。」





フェイティシアはそれから、一言も話すことなく、
ただ、少しだけ眉間に皺を寄せて、
いつものように歩いた。


エルゼリオにはさっぱり、理解できなかった。



泣かないフェイティシア。
涙を見せないフェイティシア。
あんなに大切に思っていたものを、
壊れたら涙も流さない。


確かに、助けてとは叫んでたけど。
叫んでた。
さけんでたのに・・・。


屋敷も今日は、華々しくない、
とても嫌な雰囲気に見えた。

実際、嫌な雰囲気だった。




その理由を、エルゼリオは知っている。

自分が誰か、特定の召使いと懇意にすると、
周りが妙な気配になることを。

そして、時々家に戻ってくる父と母が現れれば、
自分のことは殆ど子ども扱いだということを。


大人は、とても身勝手だ。


エルゼリオは、廊下をフェイティシアと歩きながら、
ただ無言のままで、気まずい時間を潰した。


自分の部屋に戻れば、
少しでも気が晴れるかもしれない。


だが、部屋に入っても
気分は変わらなかった。


部屋の扉がぱたんと、音を立てて閉められた。
自分の今日という日も、音を立てて閉められてしまったような、
そんな気分だった。


フェイティシアは、部屋に残ったままだったが、
部屋に入ったまま、微動だにしなかった。


やっぱり辛いんだ。



エルゼリオは俯き加減な彼女を見つめながら、
きっとどんな慰めも
今フェイティシアの耳には入らないだろうと思った。


いつもなら、
「さあ、もうおやすみになる時間です。」
と、優しく肩を押してくれるのに。

「召使いなんだろ!」
と言いたかったけれど、
ふと、「召使いってなんだろう」といったような、
漠然とした問いが、
頭から離れることは無かった。


二人は、そのまましばらく動くことはなかった。

部屋は、いつもの夜の空気なのに、
妙に張り詰めていて、居心地が悪かった。






そこへ、突然扉が開いた。


「お前は!!一体こんな時間まで何をしていたんだ!
しかもよりによって、エルゼリオ様と!!」

大声。怒鳴り声。

静けさから、突然空気が変わった部屋に、
突然現れた乳母に、エルゼリオは心底怯えた。





乳母に怯えたのではない。

乳母の言葉に、淘汰されるフェイティシアの様子に、恐れた。




「お前は!!こんな時間まで!」


エルゼリオの目の前で、
乳母の手のひらが何度も何度も、
ひざを屈して床に転がった、
幼いフェイティシアの服を、
髪を、
無造作に捕まえようと動いた。

とっさに身をかばってしまうフェイティシアは、
その手をかわしながら、

「申し訳ありません。申し訳・・・ありません。」

と繰り返し悲痛な悲鳴を挙げている。


エルゼリオの瞳に映るその光景は、
いつもより数段酷くなった乳母の態度と、
醜い形相だった。


乳母の手のひらが、
がっちりと彼女の服の襟元を捕まえると、
恐ろしいほどの速さで、
フェイティシアの頬が打たれた。


何度も、何度も、なんども。


ああ!


止めないと。
止めないと、とめないととめないと・・・・。


側で立ちすくむ少年は、
心で繰り返す自らの意思の数だけ、
「やめろ!」と叫んだ。


「やめろ!やめろ!やめろ!!」


何故?何が・・・どうして?
自分が?ぼくの?
フェイティシアは・・・牛がしんでしまったのに・・・。
違う。あの場所にいたかったのは、
僕で、僕がいたかったからで、
フェイティシアが・・・悪いわけじゃない。
わるいわけじゃないのに。


叫んで、何を言っていいのか、
言葉は、通じているのかわからなくて、
エルゼリオは大きな乳母の身体を、
フェイティシアから引き離そうと必死になっていた。


勝てるわけが無いのに。


それでも?




必死になるエルゼリオに、
乳母はその肥えた腰をぐるりと曲げて、
目を背けたいほどの笑顔で、
微笑んだ。


よりによって笑顔で。

笑顔は、
そういうときのために使われるもの?



