「真昼の迷い子」



冬の雪が、太陽の光を吸い込んで
うっとりするような輝きを撒き散らし、解けていく季節。
けれども空は深い青が深遠を呼んで、どこまでも大きく優しく大地を包んでいる。
ただし空気は対称的に、肌がぴりりと引き締まるようなつめたさだった。

水も、まだすぐに手を引っ込めたがる温度である。

領地の一角で、日のあたる井戸の側に召使いの姿が見えた。
ライジアは嫌〜な顔をしながら、顔をぺちぺちと手ですくった水で叩いている。

顔を洗っているつもりらしい。

そして、特に顔を洗うことなどに気をとめてもいない。
たとえば、美人になりたい!とか
ちょっとでもお化粧をして、綺麗に見せたいなどと、
思うことがライジアからは欠如していた。

髪も単にうざったいから短く切っている。
寒いけれども、これが丁度いいと彼女は満足していた。
寝起きの苛立たしさに加え、こんな雪解け水に肌をさらすなんて

「まるで拷問じゃないですかっ!!ムカつく!」

と、ライジアは心のそこで思いながら隣で水桶に水を流し込むフェイティシアを見た。

朝日がきらきらと、綺麗な光の粒子を飛ばして彼女の髪を輝かせている。

金髪ではないが、光に透ける彼女の髪はふうわりと冷たい風に
溶けるように舞った。

まつげが瞳を飾り立てて、長くて。
肌がやんわりと白くて、ちょっとおいしそうな雰囲気をもっているのだ。
雨に濡れた花のようなしっとりとした感覚を思い起こさせる。
ライジアはため息をついてうっとりした。

ーフェイティシアさまがいる朝なら、いつだってゴキゲンだもん。

すでに鼻歌すら歌いだしそうな気分である。

そんな隣でフェイティシアは、さっと水桶を井戸から持ち上げて
慣れた手つきで、台所につながる戸口へと運んでいく。
よろけないか、あの細くて白い腕で無理をしていないか
ついはらはらしてしまい、ライジアは彼女の背に視線を向けた。

ーいつもならこんな仕事、しないのに・・・。どうしたのかな。フェイティシアさま・・・

と、疑問を持って見つめるライジアの表情は少し不安げである。
つい最近、あの酷い熱から解放されたのにと、彼女の体調を不安にも思う。

それより何より、あの白くて綺麗な手が、無残にもあかぎれで
ぼろぼろになってしまわないだろうか、
との恐怖があった。

けれども突然こんな下っ端がやる仕事を手伝うと言い出し、
その表情があまりに深く考え込んで思いつめた様子で、皆断れない。
密かに男女問わず彼女を思っている多くの召使い達は、
その姿にはらはらしながら見守っているしかない。

そんな注目を集めているフェイティシアは、随分と張り切っている様子だったが、
どこかふわふわとしているようにも見えた。

ー何か・・・あったのかしら。たとえばご主人様とかと・・・?

と思うと、なんだか腹立たしくなり、乗り込んでいってエルゼリオを問い詰めたくなってしまう。

「あんたのせいでフェイティシアさまにあかぎれが!!」
「あんたのせいでフェイティシアさまがウツに!!?」
「いいかげん悩ませるのやめなさいよ!」

などと叫びたくなる。
勿論、普通の領主なら

「お前は私と召使いのあかぎれと、どっちが大事なんだ!」

とお叱りのお言葉を飛ばし、ことによるとクビである。

彼女の後姿を見送りそうになって、
ライジアは顔を振って眠気をふりはらうと
「ま、まってください!!フェイティシアさまっ!」
とあわてて走り出し、おもわず足を滑らせて
豪快に転んだ。

「あっ・・・痛あ…。」
すると、桶を置いたフェイティシアが驚いて駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか!?ああ、ほっぺたも…。」

全身雪解けの泥でびしゃびしゃになり、顔も飛んだ泥でまだら模様になり
フェイティシアはくすくす笑って取り出したハンカチで、彼女の顔を拭く。
ちょっと子供っぽい気分になって、照れたライジアは
されるがままにその泥をふきとってもらって、満足した。
彼女のハンカチや、全てがとてもいい香りでいっぱいで、
ライジアはそれがとても好きだった。

