「熱に惑う」2





「ん・・・。」

かすかなうめきを聞いて、そばで書類に目を通す彼は
彼女のほうへ眼をやった。
彼女が眠り続けてからもう十時間は経つ。
もう空は暮れ、夕日は夜の闇に溶けそうになっている。
雪が白く舞いはじめ、冷たい空気が
室内を侵食し始めていた。

峠は越したが安心はできない、との言葉に
彼はライジア、ロイドとともに医師の判断を聞いていた。

まだ、熱はあった。

けれど、皮膚はずいぶんと赤み帯びている。
血の気も失せ、蝋のように白い彼女が
青白く透けそうなほど、はかなく見えた高熱時に比べれば、
いつもの彼女に戻りつつあるといえた。

「・・・。」

エルゼリオは片手を、彼女のゆるく握り締めるため預けていた。
「そばに・・・」
といった彼女の気持ちを察したためでもある。
勿論、彼自身が手放したくないためでもあった。
書類はロイドに持ってきてもらい、
仮眠はとらずにずっと目を通していた。

幾度も、溺れるように彼女の姿を眺めた。

彼女の横になる姿を、今まで一度も見たことがないなどということは
何年も共に過ごしてきた幼少時代からは、ありえなかった。
けれど、彼女の寝室に入り
彼女が本当に安らいで眠っている姿を、彼は見たことがなかった。


一度、雪が降るころに
少年だった彼は、彼女が彼の部屋で疲労のあまり
眠ってしまった光景を目にしたことを思い出していた。

窓の外には、ぱりぱりとかすかな音を立てて
雪がつもっていく細やかな音を耳にして。

同じように、室内では温かな暖炉の炎が揺らめき
暗くなってきた室内は、むしろ窓の外の雪の白に照らされていた。

彼は、ベッドに横になって本を読むふりをしながら
彼女の姿を眺めていた。
白い手には、編みかけのレースをもって
かすかに体が傾いていた。
窓のそばだった彼女の位置は、雪の光でぼんやりとてらされ
エルゼリオはふと、

このひとは、本当は窓を開けたら雪と一緒にどこかへとんでいってしまうんじゃないか。

そんな風に思って、急に寂しくなった。

本を閉じると、そっとちいさな足をしのばせて彼女に近づく。
ゆっくりと歩をすすめる時間が、やけに永く感じられた。
そして目的地に到着すると、彼は彼女の手に触れ、
それから唇に、頬に手を触れた。

暖かかった。

彼は安心して、急に体の中が熱くなったのを覚えた。
そして彼女を抱きしめたいと
抱きしめて放したくない、と
そう思って、大げさに抱きついた。
突然の衝撃は、無論彼女を起こすことになったし
しかもエルゼリオの前で眠っていたことを恥じて
顔を赤くしたフェイティシアを、彼は見る羽目になった。

彼は、抱きつけて嬉しかった気持ちを半減させられた。
彼女が、自分の前ではくつろげない立場にあるということに。
そして、抱きついてもこの小さな体では
彼女を抱きしめられないということに。

ちいさな、ささやかな不快。
今でもそれを、彼はまだ感じつづけている。

せめて、あの降り積もる雪のように彼女のなかにそっと
自分という存在を溶かせていけたなら・・・。

思い出に彼はまぶたを伏せた。
眠気はない。
けれど、様子は少し苛立っていると
もしフェイティシアが見ていれば感じるだろう。
彼女に預けていない手のささくれの傷が、悪化していた。

抱きしめたいと、思い始めている。

部屋には誰もおらず、しばらくは入ってこないだろうともわかる。
その体に触れたいと、彼はぼんやりと思って、
しかし抑えるように念じた。

あのときの体ではない。小さく、脆弱な少年の体では、もうない。
そばに、淡雪のような肢体を横たわらせて、ふんわりとした
優しげなネグリジェをまとって、
細かな髪がさらりと枕に流れている。

