冬の虫籠2




雪が降り止んだのは、朝
まだ日が窓から差し込んで間もない頃だった。
比較的薄そうな白い雲間から日差しに照らされて
どこか金属を思わせる輝きを一層増した雪は、
ちりちりと密かに、燃えるように解け始めている。

今日は暖かい日なのかもしれない。

エルゼリオは、身じろぎをしながら
部屋が暖かくなるのを感じつつ、
閉じたままの瞳で横になっている寝台に
やさしく漂う、柔らかな香りを楽しんだ。

花の香りにも似ているが、
あるいは蜜にも近いとろみを帯びた甘さがある。
けれども煩わしいほど甘くはなく、
その点では、果実のそれに似ていた。
昼のふとんの日の香りにも近い気がする。

肌に触れる毛布は、自分に部屋にあるものよりきめが雑で、
なじみの浅い感触だが好ましい。
漂っている、女物の香水とはまた違った
彼にとって懐かしいこの香りが、全身を包んでいる。

この香りが、誰のものかは明白だ。

それが、隣で寝乱れた彼女の姿を明確に想像させて、
彼は満ち足りた気分になる。
同時に、抱きしめて奪ってしまいたい気持ちを、
彼はあえて心の奥底に隠してしまいこんだ。

ひどい風邪から、その弱そうな体を守れたのだから。
死に連れ去られることもなく、
側に、これからもいることができるのだから。
そう考えれば、自分の気持ちを誤魔化すことも、できる。

けれども、いつまでも誤魔化すことは、できない。

そっと瞼を開いてみる。
そばでまた、彼女の寝顔が見られることに
彼はくすぐったい満足感を覚えていた。

だが・・・

「・・フェイティシア?」

彼女の姿はない。
彼は思わず上半身を勢いよく起こし、
大切なものをなくして驚いた子供が
あわてて探し出すように
まず、あたりを見回すことから始めた。


すると、彼の呼びかけに答えるように
浴室のほうのドアから「はい?」と声がし、
銀製の大きな器と水差しを運んできた。

「・・・。」

思わずいつもと違わぬ光景に、
安心感とともに不快感が
彼の顔に影を落とす。
案の定、こぼれそうなほど注がれた湯が、
朝の空気に白い湯気を立ち上らせた。

「どちらにされますか?」

と、彼女はいつもどおりに微笑んで尋ねた。
この場合の「どちらか」とは、
顔を洗うのが先か、それとも足に湯を浸すのが先が、
ということである。
特に貴族は、男女を問わずこの国では朝はゆったりと
暇をもてあそびながら、さまざまな方法で休息する。

顔を洗うのはいうまでもなく、
召使いが運んできた湯が熱いうちに使用することで、
特にどのような階級でも
それが湯か冷水かの違いであって
一般的なものだ。

足を湯に浸すことは、太古の宗教的な意味もあるらしいが
寒い冬には足先を暖めて、朝の氷に近い空気に
体が慣れるまで待つ、
といったようなものである。
貴族はたいてい、この湯に特別に調合した香りを混ぜもする。

エルゼリオはしばらくうつむいて考えたが、

「顔を洗う。」

と、押し殺した声を放って、彼は鋭い視線を彼女に浴びせかけた。



「何故、普通にしているのか。」



ということを肩を掴んで、振り回してでも問いかけたい衝動を
彼は堪えた。
この前までは、死にそうだった体で。
自分のそばで、恥ずかしそうに毛布を引き上げて眠った体で。

逃げるようにねじって柔らかな曲線を描いて、
隣に眠った自分の腕の中に収まった体で。

しかも、平然といつもどおりに振舞っている。

エルゼリオはイライラして、彼女から目をそらした。
あんなに心配した自分が、馬鹿みたいに思えてきたのである。
「ありがとう」と言われたくてしたわけでもない。
けれども、この「いつも通り」が彼には腹立たしかった。


