「金の月ーささやかな願いー」




よりによってその日、
薄い窓ガラスを通して
透き通る光を浴びせたのが、『金の月』だった。



言い訳にはならない。



けれども、多くのサハシュの民が信じる「言い伝え」。

『金の月、空に満ちる光の泉。
真を照らし、偽を滅す。

この日
志ある者、歩み始めること。
これ神の意なり。

誓えよ。全てを統べる源の輝きに。
命を賭して誓えよ。』


朝、目覚めの足湯につかりながら、
昨夜のフェイティシアの様子を思い出し、
エルゼリオは一人、
彼女の様子を思い出していた。






彼女の背後にある窓から、
圧倒的な大きさで輝く黄金の月が、あった。

その瞬間、魅入られて彼は息を呑んでいた。


たとえば女神だとか、
そういうものが居るのなら、
とっくに戦地でくだばりそうになった時、
助けてくれてもいいものだ。


けれど、生き残って彼女の前に立つと、
生き残ったからこそ、神々しいばかりの
美しさを持つ彼女を
目の前にすることができると思える。


黄金の月に照らされた彼女の亜麻色の髪は、
陽を浴びるよりも、さらに幻想的に輝く。
時々、深い黄金の色に近く感じる。

柔らかな曲線を描く肢体の
輪郭を縁取るように、光がこぼれる。

暖かで豊かな胸のふくらみだとか、
絶妙にくびれた腰を隠している
召使い専用の服と帯を、
さっさと取り外してしまいたくなる。

妖精だとか、精霊、神が
太古から服を持たずに描かれることもままあるように、
その姿が普通だと
彼女の前では多少なりとも感じざるを得ない。
(半分くらいは、自分の願望であることは承知の上で)