「私も昔、そういうことがよくありました。」

と、フェイティシアはしずかに淡々と語り、ライジアは意外な表情で
目をぱちぱちさせた。

「ええっ?そんなこと、信じられませんよっ!」
「でもあったの。ちょっと昔に。」

けれどそう言ったあとで、急に顔を赤らめた彼女を見て、ライジアは
「これは領主様がらみのことかも・・・?」と妙に察しが良くなっている。

「大丈夫。服は着替えればいいし、洗濯係りの方が朝の仕事を始める前に
鍋のなかにいれてしまえばいいから。」
「うえー、わたし、あの鍋嫌いです!洋服をぐつぐつぐつぐつ・・・。
地獄の河みたいなかんじするし・・・。」
「結構たいへんな仕事ですよ。力もいりますし。」

そう言って立ち上がるフェイティシアの微笑みに、ライジアは、
彼女が一体どんな過去を送ってきたのかと、いろいろと想像して楽しんだ。
もっぱら、ご主人様の側の乳母的な仕事ばかりしてきたのではないらしい。

ライジアも立ち上がりながら、フェイティシアのやわらかい手にひかれて
屋敷へと入った。

石が敷き詰められ重ねられた壁や廊下を通り過ぎ、
窓にもガラスのないその場所は、召使いの、
特に庭師や馬舎、洗濯女が『遺跡』と呼んでいる場所である。
もっぱら彼らはそこで仕事をしているが、
ひどく寒い以外には、綺麗な廃墟的雰囲気をかもし出していた。

『お屋敷』の付属品のようにして存在している場所が、
なぜ取り壊されないかというと、教会があるからである。
エルゼリオの祖先は信心深く、この教会を愛して止まなかった。
現在でも、この土地一帯の人々はある種の宗教を信じている。

「あの教会、もとはフェイティシアさまの家のモノなんですよね?」
「え?」

突然の言葉に、フェイティシアは横顔を見せて、目の前にそびえる
古い石造りの建築物を見つめた。

「そう・・ね。でも、私の家はその昔に、ここを治めにやってきた
ご主人様の一族に永遠の隷属を誓った身だから・・・。」

その言葉を聞くと、ライジアはいつも思う。
フェイティシアは案外、身分のあるかたなのではないだろうか・・・と。
つまりは地方豪族だったところを、吸収されただけで、
貴族を名乗ってもおかしくないんじゃないか、と。

けれど、いつもがんばってそう説得したところで、何かが変わるわけではないことも
ライジアは知っていた。

「今は・・・農民でもなければ貴族でもないし・・・ご主人様がいなければ
流浪してしまうようなものなの。」

との返答がいつものことである。

けれどもこの、彼女に漂う気品はちょっと嘘みたいだと思うくらいだ。
あの血の繋がりがある叔父で執事のロイドでも、
こんなに綺麗でふんわりと優しい雰囲気をもってはいない。

だからライジアはいつも、
ーフェイティシアさまがなんで貴族じゃないのかしら。
 フェイティシアさまが貴族じゃないなら、ほかの貴族なんてホンモノじゃないっ!
などと、妙な想像力を働かせて、頬をふくらませてしまう。

反面、フェイティシアさまが召使いで自分も誇り高い気分もして、
複雑になるのだった。







「あんた!何しにまたこんなとこ・・・まあまあ、きちゃったんだからいいか。
食べる?お菓子だよ、隣のジムんとこの息子が、ちょっとはぶりが良くなってねえ。
なんだかくれたんだよ。異国の・・・なんだかむつかしい名前の菓子でさあ。
名前なんかわかんなくたって、おいしけりゃいいんだわ。あっはっは。」

洗濯女のガタイと威勢のよさに、ライジアは押され気味になったが
菓子とあらば手を出さないわけにもいかず、まんまと3口ほどせしめた。
フェイティシアと顔見知りらしいこの仕事場の人々は、

「やだよお、ちょっと顔が疲れてるんじゃないのかい?」
「いろいろむつかしいこと、無理にさせられてるんじゃないのかい?」
「眠らされないほど働かせられてないのかね?」

などと言葉攻めを決行し、フェイティシアの口を挟ませない。

なお、ライジアの
「最近大変なお風邪をひかれて・・・」
との一言で、さらにエスカレートしたおばさんたちは
ちゃっかりフェイティシアを座らせて、何もさせないことに成功した。

ひとり、粗雑な木の椅子に腰を下ろし、その場の雰囲気に溶け込んでいるようで
けれども澄んだ空気をまわりに放つフェイティシアは、
ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめている。