「・・・ん。」

甘い吐息とともに漏れる声が、彼を無意識に誘っていた。
再び、目線を彼女へ向ける。
彼女の手を握り、口元へもっていくと
唇で慣れたようにもてあそぶ。

ちょっとした気を紛らわすために、
彼が付きっきりで彼女のそばにすわってから
し始めた行為だった。
無意識に手を伸ばしたときは、もうその仕草を抑えられないでいる。

やわらかな指が、彼の唇で微かに紅色に染まるのを
彼は好ましく見つめた。
かすかに微笑んでしまい、思わず体が彼女の方向へ
吸い込まれそうになる衝動を心地よく感じると共に、
苛立ちもかすかにある。

存在していることが、すでに誘惑だなんて、耐えられない。

そんな時彼女が動くと、彼は指を移動させて、
頬や首筋、鼻先にふれて、いたづらっぽく小さな笑い声をもらした。
眠っているのをいいことに、彼女をちょっといじめているようでもあった。

目を覚ましたら、どんな態度をとるだろうかと思う。

昨夜のことを、彼女は覚えているだろうか。
もちろん、彼は鮮明に記憶している。
彼女のことば、そして、
唇の、感触。

あのときの、真っ白な感覚を思い出して彼は、
何故あんなに動転したのかと恥じていた。
彼女からの口づけに、冷静であったなら彼は、
もっと強引に奪うこともできたのに。

けれど、あのときは本当にいなくなるかと思っていた。

死。体は冷たくなり、彼女はこの世界から姿を消す。
あの真っ白な雪の中に溶けてしまうように。

抱くことが、できないひと。
全てを、自分のものにすることができないひと。
けれど、自分を子供のころから召使いとして愛してくれて
そして、たぶん自分の事を愛してくれているひと。

くちづけが、彼女の中の彼の存在の位置を、示していた。
だから、どうしようもなく微笑んでしまう。
このひとは、自分の事を心の底で考えていてくれている。
そう考えるだけで、彼は万弁の笑みを浮かべずにはいられない。

心の底では・・・。

けれど、彼女はもしかしたら
あの熱に浮かされて自分からした行為を、覚えていないかもしれない。
なにしろ自分を主人だと認識していなかったし
彼も自ら名乗らなかった。

けれど・・・

思い出させる。
無理やりにでも。

彼は、いたずらっぽい色をたたえた瞳で、彼女を見つめた。
乱れた髪が、白い肌に汗で張り付いている。
いつもは絶対に見せることのない寝姿で、彼の前に眠っている。
そう思うと再びくすくす笑って、嬉しそうに彼は書類を手から離した。

「フェイティシア。」

ふとつぶやいた言葉には、いたずらっぽい彼特有の
楽しそうな響きがあった。

「忘れさせない。昨日の夜のことを。」

絶対に
思い出してもらう。

エルゼリオはふと、廊下から聞こえる音に
夕食が運ばれてきたのだと察知して振り向いた。
彼女の手を放すと、扉へと向かう。
「部屋には入ってこなくていい。」
といったような意味の命令を出すために。

彼が手を放した瞬間、
彼女の目が開いたことに、気づかずに。







あたたかいものが、はなれていく。

そう思った瞬間に、彼女は眼を覚ましていた。
目に飛び込んできたのは、彼の後姿である。

エルゼリオ、さま?

まさか、と思った。
この寝具は自分の部屋のものだし、着ているものも薄いネグリジェで
見回すとやはり自分にあてがわれた部屋で
何も変わっていない。

ただ、そばには椅子が置いてあり、ベッドのそばの机の上には
床にもこぼれているが書類があった。

・・・わたし。

彼女は、まだぼんやりとしている頭を抑えた。
どうも視界がぼんやりしているし
体が少し寒い。
と、

「いや、だいじょうぶだ。」

との声が聞こえて、彼女は天蓋からかかる薄布を
うまく動かせない手でそっとのけた。

彼の後姿が、扉の向こうの廊下にあった。
「!!」
思わず息を呑んでしまい、その次には顔が真っ赤に染まった。

わけもなく「どうしよう」、との思いがある。
自分の姿がこんなにどうしようもない薄着で
しかもそれをエルゼリオに見られるなどと、
彼女の召使いとしての規律が、警告を発していた。
しかしベッドの中で、いつもの召使い用の服はそばにないし
体は動かしにくい。

だめ。はやく、着替えないと!