「フェイティシア。」


と、エルゼリオは黄金の月を背にした彼女に
呼びかけた。


特に、理由も無く。


ただ、いくつかの疑問。
何故、彼女のような人間が存在しているのか、
なんて、
わけのわからない問いを、
思わずしそうになっていた。


彼女は、少し寂しそうに伏せたまつげを、
すっと持ち上げた。
暖かな眼差しが、エルゼリオの瞳に届いた。

「はい。」

唇が動いて、艶めいた。

彼女の唇の柔らかさは、
酷く表現しづらい。
強いて言うなら、何度でも奪ってしまいたくなるような感触、
とでも言おうか。

「・・・こっちへおいでよ。」

「?」

フェイティシアは少し微笑んで、
一歩踏み出した。

しかし、とたんに躊躇うと
悲しそうに踏みとどまっていた。


「今夜は、もうお休みください。
これから忙しくなるのですから。」

「忙しく?ああ。
確かに旅になる。長い、先の見えない・・・。
でも今は」

今は、違う。
まだ・・・。



今だけ。



「今は違う。」

黄金の月を背負う彼女に、彼はそう訴えた。

彼がゆっくりと立ち上がると、
彼女は少し後ずさりした。

彼の心を読んだのかもしれない。
けれど、当然逃げ場はいつもない。




逃げる理由も、本当はなかった。




窓のガラスに、彼女の後頭部が触れていた。
伏し目がちな瞳が、何かを決断したように
ゆっくりと彼を見据える。

一歩一歩近づき、手の平で
窓ガラスの冷たさを感じると、
思いのほか身に沁みた。


『誓えよ』


と、麗しい筆致で描かれた
経典の言葉を
エルゼリオは思い出していた。


『誓えよ。命を賭して。』


その言葉は、
今脈打つ、彼の手のひらの
温かさへと問いかける。

黄金の月と、
目の前に立つ女神にも似た
現世に現れた使者に、
自らを賭すことを。


「逃げないの?」


エルゼリオは問いかけた。


「今は・・・。」


と、フェイティシアの唇が
やわらかな、
心にしみこんで行くような音を発した。

「いつ?逃げるの。」

そう言いながら、すでに彼は逃がすつもりはない。

笑みをこぼした唇で、彼女の白い額に触れた。


「・・・いつでも・・・。」

「いつでも?そんなに急ぐんだ。」


彼の声の温かさが、彼女の耳元に感じられた。
囁きで、息が吹きかかると
フェイティシアの顔は可愛らしい紅色に染まっていく。

そうなると、彼は嬉しくなり
もっといじめたくなる。

もっと、自分を見て欲しい。

声に、唇に反応して、
過敏に心や体を震わせる様子を
眺めていたいと思えてくる。
甘えたくなるのだ。



目の前の、美しい人に。



「まだ、逃げない?」


「・・・逃げて、欲しいのですか?」

瞳を閉じると、
彼女の首筋の感触を唇で感じることだけに
専念する。

「質問には答えないと。」


「逃げるときが、答えでしょう?」


はぐらかそうとするから、
彼は唇を離して、もう一度彼女の瞳を覗き込んだ。

少し微笑んでいる。
潤んだ瞳は、迷いと少しの希望と、
そしてなんらかの彼にはわからない決断。


「言わないつもりなんだ。」


「ええ。」


「いつも、そうだった。」


自分には、教えてくれてもいいのに。
彼は時々、彼女にそう思うことがあった。
そうすれば、こちらが打つ手もある。

彼はゆっくり手のひらをガラスから離した。
彼女の髪に触れると、
ゆっくりと繊細な感触を確かめた。

「だからこうやって、逃がさないようにするしかない。
違う?」

「・・・逃がしてしまえば」

と彼女が言いかけると、

「それはできない。」

とすぐに言葉を返した。

彼女の言葉は、
時々彼を苛立たせる。


「できないよ。フェイティシア。」


エルゼリオはため息をつく。

顔を彼女のすぐそばまで持っていくと、


「待てないから、さっきの約束はできない。」


と答えた。

彼女が「待っていてくれるだろうか」と、
望んだ言葉を、彼は拒絶した。

それからすぐに、何か言いたそうな
彼女の唇を奪って塞いだ。


まっていることなんて、誓えない。


待たない。


彼は、彼女と、
彼女の背後の黄金の月に
唇を奪う回数だけ、
繰り返し誓った。

月は、誓いを聞き届けてくれるだろうか。



(彼はいつもよりいっそう熱心に、
より時間をかけて、やさしく誓ったつもりだったが。)




少なくとも、
誓い終わった後に見た
月を背後にした麗しい人の表情は、
頬を赤らめて
すこし困った様子だったけれど。







そして、
そんな困った表情だった召使いは今、
目の前で彼の足を清潔な綿でぬぐっている。


目の前に見える窓は、昨日の月の光すら残していない。
見えるは朝の光ばかりだ。


そこから左へ目をやると、
ドアの開いた向こうの部屋で、
召使いライジアがばたばたと何かをしていた。

せわしない動きは、目的が特に無い小動物に近いものがある。

一方、フェイティシアは銀の器に入った湯を持ち、
早々にその場から去ると、
ライジアがドアの向こうから、
そーっと歩を踏み出し、食事の並べられた銀の盆を
持ってくるのが見えた。

「・・・今叫んでみようか。」

いたずらっぽそうに、
エルゼリオは声をかける。

ライジアはその声にすら、驚くと
びくっと動いた体で盆の上のものが動いてないか確認し、
そしてエルゼリオをきっ、と睨んだ。

「ええいいですよ。
領主様がこのきれーに磨かれた床の上に落ちた
パンやミルクを
飲み干す勇気がおありなら!