ライジアは豪快に服を脱ぎ、洗ってもらっている間に仮の服を借りた。

途中、窓の外を横切る農民の青年達にその様子を見られて
「よっ、見慣れねえ美人さんが朝っぱらからストリップときた!」
などと口笛を吹かれたりしたが、妙に楽しかった。

青年達は馬舎の馬達の管理をしていて、フェイティシアを見ると
「おっ!フェイティシアさんっっ!!」
と、急に顔を赤らめたりする。
「態度がちがうじゃないのよ。」
と、ライジアはちょっと不機嫌になったりして、けれどフェイティシアを見れば
誰だってそれが必然で、嬉しくもある。

「結婚してください。」

などと大それたことは言えないけれど、
側で見ているだけでも・・・
と思っている青年達のこころが、ちょっとわかったりしてしまうライジアだった。

対するフェイティシアはというと、ちょっとそわそわしている。

仕事をしていないと、仕事がないと、自分は一体なんなんだろう。

そんな不安もある。

けれども、若く日々が楽しく毎日が新鮮に思えるライジアに
仕事以外の苦痛は存在せず、フェイティシアの心も察することはできない。

「あのこはいつも、そうなんだよねえ。」

と、洗濯おばちゃん達は可哀想な目で見つめるのを、ライジアは横で見ていた。
どうしてか、いつも居場所がふわふわして、召使いでありながら何かが違う。
そんなフェイティシアの雰囲気を、彼らは察知しているのかもしれなかった。

当の本人はといえば、ただ微かに微笑み受け答えをしつつ、
時々窓の外を眺めていた。


この場所には、昔よく来た。

エルゼリオが幼いころには、彼女もまた成長が未発達な少女時代といえた。
彼女の仕事に対する覚えは悪くなかったが、
決してよい教え方をする召使いが多くいるともかぎらなかった、少女のころ。

自分の農民でもなく、しかし貴族でもないあいまいな身分に、
彼女は居場所をなくしていた。
ただ、泣いている可愛い子供をほおっておけない優しい人たちのお陰で
彼女はこの洗濯部屋に時々、涙を流しに来る場所を得た。

誰かの愚痴をいうこともなく、ただ静かにそこにいた。

いつも、窓の外には空があり、時として移り変わる青や雲の流れを
耳を済ませるように見つめていた。

しばらくそんな時代がつづいて、彼女はいつしかエルゼリオの側で働くことになっていた。

時々、召使い達の仕事場に訪れた幼いエルゼリオの目的は、
本当はフェイティシアを探すためだったのだけれど、
親しみやすい人懐っこさがある彼は、召使い達と話をし、彼女の手を引いて
「案内してよ」とせがんだ。

フェイティシアには手を引かれていく、過去の自分が窓の外に見えた気がした。

けれども、目を閉じて握りしめた両手を荒削りの木製の机に置いてみると、
今という時が、もうあの懐かしい過去ではないことを改めて感じる。

エルゼリオとの関係は、変わった。

どうしようもない身分差でありながら、心が近づいている。
そして自分も、心の奥底に閉まっていたものを、あの熱で彼に見つけられてしまった。

彼は、何も教えてくれないけれど。

風邪が治った朝の出来事から、まだ一日しか経っていない。
エルゼリオは相変わらず、熱があったとき彼女が何をしたのか、
聞いても教えてくれずに、ただいたずらっぽく微笑んではぐらかす。

察しはついている。

けれども、そうであってほしくないと、彼女は願った。
全てが、あってはならないことだった。
涙が出そうだった。
泣きたかった。

「・・・?大丈夫ですか?フェイティシアさま。」

ライジアが顔を覗き込んで、目ざとく涙を見つける前に彼女は
ため息をつくように疲れた微笑を見せた。

「すこし・・・休んで、かえって疲れてしまったみたい。」

何も考えないために、身体を動かしていたかったのだけれど。
ライジアはすこし頭を傾けて、やっぱりつかれているのかな?と心配した。
彼女とエルゼリオの間に、もつれた糸のようなものがあるのを、見つけることはない。


それから暫く話がはずみ始めて間もない頃、
突然大声で乗り込んできたのは、召使いの一人だった。

「こらっ!!ライジア!何をしてるの・・・ああ、まさか・・・あなたまで、フェイティシア。」

フェイティシアと並び屋敷内の清掃を専門にする、召使いのまとめ役であるナイルである。
きりりとした美人で、棘がありそうな雰囲気の、前髪をわけた黒髪のボブの女性であり、
ライジアの「飼い主」的な威圧感を放っている存在だった。
フェイティシアの先輩でもあるらしい。

