「双つの道2」




鳥を見ていた。


いつも、決して見ていないわけではなかった。

空の青さ。
そのなかを、翼の力だけで駆け抜けていく
つかめもしない空気に
風だけを頼りに羽ばたいていく、
あの鳥は、
一体何を考えて飛んでいるのだろうか。

それとも、何も考えていないのだろうか。



・・・空は、青いということだけは知っているかもしれない。


と、フェイティシアは思った。
青い、という風に鳥の瞳は見えているのか、
それもわからないけれど・・・。



しかし、窓越しだからわたしの目にも、
空は少し曇っても見えるのかしら。



とフェイティシアはちらりと考えた。


そして、息を大きく吸い込むと、
ゆっくりと吐き出した。


少し湿気を含んだこの部屋の空気は、
洗濯釜の蒸気の香りだ。

鼻孔を占領してしまう、強い香りは
洗濯物にしみこんだ
汗だとか、泥のにおいを消すための香りでもある。
太陽の陽に透かして洗濯をすると、
とても豊かな香りになる。

この土地の、澄んだ空気のためだとも思える。


フェイティシアはふと、空を飛ぶ鳥の姿がなくなったことに気づいて、
自分の思考がぼんやりとさまよっていることを感じた。

座って、何もしないでいるとそんなことばかりが
頭の中を占領してしまうのだ。
仕事をしていたい。
そうすれば、仕事以外のことは、考えていられなくなるはずだった。


けれども今、

「仕事以外のこと」を、必ず考えねばならないことに、
彼女は苦痛を感じていた。


望まない、突然の婚約。



自分の知らない場所で、勝手に物事が進んでいることへの、不安。
だが、育ての親ともいえる叔父ロイドに逆らうことは、
彼女には、ひどく困難なことに思われた。


フェイティシアは子供のころから、
一般的に
親がもつ愛情や
一般的と言われる育て方で
育てられたわけではなかった。

物心ついた頃から、親と言う存在が希薄だった彼女には、
いまいち「親の愛情」、というものに
実感がない。


彼女は、それでも叔父からの愛情を信じて疑ってはいない。



ただ、少し何かが違う、とはいくらか思うこともあった。




たとえば、他の耕作人や召使いたちの家族について聞くとき、
何か自分とは違った生活をしているような気がした。

毎日の夕食に話をする内容、
その話を聞く相手である家族。

そんな関係を見知ったのは、
耕作人たちの家に呼ばれたときからだった。
こどもたちは、
毎日楽しそうに、今日の出来事を語る。
父親に、母親に、祖父に祖母。
時には、叔父、叔母と言った具合だ。


自分は、というと・・・。


幼少時に、まだ召使いにならないころの記憶が、
彼女には曖昧にしか思い出されない。

しかし、確か彼女の周りにいたのは、
母ではなく、父でもなく、ただ聖職者、
おそらくサハシュ信仰の厚い山岳民であった。

食事は、聖職者の一人で、
神官でもあった男性と食べていた。
銀色の、
輝くような長い髪をした青年だった気がする。

そういった役割の神官は複数いた。
叔父のときもあったが、それはもっと後のことだ。


白い、清潔に表れた汚れのない絹の布を身にまとった聖職者達。

空気にナイフを滑らせるような音を立てる
それらの布は、
彼女の服にも使用されていた。

黙って、彼らは彼女の前に頭を垂れた。


それが普通だったのか?と問われれば、
今は「違う」と答えることができるだろう。


一度だけ彼女は、その状況がなんであったのか、
叔父に問うた。
叔父は、少し目を細めてから
山岳民には誰か子供を選び、
特別に祭り上げる風習があるから、
とだけ答えた。

フェイティシアはその点を、後になって疑わしいと感じた。

けれどもそれ以上、問いはしなかった。
人には事情がある。


彼女の前で頭を垂れた聖職者達のなかで、
フェイティシアには
どうしても思い出せない人物が複数いた。


いつも、悩みを抱えてぼんやりと過ごすと、
顔の思い出せない彼らのことを、考えていた。


今もそうだ。


フェイティシアはぼんやりと、窓の外を眺めながら思い出していた。
しかし、思い出そうとすればするほど、
何か恐怖心のようなものが彼女を支配してしまい、
どうしても、そのことは思い出されなかった。