ちなみに、床を磨いたのは、
『床を磨いたら雑なことで有名』な私ですけどね。」


そう吐いて捨てるように言い、
ゆっくりと、白いテーブルクロスのかかった
窓際のテーブルに盆を置き、
ライジアはふーっと鼻から息を噴出した。

緊張を解いたらしい。


エルゼリオはその様子を眺め
「一応、床を舐めるようなことにはならなかったようだな。」
と呟いた。

「ええ。そうですとも。感謝してください。」

とライジアが返す。
くすくすと可愛らしい笑い声をたてて、
フェイティシアが別な部屋の扉を開いた。

エルゼリオは立ち上がると
その部屋へと向かう。
着替えをするためだ。


「フェイティシアさま、フェイティシアさま。」


とライジアが声をかけ、
扉を開いていたフェイティシアは、
部屋へ向かうエルゼリオとすれ違いざまに
ライジアの傍へ向かった。

「あのお部屋へ行ってはダメです。
何かああ、私に今お告げが・・・。


『汝あの部屋へ行くなかれ〜。
さもなくば悪魔のような領主の魔の手が襲い掛かる〜』」

さも、くらりと倒れんばかりに天を仰いで見せるライジアに、
フェイティシアは思わず笑みをこぼし、
反面エルゼリオの顔はむすっとする。

こほん、と一つ咳をすると


「いいだろう。俺にもお告げが来たぞ。

『汝この新米召使いのそばにいるなかれ〜
さもなくば床に落ちた朝食を拭うことになるぞ〜』」

「おおお落ちてませんってばっ!!」

と怒りに身をまかせ地団駄を踏むライジアを横目に、
奪うようにフェイティシアの腕をつかむと、
エルゼリオは部屋へ向かい、扉を閉めた。









「・・・朝からアレが・・・。」

と、皮を張って造られた椅子の上に座り
エルゼリオは少し辛そうにうめいた。

実のところ、彼は毎朝フェイティシアの麗しい姿を眺めつつ
静かな朝食をとるのが理想だ、
と勝手に思っている。


当然、ライジアにしてみても
同じようにフェイティシアの傍で
麗しい姿を眺めつつ
静かな朝を迎えたいと思っていることだろう。


フェイティシアは上等な絹の上着を取り出すと、
彼の傍らに置いた。

少し狭いその部屋の窓から、
ゆるい朝日が差し込んでいる。

いつもと変わらない朝である。


「今日のご予定は・・・。」

「うん。書斎へ籠もりっぱなしかな。」

「では、その間
ご旅行のご用意をいたします。」

「うん。」

そう返事はしたが、
エルゼリオが本当に行う旅行は
荷物の少ない、いたって粗末な身なりでいいと
思っている。

造られた荷物は、
王都の別荘へ送られるだろう。



しかし、エルゼリオは向かわない。



今日片付ける件も、殆どが身辺整理のようなものだ。
雑多な仕事だとは思わない。

けれども、少しだけうんざりする。
できれば、もっと活動的な仕事もしたいくらいだ。


ふと、窓越しに空を見上げると
日の光で存在の薄くなった満月が見えた。

『誓えよ』

と唱えるには、あまりに儚い光だった。









ライジアは、別室から出てきたフェイティシアと
着替え終わった領主を眺めつつ、
思わず唸りそうになっていた。


この二人、どう見てもお似合い、
である。

彼ほどの男はそうそういないだろう。

やはり、
昨夜悩んでみても、いまいち
フェイティシアさまに「あいそうな男」というものを
思い浮かべるのに苦戦しただけある。

ライジアにとっては
この領主は気心の知れた土地を治める貴族だ。

そこそこ良識もあり、
おそらく、いや、絶対に我らが女神を悪戯に扱うことはないだろう。
いや、悪戯に扱っている??