「ライジアっ!貴方フェイティシアをこんなところに連れ込んで、
あまつさえ井戸の側に桶を置いてくるなんて・・・!」

そしてくるりと向き直ると、フェイティシアのそばにきりきりした雰囲気で歩み寄った。

「ごめんなさい、ナイルさま。ライジアの服が汚れたので・・・。」

との言葉も言うか言わないかの間に、すっかりナイルの雰囲気はゆるーくなってしまった。
今しも溶けてしまいそうにうっとりした笑顔である。

もっぱら彼女が一番、この屋敷の召使いの中でフェイティシアに心酔しているのでは?
とライジアは自分のお株を奪われたような気分になる。
誰だって、彼女の一番のファンでありたい。
そう口には出さないが、皆そう思っているとライジアは推察している。

「ああーっ、いいのよ。フェイティシア。貴女が謝ることないの。
それよりご主人様がお呼びでしたわよ。」

無意識にフェイティシアの髪に手で触れ始め、そろそろ頬ずりしそうな危機感を感じ取り
ライジアはフェイティシアを魔手から逃がすことにした。

「だったら早くいかないと!フェイティシアさま!!私はいいですから、急いでください!」

「ちっ」と舌打ちをしたナイルと火花を散らし、ライジアはフェイティシアを見送った。
勿論、ご主人さまの側に行くことも、ライジアにとっては危機なことに代わりはない。

洗濯部屋では、そのあと、女達の笑い声とキイキイ怒鳴り声をあげてケンカしはじめた二人を見て、
密かに部屋をでる青年達の姿が見られた。







「エルゼリオさま。どうか、なされましたか?」
「うん?」

自室にて朝食をとっていたエルゼリオに、執事のロイドはそっと、問いかけていた。

広間での豪奢な朝食を好まず、彼はいつも自室でそれを済ませる。
小さな円形テーブルに椅子が、窓の側にきちんと置いてあり、
花が一輪そえてある。
側で、花瓶と同じ製品にそろえた銀器が、朝日を浴びてちらちら輝いて、
見事に晴れた青空に雲が漂っている、
彼には特に変わったことのないいつもの朝だった。

「なにも?なにか、変わった??」
「いえ。」

たとえば、彼の雰囲気一つからでも、執事は執拗に見て探ることが出来る。
楽しそう、苦しそう、哀しそう。
強いて言うなら、今日の彼は「楽しそう」であった。
それも昨日から始まっている。
昨日といえば、フェイティシアの部屋で一夜を過ごした日であった。

何かがあったと推測はできる。
ただ、何があったかはわからない。

「フェイティシアは、今日はここにはいないんだね。」

特に感情を出さず、その名を口にするエルゼリオは
さもその名を気にも留めていない風情で、言葉にするが、
内心はどこへ行ったのか、不安である。

ロイドには彼の「内心」がわからない。

むしろ「フェイティシア」という名を出されて、驚いた。
焦って彼は、「はい。」と答えたが声がくぐもって聞こえた。

エルゼリオは無表情を装ったが、窓の外を眺めながら違和感を感じる。
執事の彼に、すこしばかりの疑惑を覚えた。

「・・・ん?いないんだ。フェイティシア。」
「はい。今日は何やら、清掃の手伝いをするとかで、朝早くから仕事をしております。」

さすがに二言目には冷静を取り戻したロイドだったが、
フェイティシアの名を意図的に口にしたエルゼリオは、警戒心を怠らなかった。
ナイフとフォークを持ちながら、朝食に手を伸ばす。
それもあくまで、いつもどおりに、である。

「清掃?風邪をひいていたのに、また無理をしてるんじゃないのか?」

その言葉に、ロイドは好機をすかさず見出していた。

「私もそう思うのですが、いかがでしょう。エルゼリオさま。」
「・・・なに?」

珍しく自分の意見を口にしそうな執事の彼に、エルゼリオは何やら
新鮮な感覚を覚えた。
そして、勿論微かないぶかしさも・・・。
しかし、ロイドのいつもながらの無表情に変わったところはなく、
視線を朝食に落としたエルゼリオは、彼の次の言葉を待った。