「まあまあ、エルゼリオおぼっちゃま。
こんな時間まで外にお出になって、
わかっておりますよ。



全部この小娘のせいなんですから。




全くたいしたこともできないくせに、
こんなところで働いているなんて、
冗談にもほどがあるんですよ。

そりゃあ、執事の姪とはいいますけれども、
エルゼリオ様のおそばにお仕えするなんて、
そりゃあ、十年も二十年だって
早すぎるってものなのに・・・。



ああ、腹立たしい。



いっそ、
父親も母親も言ってしまったところへ、
さっさと旅立ってしまえばいいものを。」


ばしり、ばしりとその力強い乳母の手は、
休むところ無く、
幼い少女の頬を打ち、
そして髪を目いっぱいにぎって引っ張ると、
彼女の足を引きずらせながら、
立ち上がらせた。


呆然と立ち尽くすエルゼリオに、
一瞬だけ、
フェイティシアの瞳から視線が注がれた。


けれど、その視線には、
悪意も善意も、


あるいは何も、
感じられはしなかった。




エルゼリオの自室にある浴室へ、
フェイティシアは、半ば強引に引きずられていった。






それを追いかけて目の前で扉を閉められた、
小さなエルゼリオが、
何か沢山の言葉を叫んで、
誰か別の召使いを呼び集めた頃には、、
びしょぬれの髪と顔を青ざめさせて、
にこやかに微笑む乳母にささえられて、
浴室から出てきたのだった。













それからしばらくして・・・


エルゼリオを含む、
多くの召使い達の目の前で、
ことの事情を「わかりやすく」、
説明した乳母は、
フェイティシアを彼等の中に突き出し、
「さあ。」
と促していた。



フェイティシアはこう言った。


「申し訳ありません。まだ、お風呂掃除にも不慣れなもので。」


エルゼリオには、何のことだか解らなかった。


当然、びしょぬれになったのは
乳母のせいでフェイティシアのせいではない。


そんなことは誰でもわかるはずだ。
彼女のあの頬の赤さは、
明らかに打たれた跡なのだし、青ざめた頬も、
完全に水を含んだその髪も。


けれども、集まった召使い達は
こう言った。


「全く、困ったものだ。エルゼリオさまに、ご心配すらおかけして。」


そして、事もあろうに彼等は笑みを浮かべて
フェイティシアの周りで、
その姿を嘲笑したのだった。


何故。

何のために。

心配している。

でも、心配はフェイティシアに・・・。
そう。凄く心配だったんだ。


・・・困った、こと?
それが?



何故、微笑むのか。


少年は、呆然としたまま事の成り行き見守っていた。

冷静に、考えられないくらい、
考えて考えて考えた。


なぜ。
どうして。
なんのために。


いつも、
何故という事ばかりだった。

そうでなければ、
どうして。


何故、自分は「主人」なのか。
父上は?
母上は?
自分は?
フェイティシアは?




どうして自分には、なんの力もないのか。





もし、力があったなら、
そう、まごうことなく力があったなら、
全てを返る事も、
全て上手くいくことも、


フェイティシアを助けることだって!