ぱちり、

と洗濯釜の下で燃える薪が小さく爆ぜた。
それとともに、フェイティシアの心はひどく震えた。



炎・・・。




何か、思い出しそう・・・。

収穫祭の夜にも、たしか・・・。
と彼女はこめかみに、細い指をあてる。

瞳を閉じる。
しかし、思い出されることはなかった。


それから、よくよく思い出せる記憶は、
たしか初めて叔父が、彼女の頭をなでてくれたということだった。

なぜ、その思い出が強烈に思い出されるのかは、
おそらくほかの子供が、親にそうされるように
彼女もまた、叔父にそうされたかったからだ。

そのとき初めて、叔父が自分を「こわがらず」、
あるいは「さけたりせず」に
思ってくれたことがわかったからだ。



うれしかった。




その後も、彼女は多くの人々から
どこか避けられていた。
あるいは、強烈に慕われた。

しかしどちらにせよ、
彼女は何かに巻き込まれていた。
あるいは、巻き込んでいるのかもしれなかった。


一般的、というものがどういうものか、
彼女の推測と基準でしかない、「普通」は
どうやら自分は「そうではない状況」に居るらしい、
ということだけを証明した。


けれどもそのたびに、叔父は手を差し伸べてくれた。
それが、エルゼリオがもつ優しさとは別の、
少し遠まわしな優しさであったことも、
十分理解していた。

彼の優しさは、酷く見えにくかったが、
それでもうれしかった。

それは、いつかの彼女の頭をなでた
大きな手のあたたかさに似ていた。


しかし・・・。


彼女は、再び空のあてども無い青色を、
窓越しに見つめた。



きっと・・・。
この前の風邪で・・・。


彼女は、そのときのことを思い出し思わず赤面した。

首筋に手を当てる。
かすかに、火照っているように感じた。
自分の脈が、大きく打っていることが
指先から感じられた。


「あとをつけられた」場所だった。




エルゼリオの、唇の感触が、酷く鮮明に思い出された。


唇が乾く。
そして、自分の唇に触れた彼の唇の感触だとか、
さまざまに乱れた言葉の切れ端が、
頭の中から勢いよく、あふれ出してきたようだった。


恥ずかしい。
はずかしい。



そして思い当たる、叔父の態度からの想像・・・。

彼女は目を見開いたが、
何も見えなくなったような気がした。



・・・エルゼリオさまとのことを、知ったのかもしれない・・・。



そう思うと酷く胸の奥が締め付けられるような、
息がしにくくなりそうなほどの苦しさを感じた。

どうすればいいのか、わからなくなった。


けれども、どうしようもないことも理解しており、
今の状態ではさらに、
どうにもならないことも、わかっていた。


自分は、主人に隷属する身である。



それ以外の立場があってはならないのだ。
絶対に、ひとつとして、間違うことなく。


しかし今、その立場は叔父の手によって
もろくも崩れ去ろうとしている。




この土地から離れ、
隷属の誓いも、すべてを放棄し、
誰か知らぬ顔の、見知らぬ土地の言葉とともに、
これからの時をともに過ごす相手として、
認めろと、叔父は言っているのだ。





エルゼリオ、叔父、そして見たことも無い婚約者。



今のままでは、いけない・・・。



それだけが、
焦りとともに彼女の中にあった。









「・・・わかったわよ。壮大な事件が多発中なのよね。」

と、ララは半ば放棄したように、あさっての方向を見つめて
それから酷く適当な返事をした。
それを見てナイルは、射殺さんばかりのまなざしを送る。

ナイルにとっては重大な問題なのである。
それどころか、人生賭けねばならないほどの局面であることは
疑いようが無い。
(それは当然、国家の動きがどうとかではなく、
フェイティシアが自分のそばからいなくなる、という危惧からきているようだが)

思わず口をすべらせた。

「あんた、なにもわかっちゃいないわね。おばさん!!」

早くも戦場となる予感である。
ライジアはびくびくしながら、対するララの反応を見た。
彼女はおそらくすでに四十に近い年齢である。
世間の荒波にもまれ、
二十代小娘の言葉のひとつやふたつ、
軽く受け流してもよさそうな年である。

しかしながら、ララのコメカミに青筋が浮き出たとき、
何かが切って落とされたな、と
ライジアは思わず頭を抱えた。

第一声はこうである。

「・・・おばさん??あんた私を幾つと思ってんの!
永遠の十八歳よ!!酒と男の力舐めんじゃないわよ!」


もはや年齢も、酒と男で超越したと思い込む四十代であった。

しかし、ナイルも押しでは負けていない。

「フェイティシアが婚約するっていってんのよ。
あさってにはいなくなるかもしれないのよ?
この土地に・・・いや、それはいいわ。
そんなことはいいのよ。
でも私から離す訳にはいかないわよ!!」

それはむしろ、フェイティシアの心配と言うより、自分の心配である。


「馬鹿じゃないの?
女神さまにだって、男を選ぶ権利くらいあるわよ!
あんたのことじゃないわよ。国家だとか国の問題でもないのよっ。
あのひとの人生の問題だっていってんのよ!