「フェイティシアに休みをいただけませんでしょうか?」

「・・・休み?」

エルゼリオは顔を上げて、しばらく部屋の隅を眺めていた。
「休み」である。
確かに、召使いの彼女は仕事をし、毎日が仕事であり、変わることなく現在まで続けている。
考えてみれば、無理をしたのも仕事のせいであるかもしれないし、
それが彼女の身体に負担をかけているとすれば、彼にとっても良いとは言えない。

彼もまた、彼女の「召使い」という身分を気にしていた時だった。

昨日の朝、その関係を改めて認識したエルゼリオに、
「休み」を与えることで彼女が、召使いという地位を一時でも失い、
彼や周りにとって、特別な地位になるように思えてきたのも無理は無かった。

「いいよ。風邪もひどくしたし、たまには休むべきかもな。
他の召使いにも、そういう休みは与えよう。勿論、ロイドにも。」

と、あえて普通に答えて微笑み、朝食を食べ始める。

「ありがとうございます。血の繋がりが薄いとはいえ、
叔父としても姪の身体が心配でして。」

とは、さまざまな意味を含んでの答えである。

疑いたくはないが、主人と召使いの過ちが生じる前に手を打たねばならない。
ロイドは微かに眉をひそめて、目を閉じると、少し息を吸い込んで
通常の業務に戻った。

「ロイド、今日は出かけなければいけないんだ。
メルビル子爵城。馬車の用意をしてくれ。午後には経つ。」
「かしこまりました。」

執事の彼は、丁重にお辞儀をすると、彼の部屋を出た。
途端、ため息をつく。
了解は得た。
姪のため、これからが彼の地位と力の見せ所である。

彼は召使いたちに、仕事の内容を伝達すると、自室に戻り手紙をしたためることから始めた。
それは、古い彼の血筋にあったある約束事を、再び呼び起こす発端となる手紙であった。







フェイティシアがエルゼリオの部屋に戻ったのは、
昼食を過ぎた時間だった。

「どこ、いってたの?フェイティシア。」

と、クローゼットのある部屋で窓から差し込む昼に近い日の光を浴びながら、
美しい金髪の男は微笑んだ。

「ええ。少し・・・。」

と俯きがちに彼女は、意図しない甘い声でつぶやく。
そっとたたずむ様も、たとえ影に立ちすくんでいたとしても、
彼女という存在は、見るものに、はかない美しさを呼び起こさせる。

たとえば散る花や、崩れそうな輝きを持つ宝石のような・・・。

そんな宝箱に入れておきたくなるひとを、彼は召使いとしてずっと
側においていた。
子供のころから、ずっと気にしてきた。

召使いも他にはいない。
勿論彼は、呼びにやるつもりもない。

「入ったら?そんなところにいて。」

戸口に立ったままの彼女のそばに、一歩一歩近づいていくと、
彼女の顔がその都度赤く染まっていくように見えた。
引き寄せて、部屋に入れるとすかさず扉を閉めて鍵をかけてしまう。

それからいたずらっぽく

「昨日の朝のつづき?する?」

と言うから、彼女は酷く顔を紅くして頭を横に振り、彼に背を向けて
ふわふわといい香りを含んだ髪がゆれた。
涙がにじみ光を増した瞳が、睫の影に隠れて潤んでいる。

ずっと歩きつつ、仕事を、場所を変えながら彼女は悩んでいた。

この関係が、変わることがないのだろうか。
変える術はないのだろうか。
昔には、もどれないのだろうか。

全て、叶わない願いだった。

彼女が持たない大きな力が、必要だった。
全てを巻き込んでしまえるような、力である。

しかし、召使いである彼女がそのような術を持つことはなく、
今部屋にいて、主人である彼に従っていた。

いつにも増して、感情を押し込めた様子のフェイティシアを眺めながら、
エルゼリオはそっと様子を見て近づく。

案の定、避けるように離れた。

露骨に避けられるのも慣れはしたものの、やはりいい気分とは言えない。
昨日の一件から、彼の前に立つと泣き出しそうになるフェイティシアは
ある意味で素直に感情を表すのだけれど、
傷つけてしまった原因は彼にあって、その部分だけは繕いようがないし、
勿論意図的に苛めたともいえる。