できるかもしれない。
きっと、できる。




けれども、どうしてかまだ
自分が子供だと気づくと、
握り締める手が、
周りの召使い達よりもひどくちいさいことに気づくのだ。


今、握り締めているこの手の力ですら、
きっと、何の足しにもなりはしない。


跳ね返される身体。
掴んで、必死に服を引っ張っても、
軽く自分の身体ごと、
彼等の手でよけられてしまう。


そして、
彼等はこう言うのだ。


「フェイティシア。またエルゼリオさまにご迷惑をおかけして。」




かけてなんかいない。

むしろ、自分がフェイティシアに・・・。






「大嫌いだ。」と言えば、
召使いたちは、自分にはいい顔をし続ける。

そんな様子はいくらでも見てきた。


けれども、そのしわ寄せが全て、
フェイティシアに行くというのなら、
そんな言葉も使えない。


どんな言葉も、つかえない。



いやだ。
なぜ。
どうして。




エルゼリオの目には、涙が溢れそうになって、
彼は必死でそれを堪えていた。



父上はいない。母上も、いない。

一人だ。
だからこそ、泣くわけにはいかない。

僕は主人で、
この屋敷の主人で、
今は子供だけど、大きくなったら、
この屋敷の領地を継承する。


沢山の農地の人の世話をする。
沢山の商人と、何を売るのか話をする。
沢山の職人と、より良いものを作るために
沢山の知恵を出して助ける。


父上はこう言った。

「お前にこの屋敷をまかせる。
この屋敷にあるものは、全てお前のものだ。
そして、
この屋敷に起こることは、全てお前のものだ。


全てがおまえのものになる。」


母上はこう言った。

「識りなさい。」


と。






しりなさい、と。










そして、召使い達が
ずぶ濡れのフェイティシアを、次の地獄へ連れて行く前に、
エルゼリオは
一つのわがままを言うことにした。





それはこういうものだった。





「待ってよ、みんな。
フェイティシアに困ってるのは僕なんだ。
僕にフェイティシアを叱らせてよ。」








少し生意気に、
しかし堂々と、いたずらっぽい笑みを浮かべた、
この若い少年領主の提案に、
召使い達は少しばかり息を呑んだ。


だが、最も素晴らしい笑みを見せたのは、
フェイティシアを引きずる乳母だった。




「まあまあ!おぼっちゃま。」




親しげな、嬉しげな声で
自分の名前を呼ばれた日には、反吐が出る。


エルゼリオは笑顔のまま、
召使い達にこういった。


「僕の言う事、聞いてくれるでしょ。
僕が大きくなってからも、皆信用できる召使いで
いてくれるよね。」




何故、笑顔を見せるのか。
ならば、笑顔を見せればいい。





「ええ、ええ。エルゼリオ様。
私たちを信じてくださって結構でございますよ。」




本当に?
僕を信じてくれるのなら、
僕は君達の前では「僕」でいよう。








それから、小さな少年は
彼から、少しばかりむかっとするくらい背の高い、
びしょぬれの少女を苦しませるために、
残酷な乳母と、
できるだけ残酷な仕打ちを考えあぐね、
決行することとした。


それは、一晩中眠ることなく、
「フェイティシアを側に立たせておく、」
という単純なものでもあった。


しかし、乳母にしてみれば、
一回目に思いついたにしては上出来、
といったところだ。




そして、
早速その夜、計画は実行されたのだった。
















実行の際には、
乳母はエルゼリオから
「ぐっすりやすんで。」
との優しい言葉のために、
そして明日朝起きて、
ふらふらになった例の少女を、
再び最大限に痛めつけるために、
早々に部屋からいなくなった。



召使いたちも、
それぞれ睡眠をとるために、
早々に部屋を出た。





自分の気持ちが、どろどろしているのを感じていた。




残されたフェイティシアは、黙って立ち上がったまま、
両手を握り締めていた。

夜の冷気が、ぬれた服を容赦なく攻め立てるのか、
フェイティシアの口からカチカチと、
小さく歯のあたる音がしている。



急いで、浴室からまだ使っていないタオルを持ってくると、
フェイティシアに差し出した。



「いただけません。」



そう、意外な答えが返ってきた。


「なんで。早く!」
「いただけません。」



エルゼリオは呆然として、
フェイティシアの酷く沈痛な面持ちから、
自分のしたことを見抜かれていると、
悟った。



「…助かっただろ!?」

「そのようなことは、もうされてはいけません。」

「わからずや!」

「いけません!」



一括されて、エルゼリオは思わず、
握り締めていたタオルを床へ投げつけた。

もっと派手な音がするなら、何でも壊したい気分だ。



部屋のもの全部。
綺麗なものも全部。
可愛い調度品、
母上の肖像画、
高い値段の白い皿、
服を破り捨て、


汚いものを、どこかへ吐き捨てるために。




そして、息だけがあがってしまう。
肩ばかり沢山動かして、
吸い込んだ空気を、また吐き出して。



調度品は、結局壊さなかった。
部屋にあるもの全て、
壊さなかった。


壊すことなんかできない。


また、フェイティシアのせいにされてしまったら?





