「冬の虫籠」



きらきらと、白い雪が舞っている。
けれど、そんな小さな光も、
厚い壁に隔たれた室内へは
纏っているだろう冷たさを引き入れることはない。
雪の下では、凍えた虫たちが永い眠りの時を向かえている。

体に染み入るほどの冷たさを受けて、
家を持たない動物たちは、ただ凍える。
人が住む家々には、暖炉の明かりが灯り
暖かさに身を摺り寄せながら、手をかざして暖をとることも
永久に続かないからこそ、互いに微笑みあえる。

冬の世界に静寂だけは、どこへでも平等に訪れる。

かすかに
ぱさり、ぱさりと
羽が落ちるようにやわらかに
雪の音がする。

静寂の中に、聞いたこともない音楽のように。

彼は、それを聞きながら書物に目を通していた。
まだ、彼女の部屋を出てはおらず、
まるでいつもここに座っていたのだ、
とでも言うように、一定の場所を奪っている。
一睡もしていないといえば嘘になるが、
椅子に座って眠りを押さえつけている、といった様子だ。

暖炉の火があたたかく、彼を眠りに誘おうとする。

あわてて、彼は目を見開いた。

執事は心配そうに時々訪れるが、
一度言い出したら動かない彼の性格を配慮して
眠ろうという意志が強くなるまで
辛抱強く待つしかなかった。

彼女はといえば、ただ毛布の端を握って、
顔の辺りまで引き上げていた。
恥ずかしいのだ。
人目をはばかる格好で、長時間
自分の主人に見守られていることが、である。
しかも彼は自分よりも眠らず、横になることはないから
むしろ彼の体調のほうが心配だった。

勿論彼がそばにいる状態で眠れるはずもない。

長年仕えてきた召使いとして、一言でも助言しようと
ちらりと視線を彼に向けると、
一体どこに目がついているのか、すぐに視線を返してくる。

何も言わずに、ただ微笑んでくることが、言葉のように語り掛ける。
それがただ優しく、やさしく、やさしく。

何もいえなくなってしまう。

だから彼女は泣きたくなるのだ。

言いたくなってしまう。すべてを、本当のことを
話してしまいたくなる。


「わたしは、うそを、つきました。」と
「抱けない体などと、嘘をついています」と。

召使い、なのだ。
めしつかい。
めしつかいなのだ、と一生懸命頭の中で繰り返してなお、
なにかが胸の中でもがいているのを、感じる。

それは熱を出す前よりも一層、強く暴れだしていた。
押さえつけられなくなっている。
なぜ前よりもこんなに気が緩んでしまっているのだろう。

彼女には、その理由がわからなかった。

言ってしまえばどんなに楽だろうなんて
困ったことを考える隙がでてきてしまって、
だからすぐに目を逸らしてしまう。


それが、彼には気に喰わない唯一の仕草だ。


微笑んでいるのに、目を逸らすなんて。


あいも変わらず、彼女は「あのこと」を思い出すことはなかった。
エルゼリオが言うことなく、彼女自身が自然に気づくことを
彼は辛抱強く待つつもりではいたが、
常に待つ身であることに
腹立たしくもあった。

つい、密かな抵抗を示したくなる。

エルゼリオが勢い良く本を閉じると、
案の定静かな室内で音は良く響いて、彼女の体を震わせた。

薄い天蓋からひかれた彼と彼女の間の境界線である布は、
彼女の姿を透かせて、幻想的であると同時に
現実的でなく、とても存在が心もとなく見える。

けれども彼は、その障害をすぐにでも手ではらうことができるし、
場合によっては彼女に触れることも、勿論できる。

ただ、この様子が彼は好きだった。
自分の手の届くところにいつもいて、
それは決して召使いとして彼女が働いているときと
全く変わりはしないのだけれども、

召使い、としてではなく

ただ一人の人間として、彼女がここにいるということ。
それが、とても好ましい。



・・・いつもすぐ逃げてしまうから。



やっと捕まえることができた。
そんな感じだ。

彼はふいに、子供のころの虫かごを思い出した。
やっとの思いで捕まえた大切な昆虫を、捕らえてそばにおいておく。
ベッドのそばの机の上で、ちゃんとランプの明かりに照らして
良く見えるように
一体どんな新しい輝きを見せてくれるのだろうかと
うっとりとしながら、足をぱたぱたと一定の運動をさせ
うつぶせになって、頬に両手をあててひじをつき
見張っていた。