無理に唇を重ね奪って、追い詰めた。


「・・・私、やっぱり・・・あの熱の時に・・・。」

と、フェイティシアは思い切って尋ねるが、「なんのこと?」と問われて
口にできずに思いとどまった。

彼女は、自分の曖昧な過去を確認したいという気持ちでいっぱいだった。

主人に唇を強引に重ねた召使い、とはたとえ意識の曖昧であった状態とはいえ
あるまじき行為を行った存在である。
できれば信じたくない。
たとえ、微かに記憶に残っていることでも、
できることなら抹消したい記憶だった。

彼を心の底で想っている。

それは、許される。

けれど、決して形にしたり行為にしたりしてはならないのだ。



しかし尋ねるには恥ずかしすぎて、いつも言葉に出来なかった。


困った表情で頬が真っ赤に染まるフェイティシアに、エルゼリオは微笑んだ。
ずっと抱きしめていたい気分にかられてしまう。
どうしようか迷っている彼女の手を引いてやりたくなる。
それは、今も昔も変わらない。

「今日は随分、避けられたからな。」

と、彼はため息をつくと側のソファに横になった。
それに対し返す言葉が彼女にはない。

「外に出てきたんだって?清掃の・・・。」
「・・・はい。洗濯部屋にお邪魔して、色々な方とお話をしてきました。」
「ふうん。」

エルゼリオは平静を装いながら、「色々な方」とは一体どんな奴らなのか
考えをめぐらした。
洗濯部屋といえば、馬舎にいる男達も通るし時々男性の召使いたちも
服が汚れればそれを持って、歩いていくような気軽な場所である。
そして時々、色々な情報を交し合い、時には主人の振る舞いや
姿について批評を交わしたりする。

あるいは、誰かの恋の話とか。
もしかしたら、彼女に告白する若者もいるかもしれない。
昔、彼女とその近くにいて、そういう事態に直面したこともあった。

ちらりと彼女を横目で見ると、いたって普通に彼が着るべき盛装を
クローゼットから取り出している。

「今日はお出かけになられるのですね。」

と、服にブラシをかけ埃をとりながら、そばにある大理石の机に丁寧に置いた。
いつもどおりの態度で、動揺も赤い頬ももう見られない。

エルゼリオはゆっくりと身を起こした。

「そうなんだ。フェイティシア。」
「はい。では・・・。」

いつも服を用意して退出するフェイティシアに、エルゼリオの次の一言が待っていた。

「脱がせてよ。服。」
「・・え?」

戸口に立って振り向くと、もうすぐ側に彼が立っていた。
扉に両手をついて、その間に彼女を捕らえこむ。
そして念を押すように、もう一度

「脱がせて。早く。」

と低く声を発した。
その表情には、いたずらっぽい笑みは見えず、
彼女の頬が、再び赤く染まっていく。

エルゼリオは顔を近づけて目を細めながら、その様子を見つめた。

誰か別な男が彼女にはいるのだろうか、なんて
今まで考えたことも無かった。
勿論、ずっとそばにフェイティシアはいたし、変わることはなかった。

けれども、彼がこの館にいなかった間はどうなのだろう。

唇を彼女の顔に触れるくらいまで近づけると、彼はいっそう押し殺したような
深く低い声でフェイティシアに囁いた。

「手を動かさないと、脱がせることはできないだろ?」

その態度に、幼少のエルゼリオの面影はない。
堂々とした威圧感は完全に、成熟した男が放つものだ。

「早くしないと、遅れる。」

躊躇いがちに目を伏せていた彼女は、少しばかり焦って
彼の服に手をかけた。


とたん、エルゼリオは、それが合図だったように彼女の唇を強引に奪った。


細いうめきが彼女の口から漏れる。
しかし、その甘い声も押しつぶして
決して誰にも聞かせないように、エルゼリオはゆっくりと舌を絡めた。

この唇の柔らかな感触も、自分だけのものにしたい。
誰かに渡すなど、考えられないことだ。
その唇が紡ぐ優しい声が、誰かの耳を憩わせ、優しく問いかけ、あるいは答える。
そんなことでも、彼にとっては酷く不快なことに感じられた。

しばらくして、唇が離されても、彼は一向に彼女から離れる気配はなかった。
ただ捕らえたままで、唇の距離も側で互いの息を感じられるほど近い。

「・・・まだ脱がせてくれないの?」

と、エルゼリオはそっと囁いて、彼女の瞼に唇を這わせた。
彼女の手が、彼のシャツを握り締めたまま動かないのは、彼のせいでもある。
フェイティシアは、瞼から移動した頬、そして首筋を軽く愛撫されながら
一体どうしていいのかわからずに
身体を火照らせた。