「わかったよ!
じゃあ、ずっと立ってればいい!!
そこで、ずーっとずーっと!!」

そう吐き捨てて、
エルゼリオはそばにあるベッドへもぐりこんだ。


なにかが悔しくて、くやしくてくやしくて、
少年は歯を食いしばった。

絶対泣いたりするものか。
絶対、ぜったい、ぜったいにだ。




毛布に包まって、エルゼリオは目をつぶらまいとした。
今夜だけは眠れない。
今夜だけは。





「・・・何にも無い、ってどういうこと?」




エルゼリオは不満げに、毛布の中で、
フェイティシアの言葉を思い出して訪ねた。

ただ、眠気を紛らわすための手段に過ぎなかった、それ。

しかし、フェイティシアは意外にも、
すんなりと答えた。



「失うものがないということです。」




その言葉は、寂しく、漠然としていて、
少しだけ、現実味が無かった。


「嘘だ。」


と、しばらく間をおいて、
エルゼリオはフェイティシアに聞こえるようにつぶやいた。


「本当です。」

「だから泣けないってこと?
苦しくないってこと?
そういいたいの?」

「はい。」

「なんだよそれ。」


エルゼリオはばっと跳ね起きて、
ベッドの上にどっかり座ったまま、
一方方向をずっと向いて、立ちすくんでいるフェイティシアを
穴が開きそうなほど見つめた。


少しだけ濡れた髪が、軽く波打っている。
綺麗な白い肌や、長い睫毛。
美しい輪郭を描く横顔。
細いけれど、幻想的な体格は、
人間の少女というよりは、妖精みたいな雰囲気を持っている。


これで失うものが無いなんて、それこそ人間じゃないみたいに。


「私には、母も父もいません。」

「俺も今はいないけど。」

「…死んでいないということです。」

「いないなら死んでいようが同じことだろ。」

「沢山のことを我慢してきました。」

「俺だって我慢してる。」


すると、フェイティシアは酷く真剣な表情で、
言葉の断片を、ぽつりぽつりと
つむぎ始めた。


「叔父様が、教えてくださいました。
父と母がいないお前のために、
この経典を授けよう。

お前が、自分が最も大切にしたい「何か」のために、
生きる方法が、書いてある、と。

私は迷わずに、父と母に会いたいと、
そう願いました。

…経典には、父と母のいる場所へ、
どうすればいけるのか、書いてありました。

『正しく生きよ』

そうすれば、必ず会えると。
この世界で失われたものは、
必ずそこで会える。
今日逝ってしまったものも、
会えると。

けれど、もし…
もし『正しく生きれなければ』?」


フェイティシアの手は、酷く震えていた。
エルゼリオには、その意味がわからないわけではない。

彼女の手は、
がくがくと震えながら、頬から額へ、
這うようにすすんで、顔を覆った。


「会えなくなるなんて…。

失ったものに、無いものに、
消えてしまったものに会えなくなるなんて。


それならば、
いくらでも耐えます。
もともと、何もないのだから、
失うものもきっとなくて、
どんなことにでも、目をそらさずに見つめて、
くるしいことも、悲しいことも、
全部、全部・・・。

耐えれば、
ずっと耐えればいつかきっと会える・・・。」



エルゼリオは、その時初めて
悲惨なまでに動揺しているフェイティシアを見た。
何故ここまで半狂乱になるまで、
追い詰められねばならないのか。


その様子はむしろ、
動揺したいのに、できずに苦しんでいるような、
極限の理性と狂気の狭間にある、
糸のような境界の上。



そこをたどたどしく歩いている少女。



そんな風に、エルゼリオには見えた。




しかし、彼女が耐え続ける理由も、
彼はその時、はっきりと理解した。



『正しい』がどういった基準であれ、
彼女の中にある正しさは、
全く煌いて色あせることなく、
錆びることも朽ちることもなく、
純白の輝きを放っている。

それは、刃の輝きではなく、
誰も踏み入れていない雪が溶け流れた、
水のようなものかもしれない。


澄み切っていて、
咽喉にひんやりとやさしい。


清浄であり、
清浄すぎる空気。
けれども、全てを受け入れようとする。
汚濁もまた、不思議な優しさとやわらかさの中で、
美しく生まれ変わらせることのできるような、
そんな底の深い泉を思わせる。


その心は、彼女の見た目にも、
まごうことなく現れていると、
エルゼリオは思った。




だが、あまりに苦しすぎる。



それではまるで、「死ぬために生き」ていることになる。



何かを麻痺させて、
耐え抜くことは簡単だ。
けれども、麻痺させずに
『常にそうあり続ける』ために、
耐え抜くことは、
氷山を裸足で歩き、
その冷たさを常に一歩一歩、
感じていくことと等しい。