「いえ、そうではなくて。」

との、彼女の答えに彼は
「何?」と不機嫌そうに答えた。

「そうではなくて、この場所でいたしますか?
それとも、お部屋へ戻られてから・・・。」
彼女は俯いたまま、静かに尋ねた。
綺麗な声色は、囁きのために朝の空気を含んで
より一層澄んで・・・
けれども彼の視線から逃れようとする恥ずかしさから、
かすかに甘い震えがある。

「・・・ああ・・・。」

と、彼はたいしたことでもないようにため息をついた。
「ここで。」

と、極めて強調するように発音し、彼女の動揺した姿を見守ることにする。
それから、彼女の部屋でも自室のように振舞って、
顔を洗うと、タオルを彼女の手から奪い、顔についた水滴をふき取った。


その様子を見つめていた彼女、フェイティシアにしてみれば
召使いの部屋で朝の時間を過ごすということは
あまり貴族の朝としては、好ましい行為とはいえない。

「この領主は召使いと何か、いかがわしい関係がある。」

などと噂が持ち上がったりするものだ。
フェイティシアも、そのことは十分承知していた。

そしてふと、昨日の夜ベッドから起きた後のことが
思い出された。





昨日の夜、彼が眠ってからフェイティシアはひとり、
執事の部屋へ歩いた。
もう体の節々は正常に動く。
すると早速隣の部屋から駆けつけたライジアは
ひどく眠そうで腫れた顔を、ばしばし両手で叩き
起きて歩くフェイティシアに、それこそ
ちょっと体が弱ってしまいそうなほどの大声で

「フェイティシアさまは病人なのですよ!寝ていないと!!」

とそれこそ百回くらい言われたのではないかと思わせるほど
何回も言って聞かせたのだった。

けれどもフェイティシアはただ微笑んで、
「いいの。もう大丈夫だから。」
とかすかに弱弱しく諭す。

その声にライジアは、自分の大声に気づき
あわてて口を塞いだのだったが、後の祭りであった。

叔父である執事の部屋では、もう朝に近いこともあり
また、姪の病のこともあって眠れずに過ごしていた。
しかし、フェイティシアが訪問すると
肩の荷がおりた、と言わんばかりに深いため息をつき
一層目の下のくまを黒くにじませて、微笑んだ。

「よかった。ところで、エルゼリオさまは?」

問いに、彼女は一瞬とまどった。
首筋に、あの跡は今も残っているだろうか、
その場所から全身を侵食するように、
彼の唇が自分の肌を這った感触が
思い出されて広がっていく。

隠したい、と思って体をこわばらせると、
顔が意識とは反対に赤く染まっていきそうで
どうしようもない。
けれども堂々としていないと、
目ざとい叔父の常に疑惑を含んでいる視線から
逃れることはできないように思われた。

彼女の妙な反応に、ロイドはいぶかしげに彼女を眺めたが、
「どうした。」
と問いかける前に、あることを発見していた。
「どうした」、との問いと答えまでの間は
ロイドがあることを推測するための時間でもある。

「あの・・・私の部屋の寝台に・・・。」

と答えると、次に体をこわばらせたのはロイドだった。

この答えには、特別な意味のあるものなのか、
それとも全くないものなのか。

しかし、微かに明確になっていく答えのひとつは、
エルゼリオが彼女をどう思っているか、である。

邪推ではあるが、可能性もある。

側でひかえていたライジアは、この答えに
多少動揺した。
まさか・・・と邪推もできる。
そんなことになれば、たとえご主人様であろうと
この世に生まれてきたことを呪ってやる!
ほどの気負いが彼女にはあった。

一瞬凍りついた部屋の空気を読んで、
フェイティシアは顔を赤く染めながら
「・・・看病してくださって、眠っておられなかったのか・・・
そのまま横に。それ以上のことは・・・。」
と、付け加えた。

事実その通りでもあり、多少の嘘でもある。

「・・・そうか。確かに、最近は眠っておられなかったようだしな。」

と執事はつとめて冷静に答える。

だが、あの首筋の跡はなんだ?