十分扱っている・・・ようにも見える。

ライジアは「うーん」と唸ると、
席に着いた領主と
傍らで紅茶を入れるフェイティシアを眺めた。




・・・絵になる。





こう言うと馬鹿げているが、
そう感じさせない異空間が、目の前に広がっていると言っていい。


・・・うわあ、私まったく入り込めない。
というか、なんだろうでも
ずっと見ていたくなるというか・・・。


そう。エルゼリオがフェイティシアを貰い受けることは
全然問題は無い。
が、いやいや、問題はある。
山済みだ。
第一身分が違うし。

やはり、悪戯に扱っている感じがするのだ。
絶対にそうだ。
理由は無い。


「なんて贅沢な!!」


と、思わずライジアは叫んで、
鋭くきびすを返し、
あっけにとられる領主とフェイティシアのいる部屋から
退出した。

どすどすと歩みを進める勢いは、
像の大移動に似ていた。

腕を勢いよく振るい、
廊下へ揺るがない行進を進める間、
ライジアはやはり、思う。


―そうよ。やっぱり例の婚約者とやらを
見ることが先決よね。
悪い話じゃないかもしれない。

しかし、突然立ち止まると
こうも思った。


―でも、一度フェイティシア様を目にして
手放そうと思う男がいるかしら??


ライジアの悩みは尽きない。









一方、ライジアの悩みに引き続くように悩んでいたのは
ララであった。


「絶対に、手放すわけないでしょ!!
バカ、女神よ?
地上に舞い降りた、め、が、み!
この意味がわかってんの?
手放したりしたら、
一生後悔するに決まってるじゃない。」