羽があるものは、さまざまな模様の色彩が艶やかで

透けた羽をもつものは、ちかちかと輝いていた。

硬そうな体の虫は、その形に引き込まれてしまった。

どれもみな、彼の宝物だった。


「熱は?」



と言って、彼はさらりと簡単に布をよけると
彼女の眠るベッドの上に膝をついた。

この瞬間が彼はとても好きだった。

虫かごと違って少しおもしろいのは、
自分もこの籠の中に入れるということだ。
ここに入れば、自分も彼女も身分だとか階級も無く
共にただの人、のような気がした。

たとえそれが、思い込みであっても

今は信じたかった。

そっと、額に触れようとすると
フェイティシアは枕に頭をうずめて
もう逃げ場所は無いのに抵抗しようとする。

「なんでそんな風に逃げるんだか。」

と彼はため息交じりでつぶやくが、全く打ちひしがれた悲壮感はない。

それが彼女には、不思議だった。
一体いつのまに、こんなに堂々としたそぶりを見せるようになったのか、
何かあったのだろうか、
たとえばあの仕事で外へでたときに。

あの方に、会われたのかしら。

と思い出すのは、金髪の美女だった。
気の強そうな貴族の女性。

ぞくっと心臓が縮まった気がした。
そして突然頭に血が上っていく。
止め様も無かったが、何故こんなにも苦しくなってしまうのか、
熱の前は、こんなに酷くなかったと
彼女はぎゅっと眼をつむった。

そんなことを考えているうちに、彼の手が額に強引に触れて
驚くまもなく鼻先まで彼の顔が近づいていたようだった。

まぶたをそっとあげる。
手だと思ったのは、間違いだった。

彼の額だった。

視線に逃げ場がないくらい、彼の瞳が近い。

息が、止まった。

「これで逃げ場ないよ。」

と彼はいたずらっぽく笑った。

けれども同時に、この距離は彼の理性を失わせそうになった。
目を伏せて、触れるか触れないかといった互いの唇を
駆け引きのようにぎりぎりまで近づけて、
ともすればすぐにでも奪ってしまえる場所にある。

彼女の額からくる熱は、もう平常まで下がっているようだった。

けれど医者を呼びたくは無かった。
こんなふうに、いつまでもそばに捕らえていたかった。

せめて彼女が、このまえのことを思い出すまで。

彼女が彼に口づけたあの時のことを
彼は心の底でずっと念じていた。
お前は心の底で、想っているということを、
熱に浮かされた戯事ではなく、

心からだ、と。


彼女は、息をとめて目をみはりながら
彼の額の熱と、間近に迫った唇から
かすかに漏れる息を感じ取って
心臓を高鳴らせた。

だめ、だめ、だめ・・・と

繰り返しているにもかかわらず、
心のどこかでこの状態を心地よいと感じていた。

まえに、も、あった?

彼女は思いかえす。

ない。なにもない。なにもなかった。

暗示にかけるよう、繰り返した。

そんなどこか遠くをみた様子のフェイティシアに
エルゼリオは不満足このうえない。

自分を見て欲しかった。

すぐそばにいるのに、

いないように視線を避けるなんて。

酷い。

ふと、ぼんやりと眠気に捕らわれそうになって
彼は一度目を閉じると、それを追い払った。
彼女の雰囲気が優しくて、ついこんな冬の日には
温かなところでぼんやりと眠ってしまいたくなる。

「ねえ。」
と、彼は吐息を漏らすようにつぶやいて、
長いまつげを伏せると、視線を下に落とす。
真っ白でやわらかそうな肌が、まっさらな新雪のように
彼を誘っている。

彼は慣れたように首筋の一定の場所を見つめて、
もう一度彼女の瞳を見つめ返した。

「帰ってきたら、褒美をくれるっていったよね?」

仕事をやり遂げたご褒美だなんて、子供みたいなことだけれども
無邪気そうに微笑む彼は勿論、真面目に貰うつもりでいる。

「や・・!」
と、何か察して毛布を引き上げようとするフェイティシアに、
「だめ。」
と無理に彼女の手を掴んで止めた。
そんな可愛い声をあげるなんて、逆効果だと彼女は知っているのだろうか。

勿論しらない。
だから可愛くて仕方ない。

「くれるっていったのに、嘘つくんだ。フェイティシアは。」

と拗ねて、けれど何故かもうひどく大人びた笑顔を見せる彼に、
彼女はかすかに眼を潤ませた。
いつになく哀しげな表情で、けれど無言で。

「わたしがあげられるものは・・・。」

ありません、と彼女は言う。

嘘であっても、常套句であれば、
例え心が痛もうとも言葉に出来て、力があると信じるしかない。

「いいよ。全部とは、言わない。」

二人は半ば、なれた取引を行うように冷静に見えた。
けれど、体の奥底では色々なものが渦巻いている。

見詰め合ったままで、彼は彼女の視線を逃さないようにしてから、
いつも彼が唇で触れる、彼女の首筋の一定の場所に
そっと触れた。

いつも、最初に首筋に触れる。

それは彼女が昔から、それこそ彼が少年のころから
知っている癖でもある。
たとえば外から帰ってきたあとで、
椅子に腰掛けた彼女を、「ただいま」の挨拶として抱きしめる。
いつも首の辺りに顔を埋める癖がついていた。
次第に首筋に口づけるようになった。