心の中を歩き、
そして現実の中を歩き、
死者のために生きるだなんて。



今ここに、自分はいるのに。
本当に側に、
ちょっと歩けば触れることもできる場所に、
まごうことなく「生きて」いて、
彼女を必要としている、
自分がいるのに。



「・・・それに、わたしを必要としてくれる人も・・・。」

「なに?」



少年はそこで初めて、本当の怒りを覚えた気がした。


これだけ自分が迷いあぐねていることが、
散々考え抜いてきたことが、
どうにか回避するために、苦しんできたことが、
全て彼女のためだと、



「彼女は知らない」のだ。







再び、エルゼリオは呆然とするよりほかなかった。













「・・・起きたか?」



聞きなれない言語で、
女の声がそう言っていた。

聞きなれない言語のはずなのに、
何故言葉の意味が解ったのか、
しばらく時間がかかった。

毛布ではない、ふかふかとした質感が
どっさりと身体の上にかけられていた。

重い、が、暖かだ。


それが、毛皮だということに、
しばらくしてから気がついた。


薪の燃える香りは、
以前嗅いだことのある香りで、
ひどく懐かしかった。

教会…を、思い出した。
儀式だ。

サハシュの神がそばにいる。

経典での言葉を思い出していた。


その経典は、いつも、
見慣れない妙にくねくねとした文字と、
不思議に包み込むような発音をして、
幼いエルゼリオに、妙な感覚を覚えさせた。


「・・・サハシュ。」


そうつぶやくために、
息を二、三回、吐かなければならなかった。
咽喉に何か、詰まっている気がする。
けれど、ぽっかりと抜けたような空虚さを、エルゼリオは後に、
抜け殻だったと、
子爵とその執事の前で表現した。



「サハシュの神の使いか?お前は。」

「・・・?つかい?」

「お前の指輪は、神の時代のものだ。
神の紋章とともにある。」



それから、エルゼリオはぼんやりと、敵が周りにいることを悟った。
だが、敵とはなんなのだろうか。
自国として所属していた軍を裏切り、
そして殺されかけ、
何かから逃れるために山へがむしゃらに向かって、
はたして、ここは一体なんなのだろう。

自分は、一体・・・。


「だがお前は、敵の国から来た。
我々を殺すためか?
生かすためか?
どのようにするためか、答えろ。」


声の主は、女の声にしては低かったが、
ばっさりと切るような、
不思議な音を放っていた。


顔は見えない。

だが、そっと眼球だけ動かすと、
真っ白な髪が見えてふと、エルゼリオは、
エレンガーラか?
と思い込みそうになった。

が、周りの景色が妙な文様の布張りの壁と、
木で組んだ大掛かりなテントであることに気づき、
早々に考察を修正した。


空気は暖かだが、質は違っていた。

孤独な空気だと、思った。



「・・・わかっていなかった。」


エルゼリオはつぶやいた。


「わかっていない。」


















「わかってない。」



少年は、初めての思い人の前で、
初めて本気になって逆らった気がしていた。



知られなくても、いい。



彼女をおもうことも、
気を使うことも、
自分が迷い続けることも、
苦しみ続けることも、
それでも、
彼女を守るだろうことも。



自分が、子供でいるまでは・・・。


けれども、それでも
少しだけは、
ほんの少しだけでいい。


今の、今だけの自分が、
彼女を、フェイティシアをどう思っているのか。



彼女の言葉が辛かった。



知ってほしい。
知っていて、欲しかった。




エルゼリオは息を大きく吸い込むと、
思いっきり大声でフェイティシアに叫んだ。




「召使いを必要としてない主人なんているもんか!
主人がいるのに、
『何もない』なんて言う召使いがいるもんか!

もう一度自分が必要とされてないなんて、
言ってみろ!
二度とお前とは喋らないからな!」




そして再び、毛布に包まった。
馬鹿みたいに。
大人でないと不自由だ。
大人になったらこんなときも、
もっとかっこよく、もっと堂々と、
そして、
もっといいことを言えるはずなのに。



それからぐるぐると、
子供じゃやっぱり不満だ、などということを
ぐだぐだ考えているうちに、
泣き声が聞こえてきて、
エルゼリオはそっと、身体に巻きついていた毛布から、
顔を覗かせてみた。




フェイティシアが泣いていた。




今まで、誰にも一度も泣いたところなんて見せたことが無くて、
いつも走り回っていて、
忙しくて、大変で、周りから見ても、
いつもいつも、泣くなんて言葉は
知らないんじゃないかと思えるくらいだったのに。