と彼は眉間にしわを寄せそうになり、
彼女に背を向けた。

「わかった。フェイティシアをお前の部屋で
着替えさせ、通常の業務にもどるように。
ライジア。フェイティシアを今週は気をつけて見ているように。
何かあれば、すぐに知らせるように。」

その「何か」のなかに、はたして邪推されたことまでが
入っているかどうか・・・。
ライジアは、エルゼリオのフェイティシアに対する思いを知っている。

フェイティシアは一礼すると、ライジアとともに
部屋を退出した。
彼女がそっと、首筋を隠すように手でふれた仕草を、
横目で去っていく姿を流し見たロイドは
見逃さなかった。





ふと思い出したことに、フェイティシアは目の前にいる
エルゼリオをちら、と見て再び顔を染める。

叔父は、気づいたかもしれない。

エルゼリオさまが自分を、特別に見ているということに。
そして、何かがあった、ということに。

との不安がある。
今、彼女の首筋の跡は、決まった召使い特有の服の
白い清潔なレースの下に隠れてうずいている。

思い出すだけでも、顔が火照るので、
彼女は今日はいつもの倍、深呼吸をしている気がして、
それもまた、顔が火照る原因になっていた。

しかし、たとえ気づいたとしても、叔父は決して
誰かに言うことはないだろう、
という妙な信頼もある。


それは勿論執事の鑑であるためだ。



エルゼリオはそのようなことがあったとは知らず、
噂が立つことを、彼女を苛めるための口実と考えていた。
たとえ、「召使いの部屋の寝台で過ごした。」
といっても、乗り切れるだけの愛嬌のようなものと
言葉を器用に操る技量が彼にはある。

この屋敷で彼と彼女が疑われないのは、
乳母的な存在であったフェイティシアを
「乳母として」彼が愛していると、召使い達に思い込ませることにあった。
そうすることで、彼は彼女を召使い達の嫉妬から
守っているともいえる。

それは、微笑まれると溶けてしまいそうな魅力のある彼に、
目をかけられている存在であれば、誰でも
嫉妬の対象になりかねないという事実からである。



彼は子供のころ、幾度か召使いたちが、互いに奪い合うように
自分の世話をする役割につきたがる光景を目にしていたし、
そのような光景があまり好きではなかった。

だから、逆にそのような人々が普通であるともいえ、
フェイティシアがやってきたその日、
自分を見ずに、黙々と仕事をこなす彼女に
目がいってしまったのかもしれない。

正直に、自分を見ていないことが腹立たしかった。
だから、本来乳母として仕事を任されたフェイティシアの祖母に
彼女を祖母と同じ仕事につけるよう、頼んだのだ。

「フェイティシアを、そばにおいてもいい?」

少年の、可愛らしい願い事を、自分の娘より
彼を溺愛する乳母が、かなえないはずはなかった。

しかし、彼は皆が自分を甘やかすのは、
彼の人としての特質ではなく、単に「領主のお坊ちゃん」
であるためだと思っているし、現在も疑っていない。




顔を拭ったあと、彼は彼女の寝台に座ると、
「足を浸す」という朝の習慣にうつった。

本来なら、彼の自室には定位置に、
そうしている間に読む本や、時計が置いてあったが、
彼女の部屋にそれらはない。

だが、そんなささいなことで不快感をあらわにする気もない。
そんなことをして、フェイティシアが暮らすこの部屋から
離れるつもりはないからだ。

フェイティシアは、あいかわらず困った顔で、
しかし反抗もすることなく彼の素足を、
床に置いた銀の器の中におさめた。

見慣れた銀の盆のなかには、ひかえめな美しい文字で書かれた
ラベルが貼ってある、数種類の茶色い小瓶が
きちんと並べられて収まっている。

そのなかに、どの香りが収まっているのかを彼は、
今日まで考えたことはなかった。

しかし、それらの小瓶のなかの液体を、
銀製のスプーンではかりながら、別な銀器に入れて
手際よく混ぜていくのを、
彼は少年だったころから、何か素敵なものができあがる瞬間を
見守るように興味深げに見つめる。