彼女は思い切ってベッドから足をおろした。
床のタイルが酷く冷たくて、おもわず足をひっこめる。
スリッパか靴がそばにあるか探して、
ないことに落胆する暇もなく、彼女は大胆にも
裸足で冷たい床に足を下ろした。

立ち上がろうとする。
けれど、体から平衡感覚が奪われてしまったように、
何かにつかまらないと立てない。

なんで・・・。

と、呆然として二歩進んだそのとき、
ぱたん、と音がして扉が閉まった。

その方向を見て、目に入ったのは
食事の銀器の盆を持って、一瞬息を呑んだ彼の姿だった。







「・・・なにしてる。」

眉間にしわを寄せて、無防備な姿をした彼女に彼は押し殺した声を浴びせた。
目の前によろよろと立っている彼女は、
裸足のまま真っ白な薄いネグリジェを足首が見える程度に隠して、
寝乱れた姿で立っている。

「・・あの、エルゼリオさま。」

と、声を漏らしたのを聞いて、彼は盆をそばにある手ごろな棚に置くと
臆することなく彼女に近づいていった。
何故、無意識に誘うような姿を目の前に見せるのか。
彼は彼女が目を覚ました喜びと同時に、思っていた。

逆に彼女は、あわてて彼から逃げるように動こうとしていた。
しかし、上手く体が動かない。
逃げようとする姿は、彼の苛立ちをかすかに波立たせた。
何かが体の中で、解放されそうになる。

「あ!」

と小さな悲鳴と同時に、彼女は彼の胸に倒れていた。

やわらかな甘い香りが、彼の鼻先をくすぐった。
彼女は図らずも、彼の厚みのある胸に体を預けていた。
すぐさま離れようとすると、彼女の胴を抱きかかえられ、離れられない。
そのまま体が持ち上げられた。

もう、抱きしめられないほど小さな体じゃない。

彼は一瞬、酷く力をこめて彼女をとらえた腕で
彼女の体の質感や、香り、すべてを抱きしめた。
そして、その力を緩めると

「なにしてるんだ。フェイティシア!」
と初めて声を出すことができた。
声を出さなければ、そのまま彼女を押し倒していたかもしれない。

押し殺したような声が、彼女の首の辺りに響いた。
持ち上げられて、丁度彼の口元が、彼女の首辺りに近く
あたたかな息が彼女の肌に触れて、思わず体を震わせる。

彼の顔は、見られない。
恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら、彼女は眼をそらしていた。
そんな仕草の一つ一つが、彼の苛立ちをさらに膨れ上がらせている。

こころのそこで意識しているくせに、隠して目をそらしてしまうひと。

「寝ているんだ。いい?」
と、彼女の体を抱えてベッドに座らせると
「でもわたし、もう大丈夫ですから。」
と、微かに微笑まれて彼はさらに苛立った。

また、安らぐことの出来ない存在に、戻らなければ為らないのかと
そう思うと、ため息が出そうになる。

「だめだ。」
と落胆した声でつぶやいてうつむくと
「でも。」
と反抗した。
彼女は、召使いとしての彼女に、すっかり戻ってしまっている。
それなら、さっきまで眠っていた彼女のほうが、
あるいは、昨日の夜の彼女のほうが、
素直だったのに。

「フェイティシア。」

しかたなく、彼はいつものとおりいたずらっぽく微笑んでみせる。
けれど、いつもの子供っぽさに加えて、
かすかに深みのある雰囲気が、フェイティシアをどきりとさせた。

「大丈夫なら、今からする?」

何を、かは言わない。
けれど彼女と彼の間では、わかりきった言葉だった。
かすかに苦痛を帯びて、つぎに吐き出された言葉は

「俺はいつでも待てないでいるんだから。」

だった。
瞳を近づけて、言い放たれたそれに彼女はぞくりと身を震わせた。
熱が再び、襲って来そうになる。
誰も自分の部屋にはほかにいなくて、彼と二人で。
助けてくれるひともいなくて・・・。