女神様には酒と男を味わう権利があるのよ!!」

それはむしろ、フェイティシアを堕落へ導きそうな誘い文句である。



ぎゃーぎゃーと騒がしくなると、洗濯釜から洗濯物を出して、
かごに入れたおばさんは、そばで呆然とするライジアに
「あんた、入んないの?今あのあたりは、20代的な熱気で真っ盛りなのに。」
と笑って肩を押す。

「ま、真っ盛りって・・・ああいうのは『血祭り』っていうか、ち、『血みどろ』?
と、ともかくああいう妙な儀式で若返るつもりは
・・・っていうか、私まだ16ですし・・。」

と、珍しくライジアが小さくなっていると、
戦線からの爆音?が急に途絶えた。
あれっ?と思い
ライジアがそっとそちらを向くと、


「そこの小娘え〜。」

と脅し文句か呪いのような声が響き渡り、
ライジアは怯え、洗濯おばさんの後ろに隠れるしかなかった。


どうやら16歳という年齢におかんむりな二名である。
いまや戦地は他方にも拡大しつつ進行中である。


「いや〜!いや〜!!フェイティシア様〜!!」

思わず白い旗がわりにエプロンを振ってしまう。
怯えつつも助けを求めるライジアは、
フェイティシアが座っていた窓際に眼をやった。


が、いない。



そして振り向いたすぐ後に、
フェイティシアが立っていたことを知ると、
ライジアは驚いて思わずしりもちをついた。




両手を突いた石の床が冷たい、
と感じる前に、
ライジアの頬はぴりぴりとした空気を感じていた。



フェイティシアの髪が光に透けて、酷く綺麗に見える。
それはいつものことだったが、
こんなにも、奇妙な雰囲気を味合わされたことは無かった。


空気が、硬質であるように思えた。
少しだけ、息苦しい気がした。


「ふぇ、どうしたのフェイティシア?」
「女神さま?なんか・・・ちょっと雰囲気が・・・」


ライジアを含めた戦場は、一挙に終息へと向かったが、
空気は異様にぴりぴりと、緊張させるものがある。



彼女の美しさは、どんなときでも変わらない。



柔らかな髪になびく、光の波紋だとか、
蜜色に輝く瞳。宝石を砕いたような色の唇。
きめこまかな白い深雪の肌。
豊かで丸みを帯びた曲線の艶やかさが、
服の上からの肢体にも見える。




けれども何か、あせってしまう。





まるでその場所に彼女が、いなくなってしまうかのような、
怖ろしい緊張感だった。


その第一声すらも・・・


ライジアは、おもわずつばをのみこむと、
視線をはずせなくなった瞳に、ごみが入るかと思うくらい
眼を大きく見開いていることに気づいた。


何もいって欲しくない・・・。

とすら、一瞬思った。
たとえ、その声が天上に上るほどやさしく、あたたかく彼女を包むものでも、
今から言う言葉は、きっと、絶対・・・。



「ライジア、ナイルさま、ララさん。わたし・・・。」


凛とした、空気に踊る高貴な精霊の声が聞こえた。


今現在の神話を生きる女神のような彼女、
フェイティシアは、
決して濁した言葉を発さなかった。

はっきりと、口を動かしていた。

その瞳は、いつにもましてしっかりと、前を見据えていた。


眼の奥に、ほんの少しの、怯え。


けれども、その後の言葉を聞いたとき、
三人はただ呆然として、
その場を後にするフェイティシアを見送るしかなかった。













エルゼリオが領地に到着したのは、
すでに月が映えるほどの闇になった頃であった。

少し強くなった風に押されるように、
広い扉を開けて入ってきた彼に、
恭しく召使いたちが礼をする。

今日はフェイティシアは迎えに出ていない。

ということを確認して、彼は再びどうやって近日中に
メルビルからの密約を守り、旅立とうかと思案していた。



まず、コートを召使いに手渡すと、
ロイドに紙を持ってこさせる。

手早く手紙をしたためた。

「・・・お急ぎのご様子ですね。エルゼリオ様」

との、ロイドの言葉に、一階の控え室のソファーに座っていたエルゼリオは、
楽しそうに微笑んだ。

「まあね。それに少し、用事ができたので都へ赴くことにした。」


執事はほう、と声を出しはしたが、瞳も眉も微動だにしない。

エルゼリオも「都へ」とはいったが、この国ミルティリアの都、とは言わない。
その辺はあいまいにした。


実は、別な都へ赴くのだから。


「それで都の別荘へ、手紙をと思ってね。
ロイド。しばらくこの屋敷と領地を空けるが、
お前とサンザスにしばらく仕事をたのむ。
サンザスには、手紙を書いておくから。」