そして、中身を足が浸された器に入れると、
湯とともにやさしい香りが体を包んで、彼は
「いつもの朝」を確認した。

そのときの、彼女の定位置はいつも
エルゼリオの足が納まった器の、
彼が見下ろして左の床の上だった。
それが、たとえ彼女の部屋であっても変わらないことに、
奇妙な可笑しさを感じてしまう。

「これが終わりましたら、どうかお部屋へ戻ってください。」

と彼女は小瓶の栓をしめながら、彼を見上げて哀願した。
顔が赤い。
そしてすぐ俯いてその顔を隠してしまうと、
そばにあった柔らかな布を、銀器の中の湯に浸して
彼の足を優しく拭い始めた。

子供のころから彼は、そうしてもらうのが好きだった。

ベッドの上から下を見ると、彼女の可愛いつむじや
茶色いやわらかな髪が流れて、美しい曲線を描いていて、
その白くてふわりとした手で握ったタオルで、
無心に彼の足を洗っているのが見える。
いつもそれは変わらない。

けれども今日は、そんな彼女が遠く見えるようにも、思った。

そうされることで、主人と召使いという関係を
強く認めさせられているような気分だった。

昨日まで、側で看病していたひとが・・・。

今日は自分が、彼女を使っている、という違和感だった。


何故か哀しかった。


エルゼリオは俯いて、「仕事」をこなす彼女を眺めながら、
彼女の髪に触れる。

一瞬、彼女の手が止まり、彼女の体が震えたのがわかった。

彼女の髪を指ですきながら、彼は「・・・うん。」と
自分で納得するようにつぶやいた。

「もういいよ。フェイティシア。」

「・・・でも。」

と、彼女はふたたび彼を見上げる。
不安が入り混じった表情をしていた。
そんな戸惑いを見て、エルゼリオは少し困ることになる。
怯えているようにも、見えた。
だから、どうやって慰めればいいか、余計に迷ってしまう。

彼は、そんな彼女の頬を指でなぞって触れた。

どういえばいいのか、彼は言葉に迷った。
主人と召使い。
ただ普通にそばにいてほしいというには、
あまりに違いすぎる位置に存在している。

「・・・そう、ですか。」

と、彼女は哀しそうに俯いて、彼は少し慌てた。
もっと距離が離れていきそうになる、危機を感じたからだ。
立ち上がる彼女の腰のあたりに、急に腕を巻きつけて
引き寄せた。

「・・・俺、昨日はちゃんと風呂に入ってないんだよね。」
と、唐突な話題を持ち出す。
フェイティシアは少し恥ずかしそうに微笑んで

「・・・私を看護してくださったのは、凄く嬉しいのですが、エルゼリオさま。
今日は早急にお部屋に戻られて、お風呂に入られることをおすすめします。」
と、生真面目に答える。
そんな彼女を困らせたくなって、エルゼリオはいたずらっぽい提案をした。

「足はもういいから、俺の体拭いてよ。ここで。脱ぐから。」

と言って自分の服に手をかける彼に、彼女はあわてて
「だっ、だめです!何を突然おっしゃるんですかっ!」
その手を押さえた。

勿論冗談である。
けれども、彼女はいつだって真面目だ。

「なんで?だいじょぶだって。たいして減るもんじゃなし。」
「だから、お部屋のお風呂に・・・!」
「だって、ここから部屋まで帰るのに、廊下とおるんだよ?
寒いよ。」
「で、でもこんな場所で・・・。」