真昼の陽の光に、部屋がまどろむように暖かい。

その中に溶けてしまいそうな感覚がある。

そこには、召使いや主人といった地位はない別世界のようにも思われた。

「脱がし方、知らないの?」
とエルゼリオはけしかけて、挑発的に耳元で問いかける。
「・・しって、ます!」
と彼女はむきになって、すこし泣きそうに答えた。

彼の真っ白なシャツのボタンに手をかけると、
楽しそうに彼の唇や舌が彼女の首筋を這って、
彼女の手をこわばらせる。
お陰でなかなかボタンを外せない。
勿論彼は、そうなることを知っている。
すっかり彼のいたずらのペースにはまってしまったフェイティシアがいた。

やっと全てのボタンを外し終えると、
思わずフェイティシアは息を呑んだ。

例えば、鳥は空を飛ぶ。その美しさは翼があり、人には翼がないからでもある。
すべてのものには、一つ一つ違いがあり、美しさがある。
それは、男と女の骨格から筋肉までの細かな違いにも見られることだ。

エルゼリオの身体が、幼少期の骨格とは全くことなっていること、
すっかり一人の男性として、引き締まった身体を持っていることに、
たった今気づいた彼女は、自分の愚かさを知った。

部分的には感じ取ることが出来た。

例えば、湯に浸す朝の足の形だとか、腕に時々見られる筋肉の深い溝に落とされた影、
子供のころにない大きくて長い指をもった手。
顔は大人びているのは明白だったが、浴室に同伴して湯に浸かる彼でも見なければ、
はだけた胸をみることもない。

改めて、顔を赤らめた彼女は、自分を捕らえてドアに突いた両手を、
下げさせなければならなかった。

「エルゼリオさま・・・腕を。」

しかし、そんなつもりのないエルゼリオは、再び唇を奪おうとした。
もう何も言わせない魂胆らしい。
けれどもフェイティシアは、すかさず両手で自分の唇を塞いだ。

「・・・もう・・・だめ、です。」

そう言って、かすかに怯える小動物のようにしているから、
かえって襲いたくなる。
けれども少し可哀想になって、エルゼリオは両手を下ろした。
フェイティシアは安堵とともに、早速シャツを両腕から脱がすことにする。

しかし、そんなことで彼の強引ないたずらが、終わったわけではない。

「じゃあ・・・。」

というと、エルゼリオは彼女の服に手をかけた。
フェイティシアは慌てたが、エルゼリオの軽い愛撫に顔を近づけられ
目線も曖昧になる。

「・・遊ばないで・・くださ・・。」

と、途切れ途切れの言葉しか言えないのは、彼が唇を奪うせいだ。

「いつも俺は真剣だったけど?フェイティシアがはぐらかすから・・・。」

と、エルゼリオはくすくす笑ってやっと彼女を解放した。
彼は見事な上半身をさらして、彼女の前に立っていた。
しばらく頭がぼおっとし、見とれていたフェイティシアは「いけない!」と気づき、
素早く彼に盛装用の上着を羽織らせる。

風邪をひいてしまったら、大変だといわんばかりに慌てて、
彼女も自分の首のまわりにあった装飾用のリボンや、前のボタンが外れていることも
すっかり忘れていた。
豊かな胸が、ちらちらと覗いている。
それをエルゼリオは、少し楽しげに見つめていた。

盛装のボタンをつけ終わると、彼女はやっとため息をついて
再び彼の姿を見つめた。

がっしりとした身体だったが、決して無駄な筋肉はついていない。
むしろそう見えるのは、この盛装着の角ばった形のせいだろう。
美しいボタンの装飾に加えて、細かな宝石を編みこんだ細工が
曲線を描いて輝いている。

貴族というに相応しいいでたちだった。

そして、引き締まって堂々とした面持ちは、
時にうっとおしくなるような青年特有の爽やかさではなく、
すでにどこか真理をついた深みを漂わせている。
とおった鼻筋や、長いまつげの下に隠れた新緑の瞳は、
宝石であってもおかしくないと思わせるほど、特有の雰囲気をもってそこにあった。
それを隠すように、金の前髪が被さって、
全てがかっちりと収まった美しさがある。