ひざを突いて、冷たい床なのも気にせずに、
柔らかな、細い手で、その横顔を包み込んで。


涙が時々ぽたぽたと、白いエプロンの上にはねた。






傷つけるつもりは無かった。







忙しすぎるほど働いているときよりも、
大切な牛が死んだときよりも、
乳母に酷くされたときより、

自分が酷く言った言葉に傷ついたなんて。



エルゼリオは、罪人のような面持ちで、
ゆっくりと毛布から抜け出すと、
小さな火のついた飾台を持って、
フェイティシアの前まで、静かに歩いた。



「ごめん。」



彼女が、濡れた顔を上げて、
エルゼリオの顔を見つめ、
そしてできれば笑顔になるまで、
彼は謝り続けようと思った。

本当に酷いことをしたと、深く深く心の奥底まで、
彼自身が傷ついていた。




泣かせるつもりはなかった。





泣かせるつもりはないのに・・・。







しかし、意外にもフェイティシアは、
すぐさま顔をあげると、
涙で濡れた笑顔で、エルゼリオに微笑みかけた。



瞳の周りが、赤く染まっている。
潤んだ瞳は、光を受けて揺らめいていた。
色はいつもは、茶色だったのに、
時々見える金色をしていて、
しかも、今まで見たことも無いほど綺麗だった。

ずっと、見ていると吸い込まれそうになる、
不思議な引力をもって、
エルゼリオを黙らせてしまう。



動悸が激しかった。
言い表せない空気が、
互いの間を行き来してる。
そんな気がしていた。



そして、決して無理な笑顔ではなく、
心の底から、湧き上がる何かが、
こぼれる様な、そんな笑顔を見せられれば、
きっとこの世界の人間は、誰だって
どうにかなってしまうに違いない。


誰かのために見せたくない、
自分のためにある笑顔だと、
エルゼリオは高潮した。


本当に、何かを狂わせてしまいそうな、
そんな自分の召使い。


その声はどんな飲み物よりも、
咽喉越しよく甘く、かぐわしく、
そして優しい。





「謝らないでください。
私は・・・嬉しくて・・・。」





一瞬、何を言っているのかエルゼリオにはわからなかった。

そして、しばらくしてからも、
彼には状況が飲み込めなかった。


それからフェイティシアは、
少しだけ目を伏せて、「いま、わかりました。」
とだけつぶやくと、
再び、座ったままで、目の前に立つエルゼリオの顔を、
のぞくように見つめた。



「改めて、今夜エルゼリオ様に誓います。

私の血、肉、そして魂の続く限り、
私は一生、貴方の為にこの身を捧げます。

貴方の召使いであるために。

認めて・・・必要としてくださいますか?」




エルゼリオは飾台を持ったまま、
事の成り行きが理解できないうちに、
フェイティシアに誓いを受け、
少し気が動転しそうなまま、

「いいよ。」

と、軽く笑顔で返事をした。


あとで思えば、フェイティシアの真剣な誓いに見合った、
正しい返答の仕方もあっただろうに、
と思わずにはいられない気軽さで。


フェイティシアはそれを聞くと、再び涙を流しそうになりながら、
静かに荘厳な面持ちで、
信仰に従った祈りと儀式らしき行動を取った。



サハシュ信仰の言葉で、
後にエルゼリオが、
この時言っていた
フェイティシアの言葉を訳すために、
食い入るように覚えようとした、
経典の言葉である。



信仰をあまり重要としないエルゼリオには、
その意味は不可解だが、悪い気もせず、
むしろ興味深くあった。


が、そのすぐ後でフェイティシアが恥ずかしそうに、
「・・・あの、エルゼリオ様の胸に・・・いいですか?」
と問われ、
「?」
と疑問に思っている隙に、
彼女が彼の胸に口付けをしたとき、
彼の中で「信仰」のイメージが全く
素晴らしい何かに近づいたことは、
疑う余地が無かった。





全く、そのときからである。




「いじめる」が大好きになってしまったのは。




泣かせたくないと、強く願うようになったのは。



そして、





この、どうしようもなくほおって置けない
自分の召使いに恋をしてしまったのは。














綺麗な過去、だなんていうつもりは無い、思い出だ。



けれども、
その時に激しく思いつめたことを、
激しく美しいと思ったことを、
優しく、
悲しく、
苦しく思ったことを、
後に、
あれは「幻想だった」なんて、
絶対に考えることは無いだろう。