そう言って酷く戸惑っている彼女に、いたって生真面目に彼は
考え込むふりをした。

「わかった!フェイティシアの体は俺が拭く。これでおあいこでしょ。」

「!!」

息を呑んで顔を真っ赤に染めたフェイティシアに、
彼は半分いたずらっぽい微笑をみせる一方で、
真面目で真摯に訴えた。

「脱いでよ。風邪も治ったんだし・・・元気になったんだろ?」

エルゼリオは急に、心が冷えて干からびていくように感じた。
少しずつ、彼の中で怒りがこみ上げてくる。
召使いとして、平然と振る舞う彼女への不満か。

あるいは、自分の手に入ることはない彼女の体か。

そのことが、フェイティシアのついた
「嘘」だということを、
彼は知らない。

「・・・でも!」
「脱ぐんだ!!」

との、突然の一括に、
彼女は息を呑んだ。

しばらく部屋が静かになると、
彼は平静になって、つい感情的になったことを、
少しだけ後悔した。

けれども察したとおり、彼女はやはり肩を持ち上げ気味にして
緊張した雰囲気でうつむいている。
体は、小刻みに震え、白い頬はきれいに赤く染まり、
涙が滲みそうになるほど、大きな瞳が潤んでいる。

その表情に、被虐的な甘さを彼はすくい取って
舐めるように眺めた。

いつだって彼女は彼にとって可愛くて、
酷いことを言って困らせて、
甘えたくて、甘えさせたい存在である。

「あの、エルゼリオさま。それは・・・。」
と言葉をにごすと
「なんで?」

と、はねつけるように唐突に切り出す。
彼女に弁解や彼を説き伏せるだけの時間を
与えるつもりもない。

けれども、この話題を続ける気も、
エルゼリオにはなかった。

「・・・なんで、寝てないんだ?風邪は?」

やっと、言いたくていえなかった話題を切り出した。

きっちりといつもの決まった服に身を包んで、
背筋を正して立っている彼女に、
病の影は見えるはずもないけれども。

「熱は?」

と尋ねながら床に立ち、彼女のそばに近寄ると
やはり昨日の夜、彼女を側にしたときの香りや
雰囲気がそのまま蘇ってきた。

窓からの光が白くまぶしくて、
彼女の横顔を綺麗に照らし出すと、
真っ白な肌のきめが、細やかにひとつひとつ
輝いているように見える。

もっと近づいてみてみると、
あまやかなあの香気がいっそう濃く漂い始め、
彼は無言で納得して、指でそおっと
彼女のほほに触れてみた。

勿論、触れられた彼女も同じ思いだった。
彼が近づいてくるにつれ、昨夜の記憶がまだ新しいまま
蘇ってくる。
そこに夜の空気は無いが、
まどろみに似たような恍惚感ははっきりと生まれていた。

互いに、見えない籠の中に納まっているような、安心感。
それは決して、強制的に捕らえられているのではなく、
人がいつもどこかで望んでいるもの。

彼らを守るその籠は、透きとおっていて、壊れやすくて、

崩れてしまいそうなほど甘い。

それに捕らえられてしまうと、昨日の夜のことが
酷く鮮明に蘇ってくるのを、フェイティシアは感じた。


たとえば、彼がどういうふうにその腕を、
この体に絡めたとか。


突然彼女が顔を赤くして、深く俯くと
彼はつい微笑みたくなった。
何を考えているのか、おおよその察しはつく。


「思い出した?」

と、肩をそっと掴んで引き寄せると、
壊れ物をあつかうように彼女の額に手を触れさせた。
微かに震えているフェイティシアがわかる。
俯きがちに、彼の目を見ないようにして少し顔を背けて
上からその様子を見つめると、
何故だか苛めたくなってしまって困る。