今まで彼が、自分に触れていたなんて、嘘みたいな姿だ、と彼女はふと思い
ついちいさく「ごめんなさい。」と謝った。

涙が出そうだった。

勿論、彼が幼いころからずっと側にいた人間としての涙でもある。
これほどの成長を遂げた彼に送る涙。

そして自分のような地位もない召使いが、彼のそばにいて
彼に言葉をかけられ、彼が告白した存在であるという後ろめたさだった。

彼女は、ふと溢れる涙を抑えきれずに、指でそっとぬぐうと
彼に背を向けて窓から差し込む光の側へ、
迷い子が道しるべを見出したように歩いた。

「どうか、した?」

と、エルゼリオには彼女の気持ちが理解できずに問う。
すこしして、「なんでも・・。」と漏らした彼女に、
エルゼリオは内心胸をなでおろした。

「フェイティシア。ボタンとこれが外れてる。」

そう言ってエルゼリオは、自分でいたずらに外した首を装飾しているリボンをひろい、
陽のあたるほうへと足を運んだ。
「!いいです!!自分でしますから!」
と焦る彼女に、有無を言わさず背後にまわる。

「・・・その前にもう一度。」

と、彼女の首筋に唇を這わせると、彼女が何か言い出す前に
さっさとそれを取り付けた。

黙ってフェイティシアは一点を見つめていた。

もう、互いに互いの気持ちは理解していた。
彼も、熱があったときの彼女の行動について、
彼女に伝えることを躊躇うつもりもなくなっていた。

背後から抱きしめられても、
この部屋にいる間は召使いとしての自分を忘れることができる。
フェイティシアにはそんな風に思えた。

「・・・もう、わかってるよね。」
と、耳元で囁いてエルゼリオは彼女を逃すまいとして、腕で身体を絡めた。

「フェイティシアが誰を好きなのか、知ってる・・・。」

彼女の首の辺りに顔を埋めて、囁くことをやめない。

「あの日、熱のあるときに、そばにいた奴だろう?」
そして後にこう付け加えた。

「そいつの唇を奪ってこういったんだ。『そばにいて。』」



その時、はっきりとフェイティシアはぼんやりとしたものが一挙に晴れていくのを感じた。



振り返ると、彼はただ酷く優しく微笑んでいた。
そして一言、

「覚えていないなんて

 酷いひとだね。」


そう言った。


自然と彼女の頬を、涙が流れた。

そしてもう誰も止める者のいない、この小さな部屋で
二人は
はじめて互いの意志で、

唇を重ねた。



しかし、離された彼女の唇から漏れた言葉は、
「すきです。」でも「愛しています。」でもなく

「ごめんなさい。」
だった。

それは何に対しての謝罪だっただろうか。
答えられない思いか、あるいは自らがついた嘘への謝罪か、
熱に惑った日に見せた、
あってはならない行為のためか。

彼女は、抱きしめられた腕の中でひっそりと泣きながら
その言葉を繰り返した。

そうするしかできなかった。

真昼の陽の光は薄くなり、やがて夕日の刹那色に染まり始めた小さな部屋で、
二人はそのままよりそい、たたずんでいた。







「では、行ってくる。」

と、雄雄しい風情で馬車に乗り込む彼を、
執事とフェイティシアは見送った。

二人の間になにか特異な雰囲気が漂っていることを、
感じ取っているのはライジアと執事しかいない。
その雰囲気には、どこか密かで甘やかな睦言の片鱗が隠されているようにも思われる。

去っていく馬車のを見送って、執事のロイドは
今日進め終わった手続きをしめる重要事を
隣にたたずむ美しい姪に、了解してもらわねばならなかった。
しかし、あくまで普通にポーカーフェイスを崩さず、
彼は彼女に言った。

「フェイティシア、今日の朝、ご主人様には了解をいただいた。
しばらく休みをいただけるそうだ。風邪の件もあったからな。」
「そうなのですか?」
「そこで、しばらくこの領地を離れ、私と昔より縁のある人物が住む場所へ
一度足を運んでくれまいか。私はこのように、少しばかり忙しい身なのでな。」
「・・・どこなのですか?」

執事は一度、深く息を吸い込むとその国の名を口にした。

フェイティシアは、微かに足元が揺らいだような気がした。

その国の名はアルデリア。
つい先頃、隣国との戦争に中立から敵国として名を挙げた国の名であり、
彼女が子供のころから何度も聞いていた国名だった。

彼女の周りの人間は、皆こういった。

『お前はそのうちにアルデリアのある人物のもとへ、嫁ぐことになるだろう。』

それは、言うなれば結婚を促す言葉であった。




へつづく

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