サンザスとは、エルゼリオの友人であり、幼馴染でもある。
領地にある港で、交易官をしている男だった。

「それと、女は連れ込まないように言ってくれ。
あと、フェイティシアにも手を出さないように。」

エルゼリオは少し苛立ちを隠さずに、ロイドに伝えた。
その昔、サンザスはフェイティシアに求婚を強引に求めたこともある
男でもある。
エルゼリオがまだ、結婚だとかそういったことを
言葉にして出さないころから、
フェイティシアに言い寄っていた青年であった。


だが、頭の切れる友人でもあった。



ロイドは「フェイティシア」の名がエルゼリオの言葉から出たので、
機会を得たと思い「エルゼリオ様」と声をかけた。

「何?」

「フェイティシアを、しばらく休ませたいと思っておりまして・・・。」


「・・・へえ!」

エルゼリオは少し楽しそうに、声を弾ませた。
これはどうやら、サンザスと彼女を同じ場所で
働かせなくてもよさそうだ。
そんなふうに考えたからでもある。


フェイティシアを休ませるとは、珍しいことである。

怖ろしいほど働かせていた10代から、現在に至るまで、
体調が優れないという理由がなければ
必ずといっていいほど仕事を与え続けてきた。

それが、今突然・・・?

「なんで?」

とエルゼリオは手紙に眼をやりながら、
ロイドの言葉を待った。

「・・・この前の風邪の件もありますし・・・」

「なるほど?」

エルゼリオのペンは、なんのひっかかりもなく
すらすらと手紙をしたためていく。
何の疑いも無い、
とロイドは少し安堵していた。


今、彼と瞳をあわせると、真実を見抜かれてしまいそうだ。


との危惧が、ロイドにはあった。

彼の、ペンの先から流れるインクは一定に、
紙の上をすべっている。


「少し、私の血縁の者のところへ・・・。」

「ああ、話の途中で悪いが・・・ロイド、三日後にはこの地をたつ。
もう少し早いほうがいい気もするが、
仕事が片付き次第向かう。」

「では、支度をさせませんと。」

「うん。頼む。ああ・・・フェイティシアに支度は?させるくらいの余裕はあるかな。」


ロイドはその問いに、ほんの少し躊躇した。

その躊躇の間、エルゼリオのペンは、相変わらず手紙の上をすべると、
まんまと用件を書き終え、
そして封をして蝋をたらして印を押すことに成功した。

「・・・はい。ではその後に、フェイティシアを休養させることに・・・。」

「わかった。どのくらいかわからないが・・・まあそれはいい。
じゃ、この手紙をたのんだ。」


エルゼリオは勢いよく立ち上がると、部屋を大またで出て行こうとして、
ふと
入り口前で止まった。

「ああ、ロイド。」


その声に、執事は少しひやっとした。
彼のたくらみ、フェイティシアの婚約について、
悟られたかと思ったからであった。

エルゼリオは微笑み、
「えーと、どこの血縁?なんだっけ??」
と問いかけた。

ロイドは眉を動かさず、「山岳地のあたりに、保養できればと・・・」
と、嘘をついた。

「そうか。わかった。」

ときわめて明るく、エルゼリオは返事をすると、
部屋を後にした。


ロイドは、しばらく無言でその場に立ち尽くしていた。

これからどうなるのか、
それは彼にも、誰にもわかることではなかった。
ただ、明白なことは、
自分の主人が正しい道を進んでくれるであろうこと、
それのみにあった。









指の先が、冷たくなっている。