そしてあるとき、ちょっとした変化に気づいた。

ある場所だけ、やけに彼女が反応するということを、である。
たとえばそれは、彼が抱きしめている彼女の体がびくっと震えたり、
あるいはそのあとで顔をみると、ひどく赤かったりする。

もちろんいたずらっぽい彼が、それを見逃すはずは無かった。

それが次第に、的を外さなくなってきたころに
彼はしばらく屋敷を離れた。
子供の体である自分に、せいせいしていたからだ。
そして、大人になってあらためて彼女の前に現れても
そしてその癖を同じようにしても、
何も変わらないことに彼は安心した。

だからいつも、この場所に口づける。
探るように触れていくと、彼女の体が小さく震えることに気づく瞬間があるからだ。

案の定、である。
触れる唇を引き離そうと、どうしようもないふうに細くて柔らかな
白い指先の手のひらで、彼の両肩を包んで離そうとする。
けれども力が入らないのか、かえって彼女が震えると同時に
きゅっとその手が肩を掴むのがわかるのだ。

だから可愛くてしょうがない。

「しるしつけるから。」
「え?」

と彼女が小さく尋ねた瞬間に、快感が襲ってくる。
彼の、子供のころからの癖だと片付けるには
あまりに的を得ない大人びた癖。
体が、心底震えた。
それも、何度も何度もなんども繰り返して触れる唇は
次第に的確に同じ場所に触れてくる。

思わず息を呑んで
「・・・あ。」
と声を漏らすと、嬉しそうに小さく笑う声が聞こえて
さらに顔を赤くするはめになる彼女は、
まんまと彼の術中にはまっているようにしか見えない。

「男って口紅つけてるわけじゃないから。」
と彼はひょいっと、突然顔を上げて無邪気に微笑んだ。
「キスマークとか簡単にはつかないんだよね。まあ・・・。」

そして再び顔を埋めると、彼女の耳元までわざとらしく口を近づけて
吐息を含めながら、ありったけいたずらっぽく囁く。

「そのぶんやりがいあるけど。」

だから彼女は顔を心底真っ赤にするしかない。
たっぷり時間をかけて、その場所を制覇すると彼は満足げに微笑みを見せた。

くっきりあとがついている。

「うん。じゃ、つぎいこうか!」
「!!あの・・・・・・エルゼリオさま!」
「なに?」

と戸惑う彼女に、あっけらかんと彼は尋ねた。
そういうふうになんの屈託もなく言われてしまうと、むしろ抵抗できない。

「・・・もう。」
だめです。

と拒否する前に彼は、長い指の綺麗な手で彼女の口を塞いでしまった。
やわらかな唇の感触を、手のひらに感じる。

本当は、もう一度この唇で
自分の唇に触れて欲しいのに。

そしてまどろむようにむさぼりあって、そのまま眠りにつきたい。

彼は心の中で拗ねて、仕方なくつぶやいた。
「これだけがご褒美だなんて少ないよ。フェイティシア。」
そんな仕草は、幼いころの彼そのものなのにもかかわらず、
どこか大人特有の冷淡さと、そして・・・

「虫篭、好きなんだ。」

と彼は、ベッドの天蓋から流れる薄布に触れながら告白した。

「虫籠には、大切なものを入れておくんだ。
捕まえた虫とか。花とか草とか、小石とかね。」

「・・・よく外にでて遊んでいらっしゃったから。」
と、フェイティシアは思い出して微笑んだ。
草原の中を、彼の白いシャツと柔らかな色の金髪が
ふわふわと風になびきながら走っていく姿が、目に浮かんだ。
彼女の大切な思い出だ。
彼の笑顔が、ひどく清々しくて、一緒にいた自分まで嬉しくなったこともあった。

「素敵なものを沢山、集めて持って来られましたね。」

と、つぶやく彼女はどこか遠くを見つめているようで、
彼にはどうも気に食わない。
「もう、できないけどね。ただ・・・」
「ただ?」
そっと首をかしげる彼女の、やわらかな髪は流れた。

「今はこの場所にフェイティシアを閉じ込めておけるから。」

「!」

彼女は黙って顔を赤くすると、毛布を引き上げた。
そんな反応をすぐにされてしまうと、彼としては困ってしまう。

ただでさえ、冬の空気で心が閉じてしまいそうなのに。
外は雪で、寒くて寒くて死にそうで、
綺麗すぎて生きていけない。
だから暖かくさせて、ふわふわしたなかに彼女を閉じ込めてしまって
そっと腕に抱きながら眠りたい。