「もう寝ないの?」

と、くすくす笑って彼は耳元で囁いて見せた。
次いで、舌で耳の辺りをなぞってみせると、
彼女の体が硬直したのが、握ったままの
彼女の肩から伝わってきた。

彼女がうろたえて一歩、後ろへ逃げようとすると、
彼もまた一歩、前へ歩をすすめる。
また一歩、一歩と繰り返すうちに、
部屋の壁が彼らの動きを止めた。

もう逃げ場はない。

「まだ寒いし、ほら・・・。」

と、安心して位置を定めることが出来た彼は、
被虐的な遊びを繰り返しながら
目線だけ彼女の横にある窓に向けた。

雪はもう止んでいる。
日の光もときどきだが、大地を照らしている。
朝の鳥は囀っているし、
一向に暗くて寒い冬という雰囲気は見当たらない。

「・・・。」

思わず彼は彼女にもたれかかり、
首の辺りに顔をうずめた。
ため息が出る。

まさに、それこそ完全に朝、なのだった。
そこには、一切の夜の空気も見当たらない。
冬というよりは、春の訪れ間近の、朝である。

「エルゼリオさま?」

と、彼女は抱きしめられ顔を真っ赤にしたまま、
同じようにため息をついた。


捕らえておく籠が、消えてしまいそうで怖い。


冬も、風邪も、全ての理由も今日の朝に溶けてしまって、
いつもの朝と、いつもの日常と、

昨日の夜は、夢だったと、思わせずにはいられない現実。

ただ、
そばにいて彼女のやわらかな体がそばにあり、
鼓動と密やかな温かさを感じることが、
一夜の夢の切れ端のように思えた。



『ずっと、閉じ込めておけば・・・。』

と、彼の中に埋もれている記憶から、彼女の声がした。

『虫籠に留めてしまうと、そのうちに死んでしまいます。』
と、彼女は籠を抱いて放さない彼にやさしく言い聞かせた。
『生きているうちに、そこから出してあげませんと。』
という彼女に、勿論彼は

『嫌だ!』

と反抗した。

けれども、次の日の朝彼女が言ったことが正しいと、
彼は身をもって知ることになった。

朝の光の中で、場違いなように動かなくなった虫の骸は、
平然と夜の雰囲気を持ってそこにあった。
微動だにせず、輝きもうすれてしまって、
少年の彼もまた、しばらくその場に静かに、動かずに
たたずんでいた。

そうすることが、正しい「おくりかた」だと
全ての子供達の本能が、知っているように。



捕らえたものは、いずれは放される。



どのような形にせよ、彼は彼女を
いつまでも捕らえておくことはできないのだ。

たった一時が許す、彼が持つ時の籠に捕らえることはできても・・・。

「・・・もうちょっと、あのままでいたかった。」

と、彼は彼女をだきしめてつぶやいた。

だだをこねるやり方は、相変わらず子供の頃と変わっていない。
フェイティシアは、そう思って肩から力を抜くと、
彼の背に腕をまわそうとして、それをやめた。


召使いであることを、今日からは自分に言い聞かせなければならない。


そして、そうでもしないと

彼に気を許しそうになっている自分を、
止める事ができないと、わかりはじめている。

何故、こんなにもきつく閉めていた螺子がゆるんでしまったのか・・・。

彼女はまだ、その原因を思い出してはいない。

だだをこねている間に、昔のように
背をなでたり頭を撫でてくれないだろうかと
妙な期待をもって待っていたエルゼリオは、
何もしないフェイティシアに、むっとした。

もうすっかり、完全に彼女は「召使い」気分を
取り戻してしまったようだ。

いい方向に向かっているとは、いえない。

たとえ彼女が頑固に持ちつづけている
「召使い精神」を取り戻したとしても、
彼女の根底には、あの熱を出したときの彼への思いがあるということは
彼だけが知っている揺るぎない事実である。