フェイティシアは一人、
主人の部屋で、主が帰るのを待っていた。


廊下からの、あの足音はしない。
いつも、少しだけ歩調を早めにして、
少しつらい仕事を任せられると、
どこか重い音で、ゆっくりと帰ってくる、
若い領主。


いつも、
どんなときでも笑顔で迎えよう。


そう心に決めて、
もう何年もたった。


それなのに・・・。


フェイティシアの瞳の色は、
心なしか曇っている。
決断をしたとはいえ、
揺らがないわけではない。


昼間にライジアやナイルに宣言してから、
言い捨てるように決めてしまったこと。
それでも、決断せずにはいられなかったこと。

・・・汗で、つめたくなった指先が
昼間の決断を責めているように、
フェイティシアは感じた。


まだ、間に合う。


叔父に自分の意思を、通して・・・


そして、あんな決断をやめて、
もうどこかゆっくりと、いつもの仕事ができる場所へ、
戻りたい。


けれども・・・・。


フェイティシアはため息をつきそうになって、
思わず顔を横に振り、
揺らぎそうになる自分を否定した。


・・・聞かねば為らないことがあった。



主である、若い領主に。


そしてもし、



自分が望む答えをくれるのなら、
わがままを、
許してもらえるのならば・・・。









エルゼリオは大またで、広い廊下から自室へと向かっている。


その表情は、先ほど執事に見せたものとは
まったく異なっていた。
眉間にこころなしか、しわがよっている。

ロイドが何かしら企んでいるらしいことは、
既に明白だが、具体的なことがはっきりしないのは
どうもすっきりしない。

おそらく、フェイティシアがらみのことであろう、
との推測はできる。

彼は自室の前に到着すると、大きく扉をあけて
中にはいり、すぐさまフェイティシアの姿を確認した。

それからすぐに扉を閉めると、鍵をかける。



「おかえりなさいませ。エルゼリオ様。」

の言葉が彼女の口から言い終わらないうちに、
彼はフェイティシアの体に腕を伸ばしていた。



両腕で捕まえる。



身じろぎも、小さな悲鳴も気にしない。
彼は満足そうに、彼女の首筋に顔をうずめ、
舌を這わせてから、
耳元で「ただいま」と囁いた。

彼女の体が震えているが、それも気にしなかった。

視線を交えることもなく、言葉も無く、唇を奪った。

それから、散々舌先で彼女の舌をねぶり、
手のひらで彼女の体の輪郭を何度もなぞった。
ひどく柔らかい。
あたたかで、甘い香りがする。
彼が昔から大好きな、彼女の香りだった。

「あっ・・・。」

と、と吐息まじりの悲鳴があがるが、
すぐに唇でふさいだ。
喘ぎ以外は、息もつかせない。


何も語らせる気はなかった。



こんなことが、あとどれだけできるのか知れない。




せいぜい3日か、長くて一週間か・・・
早ければ明日にでも?


そう思うと、とにかく彼女をそばから放したくなかった。

できることなら・・・。


彼は、ゆっくりと彼女をそばにあるソファーへ横たえる。
その間も、彼は一度たりとも唇や手をおろそかにせず、
気をそらさせている。

体を横たえるほうが、心地がいいと思わせるように、
彼女の感覚を別なほうへ、もって行こうとした。


「だめ。」

と、めずらしく彼女は言わない。


するりと、彼の腕から抜け出すことも無い。
そういうことは、巧みにこなす彼女に、


なぜか、今日に限り?