そんな願望を彼女はわかってくれるだろうか。

エルゼリオは、睡魔に襲われそうになりながら
彼女の首の辺りにもう一度、顔をうずめた。
懐かしい甘い香りが、彼を優しく包み込んでいく。
柔らかな曲線を描く肩や、彼女の頬の弾力が
額にふれて彼は、子供のころに帰ったような気がした。
目を閉じると、すぐにでも眠ってしまいそうだ。

「フェイティシア。毛布のなかに入れてよ。」

と、彼はつぶやいた。
すでに眼をつむってしまっていることを、
彼は自分でも気づいていない。

「さむいから。」
「エルゼリオさま?」

彼のやんわりとした声に眠気を感じ取って、フェイティシアはあわてた。
こんな薄着を着た自分が眠る、粗雑なベッドで自分の主人が眠りにつくなんて
考えられないことだ。

「エルゼリオさま。どうかお部屋に戻られてください。エルゼリオさま。」
「・・・。」

しかし、返事とは裏腹に彼は、微かに目を指でこすっただけだった。
その仕草は昔から見慣れていて、フェイティシアは哀しく微笑むしかなかった。

何もかも、全て変わってしまうわけではないから、
余計に哀しいのだ。

動悸の激しい心臓を呼吸を整えておさえてから
彼女は自分のかけていた毛布の中に、そっと彼の体を引き入れた。
そして昔、彼が子供のころにしてきたように、彼のやわらかな髪をそっと指ではらうと
頬をなでて、ひどく近い若い主人の姿を見つめた。
「・・・眠い。」
と目を閉じつぶやく彼に、「しばらく眠られておられないから、でしょう?」
とつぶやくと、「うん。」と素直に返事がかえってきた。

「フェイティシアのせいだから。」
と、つぶやく。
「そうですね。」と、彼女は返した。

こうしていると、なんだかひどく不思議な気分だった。
あいかわらず顔は真っ赤に染まりそうなのに、
秘密の隠し事をしているようで、
普段あるはずもない夢が、現実になったような感覚。
召使いとしては、してはいけないことかもしれないが、
どこかで安らいでいる自分がいる。

大切なものが、そばにある安らぎだろうか。

けれど、少しして彼が眠りにつけば、彼女は起きて
召使いとしての仕事を果たさなければならなくなるだろう。
召使いの部屋のベッドで、こともあろうに召使いとともに眠っていたなどとわかれば
どんな噂が立つのか、考えるだけでぞっとする。
主人の立場を考えても、それだは避けなければならない。

「・・・まだここを離れたらだめだからな。フェイティシア。」
と、彼は眠そうな目を開いてつぶやいた。
楽しそうに顔を彼女の首筋に埋めてくる。

「・・・抱きしめてよ。・・・昔みたいに。」
「エルゼリオさま!」

腕を彼女の背にまわして、からめとるように引き寄せると、
透かしたような彼女のネグリジェの上から、いやおうなく体温が伝わってきた。
体をねじって動かしながら、腕から逃れようとする様はいかにも艶やかで
頬が染まり瞳が潤む彼女を、夢うつつに彼は見つめた。

「離したら・・・だきしめてくれる?」
と、彼はいたずらっぽく、
けれど哀しそうに囁いた。
「抱きしめたら・・・離していただけますか?」
と、返すように彼女は困って彼につぶやいた。

「ほんの少しの時間だけでいい。だから・・・。」

そう眠そうに微笑む彼に、
彼女は答えるしかなかった。

彼の広い背に腕を回して、抱きしめると
しばらくして彼の寝息が聞こえてきた。

彼女は、しばらく呆然と眼を見開いていた。
自分がとった行動を冷静に判断して、あまりの恥ずかしさに
思考が止まりそうだったからだった。
困ったことは、この若い主人の体が温かく
広い背中がたくましくて、気持ちよかったなどと
召使いにあるまじき思いが浮かんできてしまったことだ。

しばらく、その思いは体を離れていきそうにない。

彼女は、深い眠りにつく彼をベッドの上に残して
一人、床の上のタイルに足を無造作に置いた。

瞳はしばらく潤み、窓の外の雪を溶かすように滲ませて見せた。

冬の虫籠は、暖かい。
けれどもいずれ迎える春に、彼らは再び
離れていかねば為らなかった。

雪が終わるまで、
彼らの密やかな休息はつづく。

冬の夜は全てのものを捕らえ、眠りの籠へと閉じ込めていた。





へつづく

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