このままで終わらせるわけにはいかない。



エルゼリオは、彼女に見えないようにいたずらっぽく微笑んだ。

予定どおりにはいかないみたいだが、
手段が無いわけではない。

「あのときのこと。」を彼女に思い出させるために。

「ねえ、フェイティシア。見てみて、上のほう。」
「え?」

そんな単純なことにひっかかるのも、真面目な彼女らしい。


顔を上向けた瞬間に、彼女の唇を奪い、
抵抗しようとする両手を掴んで、
ゆっくりと、その感触を味わうことにした。

「!!」

悲鳴を上げる暇も、もちろん逃げるだけのすきも、
強く抵抗するだけの意志も、
触れる唇の温かさが吸い取り、
舌先で絡め取っていく。

「召使いとしての自覚」も、
自分を偽るために自分をとじこめた籠も、
彼の強引さの前では
一瞬にしてどこかへ消えていってしまう。

「・・・ぁ。」

と、ちいさく声を漏らして息苦しくなって顔を背けると、
追うように唇が塞がれた。
どうもがいても、逃がすつもりは彼にはない。

抱けなくても、触れることはできるのだから。

エルゼリオは、冷静に、けれども強引に彼女を捕らえ、
「あのこと」を思い出させるために、
時間をかけることを惜しむつもりはなかった。

そして彼女は、本来あるべきはずのない
別な感覚が蘇ってくることに驚いていた。

唇が触れあう感触。

何故か、知っている。

何故か、知っている。




・・・なぜ?




と、そのとき、

唐突に襲ってくる記憶の洪水に溺れて、

そのなかの欠片に触れてしまった自分に

彼女は、

気がついた。




抵抗する力がその瞬間に抜けて、
本当に心底自分のしたことを恥じた彼女は、
顔を真っ赤にして泣きそうになる。

なんで、あんなこと・・・。

と、長いまつげを伏せて、されるがままでいることすら
どこかで完全に彼を望んでいる自分を、認めるようで、
ぎゅうっと体をちぢめて、どこかへ消えてしまいたいと感じる。

自分から種をまいてしまうなんて。

それが酷く厭わしい。

自分の記憶が確かなのか、しばらくしてから彼女は、
いずれ彼に確認しなければならないと思いつめはじめた。


できることなら、疑いたい。


その表情と、柔らかな唇が震えるのを知って、
エルゼリオはことを悟って微笑むと、
彼女のうでを放した。

少し、苛めすぎたのかもしれない。

「看護代。」

といって、いたずらっぽく笑うと
何事も無かったかのように平然と、
ベッドの上に腰を下ろした。

彼女は呆然として、
何故、そんなにも平然としていられるのかを
問い詰めたい衝動にかられる。

もちろん、自分のなかにある、疑惑の記憶についても
早く真実かどうか知りたい。

しかし、どう聞いていいのかわからず、
けれども知りたいと思うことは変わらず、
答えを知っているのは勿論、自分と
彼本人だけということに戸惑いながら、
フェイティシアは思い切ってエルゼリオに近づいた。

「あの、エルゼリオさま、さっきの・・・を、わたし・・・前に・・・?」

怯えて、真っ赤に顔を染めて、俯いている。

その問いに、彼は彼女をのぞき見て、
楽しげに微笑むと、
勿論こう答える。

「なに?なんのこと?」


知りたいことを、教えないでおいて、
少し苛めておく。


それが、

冬のもつ、時が経つにつれて解けてしまうものよりも、
頑丈で確かで、
しかも鍵は彼がにぎることのできる、
籠だということを

彼は知っていた。





しかし一方で、また違う形でフェイティシアを捕らえようとする
存在が現れはじめたのも事実である。

執事のロイドは、姪の行く末を思い悩んでいた。
おそらく、邪推は現実に近しい重さをもっていることに、
彼は気づいている。

「フェイティシアを・・・どこかへ・・・。」

嫁がせるか。

それが、主人のことを第一に考える執事の、
早急な結論であった。



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