エルゼリオは楽しくなる反面、どこか妙な危惧を抱いた。

いつもなら、過剰なほど拒絶する。
たしかに、今朝彼女とは、
互いの意思を確認しあったばかりだった。


けれども「ごめんなさい」と彼女は言った。


今は、「ごめんなさい」とは言わない。
それが、どうしてなのか、理由がわからない。



・・・わからなくてもいいじゃないか。



と、彼は彼女の唇をむさぼりながら考えた。



わかったところで、何があるというのだろう。
この唇を奪いつくしてしまえば、それでいいはずだ。
願っていたことが、
今まさに叶う。そうではないか。


エルゼリオはそう心の中で繰り返し、
しかしふと、彼女の表情を見たくなって
顔を上げた。



・・・形容しがたい、高貴さが滲んでいた。



拒絶、ではない。
だが、焦燥にしては、あまりに尊い。
悲痛な面持ちではあった。
いつものような拒絶すら、その表情には見えた。


しかし、それ以上の何か。


決意といえばいいのだろうか。


けれども、ふと揺らぐ瞳の中の炎のようなものが、
かえって酷く妖艶に見せる。

涙をにじませそうなほど、
切ない表情をしたかと思うと、
聖母のような慈悲深さを感じさせる、
やさしく切ない笑みを見せる。



エルゼリオは思わず、その表情に見とれていた。


自分のしていることが、
今日こそ許されている。


そんな確信のようなものすら、ある。


甘えたくなって、
ソファーに横たわる彼女の上にかぶさるようにして、
彼女の少しはだけた服のあたりに、唇を落とす。





「・・・どうした?フェイティシア。」

と彼は囁いた。

「不思議な瞳をしてる・・・今日はなんだか・・・。」

「エルゼリオさま、わたし・・・。」



フェイティシアの声が、夜の空気を甘くさせる。

エルゼリオは思わず彼女の瞳を見て、
次に何を云うのか、
甘えてくれるのか、甘えさせてくれるのかを
聞こうと微笑んだ。

しかし彼女は、その決断を言葉にしようとして、
ためらった挙句に彼から視線をはずした。


いつものように、といえばそうだった。


彼の、気に食わない彼女の横顔。
視線を交えることの無い、彼女の意思。


しかし、どうしてか今日の彼女のその横顔は、
彼を拒絶することなく、
むしろ誘っているようにすら見えた。

頬が紅色に上気している。
瞳は、驚くほど潤んでおり、
その唇も、自分のために用意されているとしか見えない。


すこしだけ、思い当たりそうなことを執事から聞いたと、
彼は思い出して尋ねてみる。

「何?休養をとるとかってこと?」

「・・・休養・・・。」

フェイティシアはその言葉をきくと、ロイドを思い出した。
そして、急に寂しそうな笑みを見せた。


なぜかそれは、
胸倉をつかまれて、
魂ごと引きずり出されそうなほどの、
微笑だった。



「ええ。休養、です。」

と、フェイティシアは遠くを見つめる。
彼の瞳から、その視線はそれて、
天井の一点を見据えているようだった。

彼を、見てはいなかった。

それは、前々から変わらないことだ。

けれども、今日はいつにもまして・・・
見ていない、のではない。


エルゼリオは眉をひそめる。




見えているものが、違う・・・?




思わずその視線をさえぎろうと、彼が再び彼女の唇を奪おうとしたとき、
彼女の両手が彼の唇をふさいだ。


「・・・だめ。」


彼女のやわらかな両手は、
小さくちいさく、震えていた。

フェイティシアの瞳は、ないているように潤んでいるのに、
どこかで彼を許していた。

いつもの拒絶感が、驚くほど薄れている。


なぜ?


わからない。


考えるな。


けれど、気になる。




「・・・じゃあ、ほかのことは?」

と、ゆっくり彼女の手の指を、唇で触れながら、彼はたずねた。

繊細なその白い指は、思いのほか冷たい。
そっと、顔をねじって、彼女の手をどけようとした。

彼の問いは、少しだけ遊び半分の語調に聞こえても、
いたって真剣だ。


「ほかのことをしよう。」

「それも、だめ、です。」



彼女はそういいながら、横たえていた上半身を起こした。

不思議と、エルゼリオは逆らえなかった。
彼女はいつにもまして、無言だった。



エルゼリオだけが、なぜか焦っていた。
何か、焦らせる雰囲気だった。



ああ、こんな駆け引きが
いつまで可能なのか・・・。
それを考えると、
どうしようもなく焦らないわけにはいかなかった。

なぜこうも、彼女の前では狂わせられるのか。



「・・・じゃあ、なにができる?俺は・・・」



エルゼリオは思わず、彼がこれから向かう仕事について、
語りそうになった。
眉間にしわがよっているのが、わかる。

瞳を閉じて、
表情を和らげようとつとめた。


「・・・。」


言葉を、飲み込んだ。



王の密約は、話してはならない。
領地内の人間にも、誰にもだ。


・・・フェイティシアにすら・・・。


そう考えると、なぜかとても心苦しかった。



「俺は、しばらく都へいく。」



「!」



彼の嘘に、思わず彼女は振り向いた。
その表情を眼にし、彼は思わずその言葉を取り消したい気分にさせられた。

瞳を見開いて、蒼白。
悲痛な面持ちは、怖ろしい別れを暗示しているのではないかと、思われた。
氷に打たれたかのように
かすかに、震えているようにすら、見えた。


反面、
自分が居なくなることが、
こんな表情を呼び起こすなんて、
彼にはそれが酷くうれしく思えた。


彼女が思っていてくれることを、
確信してしまいそうなほどだった。

その表情に隠された心を、なぐさめたくて、
指の背で、彼女の頬にゆっくりと触れた。
なでると、とろけそうな滑らかさが伝わってきた。


「・・・また、待たせるよ。」



彼は、ゆっくりと言葉を選んだつもりだった。
けれども、結局は一番解りやすい言葉になった。


「待っていて、欲しいんだ。」



フェイティシアは、
その言葉にしばらく無言で答えた。

視線をしばらく落としていたエルゼリオは、
少しだけ怯えるように、彼女の顔をのぞいた。


「待っていて、くれないんだ。」


少しすねた声だった。
案の定、彼女は言葉をつむいだ。


「・・・そんな。」

「じゃあ、なんで返事ないの。」

「・・・。」


彼女は、無言であることを自分に許していた。
いつもなら、主人に受け答えしないことは
絶対に無いはずの召使いであった彼女。


何か、違う。


エルゼリオはフェイティシアの顔を覗き込む。
思いつめた表情・・・。
しかしそれが、一体何故なのか聞くことはできなかった。
決して、答えないような、
そんな気がした。