けれどどこかで彼女は、
いつもの、召使いとしての恐怖を拭い去られていることに気づいていた。

何故かはわからない。

大人っぽい微笑を見せて、彼はゆっくりと目を合わせたまま
体を倒してきた。
逃げるように彼女は、ベッドに倒れこむ。
けれど、その先に逃げ場はなかった。

やわらかな毛布の上に、仰向けになったフェイティシアと
彼女の上に覆いかぶさるように、手をついて一定の距離をおいたまま
乱れた姿を見つめるエルゼリオは、無言だった。
ゆるやかな曲線を描いて、上下するフェイティシアの胸を見つめ
動機が激しいことを感じる。
視線を逸らし、顔を赤く染めて微かに潤んだ瞳がある。

彼はつい、抑えきれなくてそっと唇を彼女の頬に触れさせた。
雪のひとひらひとひらが、大地に積もっていくように、
彼はゆっくりと何度も、唇を頬に、額に、首筋に触れさせた。
ちいさな衝撃を感じるごとに、彼女は体を震わせる。
それが、ひどく好ましく思えた。

本当に、可愛くて苛めたくなる。

「召使いなのに・・・。」

と、耳元に唇を寄せてつぶやいた彼の言葉に、
彼女は体を硬直させた。
そう、自分は召使いなのだ。
それなのに、何故こんなにもどこかで
じわじわと侵食してくる心地よい感覚を味わっているのだろう。

「オレを困らせたりして。」

「!!」

そういわれて、どうしていいかわからなくなったフェイティシアは、
くすくす笑って、首筋に顔を埋める彼の愛撫をただ受けるしかなかった。
けれど、今までとは何かが違っていた。
素直に心地よいと、どこかで思っている自分がいて、彼女はさらに顔を赤く染める。
軽く舌先が触れると、声を漏らしそうになって彼女は息を呑んだ。

ちいさくひきつった悲鳴が聞こえて、エルゼリオは酷く嬉しくなる。
少しだけ、前より彼女が自分に本当の姿を見せたような気がした。

まだ、時間はある。

仮にも病気という小さな災難が、彼女をずっと自分のそばにおいて
捕らえておける時間を与えたことに彼は感謝した。

そっと彼女から離れる。
名残惜しい体勢をやめて、椅子を引き寄せてその上に腰掛けると、
彼女は少し驚いた表情で、彼を見つめていた。

彼女は何故だろう、と思っていた。
前の切羽詰った感じがなくなって、堂々としている彼の姿が不思議だった。
そしてどこか、離れてしまった彼を呼び止めたい気分にかられ
あわててその考えを心の中でもみ消した。

そんな彼女を見て、エルゼリオは

「なに?もっとして欲しい?」

と、いたずらっぽく提案してみる。
急激に心拍数が上がった気がして、フェイティシアは再び硬直するはめになる。
案の定、真っ赤になって首を横にふった。
そばにあった毛布を引き寄せて、抱きしめる。
どうやら、もう立ち上がって仕事を始めようとは思わなくなったようだ。

ひとつため息をついて、彼は微笑むと彼女の髪に優しく触れながら言った。

「そばにいるから、眠るんだ。」
「・・・そんな・・・ねむれません。」

あなたがそばにいると・・・
と、彼はその後に続く言葉を聞いたような気がして、再びため息をつく。
そこのところを譲れるわけはなかった。

だから、すぐ彼女の耳元でささやいてみたくなる。

「起きててオレにギリギリまで襲われたいか、それとも眠るか。どっち?」

やわらかく包み込むような声は、彼女のこころを心地よくくすぐる。
いつからこんな風に、彼をどこかで受け入れる余裕ができてしまったのだろう。
そう思って彼女は、相変わらず顔を真っ赤にしながら

「・・・ねむります。」

と、答えた。

彼は、微笑んでそれ以上何もいわなくなった。
ただ彼女の髪に指をからめると、そばにあった書類を手に取り
目を通し始めた。
彼女はただ、それを見つめているしかない。
ゆるやかな眠りが、彼女に雪のように降り積もるまで。


窓の外の雪は、やっと大地を白く染め始めていた。





へつづく

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