もし、そう考えたとき、
過去の美しさは消えうせ、
粉々に砕け散る。



弱り、
揺らいでいる、自分を知る。



逆に、今でもあの思い出が
美しく輝いているのならば、
そして、
さらに輝きを増しているのならば、
まだ俺は、
とりとめのない何かを追って、
果てしない場所まで
思っていける・・・。




そんな気がする。





自分が、
「ある」ことを彼女へ許したように。



「ある」ことを、
必要としてくれた彼女へ。



そして、今も必要としてくれる彼女へ。




会いたい。






そう、願う。


















「・・・・」



と思わず笑みをこぼすと、
あからさまに引いている空気が伝わってきた。

痛々しい病人でありながら、
笑みをこぼすような、
どうやら妖しい存在を、拾ってきてしまったらしいという、
言葉にならない空気が、
彼の周りを取り巻いている。


どうにかしたい。

どうにもなりはしない。


そして、

どうにもなりはしなかった。




けれども、それは今ではなく、
もう昔の話だ。



エルゼリオは、起き上がれない弱弱しい力のまま、
息を大きく吐いた。

吐いて、吐いて、吐ききった。


そして、「うん。」
とだけつぶやいて、
「好きなようにしろ。」
と、サハシュの経典の言葉を口にした。



自分がどうでもよくなったからではない。




ただ、こんな丁重に病人を扱う人間達なら、
悪い奴だと決め付けることも、
無駄なことだろうと推測したからだ。


しかし、周りの様子は思っていたほど、
陰惨な空気にはならず、
妙な高揚感すら伝わってきていた。


そして、一人の青年が
彼の元へ近づいてくると、
酒を煽りながらそばかすのある鼻をすすって、
どっかりとエルゼリオのそばに腰を下ろしたのだった。


「お前はやっぱり『使い』なのか?」


その言葉は、経典の言葉ではなく、
ディム・レイの言語で、
かるくロアーダなまりに聞こえた。

「・・・誰だ?」


その質問には、
名前以外にも、出身はどこか、
そして何者なのか、という問いが、
含まれていた。


しかし、青年はそれを無視してかしないでか、
自分の思いのたけを最初に述べ始めた。

「お前は、たぶん「好きなようにすればいい」と言ったんだろうが、
生憎サザランドでは、
その言葉の意味は
『全てを受け入れよ』
という意味になるのさ。

経典の中でも最も高い位の言葉だ。
まあ、つまりそれを人は「真理」と言うんだが。」


そして、もう一口強そうな酒を煽った青年は、
不愉快そうな顔をするエルゼリオに、
こう答えた。

「申し遅れた。
俺はヴェフィデッガ。
皆は「そばかすべフィー」って呼ぶね。

生まれはロアーダの、孤児さ。
『商人』だ。
それも、特別製のな。」


「特別製?」


エルゼリオの疑問に、
少しばかりおどけて、べフィーは、
持っていた酒の入った器を、
エルゼリオの口につけ、流し込んだ。


「そ。
リル海峡をまたぐ、
ロアーダ兼ディム・レイのもぐりの商人。
かつ、唯一サザランドとの交易を取り扱ってる男さ。

お前の国とも、ぜひ交易したいもんだ。
雪山登って自殺行為の
『サハシュの栄光の使い』さんよ。」



口に含んだ酒は、酷く熱くてエルゼリオは思わずむせそうになったが、
それも全て「好きなようにしろ」といった気分ではあった。




「・・・もう『死にたい』、には飽きたんだ。」




それ以上に世界は広そうだ、
ということを感じての、
驚きも含んで、
彼は再び眠りに落ちた。



目が覚め、
傷が癒えれば、
この妙な商人に頼み、
ディム・レイへ戻ることもできるかもしれない。




希望はまだ、潰えていない。





無くすことのなかった指輪の、
刻まれた紋章と文字をなぞりながら、
彼はもう一度、
彼女の夢を見ることを願った。




安らかで、痛みはあるが、
どうにかなりそうな希望を持った、
清らかに輝いた、
穏やかな景色を見たいと、
心の中に描きながら・・・。




へつづく


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