いや、おそらく答えない。



彼女は、何かを言いたくてたまらないようだった。

しかし怖ろしいことは、
反して彼女がそれを、言いたくないとも思っているらしいこと。

そしてそれが一体なんの、どういう言葉なのかが
彼にはわからない、ということだった。


彼へ瞳を潤ませ、そして顔をそらし、
もどかしくやわらかな唇をひらいては、
再び閉じてかみ締める、
といった動作をし、
散々迷った挙句、フェイティシアは彼につぶやいた。


「・・・わたしにも・・・。」


と、彼女は言った。


わたしにも?

彼はいぶかしんだ。

まったく、言葉の前後から、判断がつかなかった。




彼女は、再び口をひらいた。




「わたしにも・・・、誓って。」




甘えているだろうか?

と、彼は珍しく主人に対する、
敬語をやめたフェイティシアに、小さなかわいらしさを感じた。
少し、また少しだけ距離が縮まった気がした。


けれど、何かが違うのだ。




「なにを?」

エルゼリオはきわめて優しく、ゆっくりと囁く。
フェイティシアは、潤んだ瞳で今にも涙をこぼしそうなほどである。


うつむいて、ちいさな声をことばにした。



「・・・私を、待っていてくださると。」



待つ・・・・。




これは、思いもしないことだった。
彼は今から旅立つ。
それは、彼には理解できる。
彼自身のことなのだから。

しかし、彼女が「待っていて」と願うには、
あまりにも、不似合いといえた。

彼女は、いずれ保養から帰るのだろう。
ならば、「待つ」のは彼女ではなく彼になるはずだ。
彼の任務と彼女の保養ならば、
彼女の保養が短期間で終わるだろう事は、
執事の性格から明らかだった。


少なくとも、エルゼリオはそう考えた。


「・・・そんなに、待つんだ。誓うほど。
それとも・・・。」


彼は彼女の潤んだ瞳をはぐらかすように、無邪気に微笑んで見せた。




「これからも、俺に
なにもくれないつもりの『待つ』
なのかな?」




たとえばそれは、
彼が彼女に問うた、
彼のもっとも彼女に欲しがる『答え』とか。




フェイティシアは、彼女自身が決定すれば
今すぐにでも、彼に彼女自身を差し出すことができる。

けれども、彼女はそれを彼に『待たす』つもりなのか、と言う問い。




いつだって、待たされているのは自分なのに。




そう考えると、エルゼリオはどうもちいさな怒りを禁じえなかった。
この怒りに乗じて、彼女を抱きしめて今夜は離さないことだってできるのだ。


「待っているのは俺のほうだと思ってた。」

と、彼は知らず知らす悲しく微笑んでいた。

「・・・そういう・・・意味では・・・。」


彼女は、いつもなら赤面した。
けれども、今日の彼女は真剣に、至って真剣な眼差しを彼に向けていた。

「・・・ありません。」


その表情は、悲痛としか言いようが無い。





おかしい。






彼は、再び何かの危惧を感じていた。
それは、あの時。

彼女が熱で倒れた日のものに、多少似通ってはいた。



しかし、おそらく風邪などではなく、
彼女の何かを根底から覆しそうな事態が、
迫っているのかもしれない・・・。

そんな、悪寒に似たようなものが、体を通り過ぎた。

たとえば、彼自身を、

心のそこから待たせることになるような・・・・


そんなことが、あるのかもしれなかった。






どうやらこれは・・・。


と、彼は少しフェイティシアから離れると、
落ち込んでいるようにうつむくフェイティシアをじっと眺め観察した。


冷静になれ、
そう心の中では囁いている。


少し、彼女の行動を気にかけておいたほうがいいようだ。


しかし、おそらくそれは可能だろう。
少なくとも、彼が出発するまでは彼女は彼の荷造りなどの用意をするのだろうし、
そばにおいておくこともできる。


問題は・・・その後、か。



エルゼリオは少しばかり楽しそうに、彼女を見つめ、
彼女を取り巻く『何か』を見つめていた。



望むところだ。



どんなことがあるにせよ、エルゼリオはそう心に決めていた。










「フェイティシアさまって・・・。」

と、ライジアはふと、真夜中の空の星を眺めながら、
頬づえをついて、窓際の机のそばにある、木の椅子に座ってつぶやいた。

ここは召使い専用の小部屋である。


多くあるうちの、もっともフェイティシアの部屋に近い個室は、
あまり綺麗な装飾の無い、倉庫に近い場所でもあったが、
彼女はさっぱり気にしない。

壁は、この場所に暮らすと決めたライジアのために、
フェイティシアが選んだ壁紙と、
そしてレースのカーテンと、
暖色と花模様の
かわいらしいカーテンを重ねた窓がある。


孤児だったころは、町に捨てられはだしで歩くと、
家々の窓に見えるカーテンの布に、
奇妙な温かさを覚えたものだった。

さまざまなレースと、豊かな色の布は、
自分が身にまとっているものよりも、
数段上の、上質な布だった。

きっとあれを巻いたら、
温かいんだろうな・・・。


などと思っていたライジアには、
今の暮らしが天国のようだった。


そして、彼女のささやかな特等席。

彼女の部屋の、夜中の楽しみでもある窓際で、
眠る前にさまざまな思いをめぐらす。


それがライジアの日課である。


「・・・婚約者のこと、考えたのかなあ・・・。」


たとえば、かっこいいとか、綺麗な男とか、権力者だとか、大金持ちだとか。
それとも、カエルや蛇みたい?だったら嫌だとか、


とどのつまり、そういうことだ。


特に、背が高いとか、頭がいいとか、優しいとか。
暴力を振るわないとか、もしくは力持ちであればいいとか。

そういう、「男性の好み」について、
ライジアはフェイティシア自身から聞いたことが無いのだった。
当然のことながら、
それは不明瞭であって当然だった。

なぜなら、いつもフェイティシアは
だれにでも分け隔てない接し方をするからだ。

唯一、例外といえることはエルゼリオに対する接しかた。
そして、執事であり叔父であるロイドに対する接しかただ。


・・・・。



ライジアは無言で考えた。

それは、フェイティシアさまにとって「どんな婚約者が最高」なのか、
といったことであり、
その基準の半分は、ライジアの基準でできていた。

彼女は指を折って、
重要事項を数えていく。

やっぱり、フェイティシア様に似合う綺麗な男性。
貴族。多少は身分も重要。
優しい。暴力なんか振るう男は最悪。
(フェイティシアさまを殴る男は、この世から消えてしまえばいいんだわ。)

活発なのは、悪くないわよね。
一緒に話してて、楽しい男かなあ。
でも、なんだかやばそうな国だっていうし・・・。
身を守ってくれなきゃ、強くなきゃだめよね。

・・・いや、でも暴力はだめだし。

フェイティシアさまに暴力はだめだし。

・・・いやでも、強くなきゃだめだし。

でも、暴力はだめだし・・・。


何かが堂々巡りするライジアである。


彼女は、散々悩み、うなだれた末に大きなあくびをした。
そして、「あっ!」と叫んで、少し小さくなった。
いつも、ナイルにあくびを目撃されては、
散々な目にあっているための行動である。



ナイルはどうやら、この部屋には入ってきていないらしい。


ライジアはにんまりするが、すでに半分目が閉じていた。


この眠りに誘われつつある寸前の、
甘い気分といったら、どんな上等のお菓子でも味わえないだろう。




・・・眠くなったから、もう寝よう。



彼女は、深夜まで寒さで眠れない、
あるいはごつごつした土や道の上で眠ったような、
路上での生活を振り返ると、
冬には暖炉もある、この生活の規則正しさが嬉しかった。


ライジアはがたがたと、椅子を持ち上げると
所定の位置であるテーブルのそばに置き、
やわらかなシーツの上に、どかんと身を投げ出した。

このベッドのふわふわは、最高!!

思わず目をつむると、にやにやして
頬ずりをするライジアは、
さらに温かな毛布
(これはもとはフェイティシアの持ち物で
わざわざ譲ってくれたのだが)
の中に身をすべりこませた。


少しだけ、フェイティシアさまの香りがする・・・。(気がする)


枕にも頬ずりしながら、ライジアは眠りについた。
今日はどんな夢が見られるだろう。
フェイティシアさまと、
旅に出る夢、なんてどうかな・・・。

などと考えながら、
ライジアの意識は深く深く、眠りへと誘われていった。





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