「・・・そうですよね。女神さま・・・あああ〜」


ライジア、現在洗濯部屋で
仕事ボイコット中である。


「だめだめ、あわせたりしちゃ。
婚約者なんかに。」

「でも、そういう方向に物事進んでないじゃないですか〜」

「あんたら、ちょっと仕事したらどうなのさ。」

洗濯のおばさんが不満そうに口を挟む。

「うーん」とだらけた様子の二人は、
さしあたり洗濯釜に入った服を
かき回す仕事を与えられた。

変わりに、
椅子に腰掛けると、太い指を握って
肩をとんとん叩きながら、
洗濯おばさんは「やれやれ」とため息をついた。


「あんたら、人の決めなきゃならないことに
どうこう口を挟むなんて、
ちょっとおこがましいと思わないのかい。

特にそんな相手を決めるなんざ、
個人がやる「特権中の特権」だろうに。

あんたらがそんな、
『やれだれがくっつく〜』だの、
『それが理想だ〜だ』の、
言ったって決めんのは、
最終的にはあの子なのにさ。

なんの経験も無い人間が、
推測ばっか垂れ流して、アンタ達、
その言葉に責任もてんのかい?
え?」

喧嘩腰に、ララは思わず食って掛かった。

「ははっ、持てないわあ〜。
でもちょっと楽しんだっていいじゃない。
あんな美人でちょっと気になる人間なんて、
そうそういないわよ。
つまんない世の中だしさ。」


「馬鹿!」

と、ララを一括するおばちゃんである。


「何も言う気が起きないね。

せめてアンタ達みたいな馬鹿に
あの子が振り回されないことを祈るだけさ。」


そういうと、ララから棒をむしりとり
「さっさと行った」と二人を追い出す。



故郷の無い孤児、あるいは迷い子のような状態で、
二人が外に突っ立っていると、
ナイルがさっそうと現れた。


「怒られたのね。」


二人は「うん。」と同時にうなづいた。
実際、何も解決しないあたり、
確かに不毛な話ではあった。


「仕事あげるけど来る?
フェイティシアの荷造りをしようと思っているの。」

「!」

二人の顔に、万遍の笑みが広がる。

こういう時のナイルの優しさが、
ライジアは好きである。














「・・・言っておくけど」

ナイルは、フェイティシアの部屋に、
「フェイティシアが所有するもの」が
殆ど無いことを知っていた。

たとえば、普段着は制服である。
三着ほど持っており、
庭仕事の服を二枚ほどのほか、
庭用の帽子、下着類、靴を二束ほど。

ほかは、給料の幾分かで買ったとおぼしき
レース用の糸束である。


質素な部屋、といえばそうだった。



家具は領主の屋敷に設置されていたもので、
おそらくフェイティシアが移り住んだころから
殆ど内容は変わっていない。

私用のものがあるとすれば、
そのレース用糸束であった。


「荷造りといっても、そうね。
どちらかというと、
何がフェイティシアの旅に必要か、ってことを考えるために呼んだのよ。」

ナイルは自分が持ってきた旅行鞄の中に納まっていた
一着の服を取り出した。

浅い紫が美しい、質素だが丁寧に作ったと思しき服であった。

「わあ。」

と、ライジアは思わずため息を漏らす。
こういった、装飾の込んでいない服でも、
いい仕事をしているものは、
人の心をうつ。

少なくとも、ライジアにはそう思えた。


「それ、女神様用?」

「そうよ。私が買ってきたの。
いい服でしょう。」

「ほかにもあるんですか?」

ライジアは鞄の中を興味津々で眺めた。
ナイルは、惜しげなく、鞄を開いてみせる。

数着、同じように良い作りの服が見えた。



「・・・フェイティシアってば、
あの召使い用の服で旅に出てもいいと思ってるわ。
前もそんなことがあったのよ。」

ナイルがフェイティシアのことを語るときの、
少し悲しげな笑みが、ライジアとララにはいつも不思議だった。


「ほら、領地は大丈夫だけど、でも私たち召使いだって
仕えている土地を少し離れると、
流石にこの領地の服は着れないのよ。
でも、フェイティシアはそうじゃないの。

あの子には、この土地が全て。

この土地と、この領主・・・馬鹿領主でもね、が、全てなのよ。」


ララとライジアは、淡々と語るナイルの話を、
うつむいて聞いていた。

「・・・心配だわ。

フェイティシアは、外を知らない。
この土地だから許されてきたことが、違う土地では許されない。

ささいなことよ。

でも、そんなことでも重要だと思う人間は
うんざりするほどいるの。
それがどんなに、馬鹿げていても。
全てが心の広い人間ばかりじゃないわ。」


「彼女、危ういのよね。」

ララは思わず遠い目をした。


「キレイな空気でないと、生き残れない花みたいな・・・
なんていうのかしら、そんな雰囲気あるわね。」

「・・・ふふ、キレイな空気ね。
この場所だって、最低といっちゃ最低だったわ。」

ナイルは自嘲気味に笑った。


「羨望の入り混じった視線は、時々残酷よ。

それでも、今までやってきたんだもの、
今こそ幸せな時代だろうけど、
私は、もうフェイティシアを苦しませるような場所には
一時たりとも置いておきたくないのよ。」

「・・・それって、ここでも、ですか?」

ライジアのおそるおそるの発言に、
ナイルは吐き捨てるように笑った。

「なかなか、鋭いわね。」

それから、ナイルの発言はぴたりと止まった。

二人も無言で、今与えられた仕事に専念した。
それしか、フェイティシアを取り巻く何かを
解決する方法が無いように思われた。









フェイティシアは、
書斎の扉の横のソファーに腰掛けていた。


相変わらず、空を見ている。


時々、視線を手元のレースに注いだ。
いくつか編み、
そして、しばらくして空を見上げた。


・・・涙がこぼれる夜は
いまのところなかった。

むしろ、目に痛いのは
今のような昼の空である。

茫漠とした、頼りにするものの無い気持ちは、
薄い光を放つ昼の満月に似ていた。

『誓えよ』

経典にある言葉は、夜の月を指していたのか、
それとも、昼の月を指していたのだろうか。

誓おう。

いや、いつも誓っていた。

願っていた。


彼を、愛している。


いつからかは、わからない。




けれども、彼が求めるほど
自分には相応のものがない。
地位、あるいは、
彼が自分を手に入れることで失うもの。

あるいは、自分が失うもの・・・。
それが、どういった部類のものであれ、
とかく失われるもの。



それを考えると、怖かった。



『命を賭して』

との言葉は、フェイティシアには
さらりと心の隙間に入り込み
彼女を不安にさせた。

領主を欺いて、一人旅に出ること。

向かう先は、婚約者のいる土地。
しかも、敵国とみなされている。

知らぬ場所、知らぬ人間と、まだ見ぬ婚約者。

そのどれもかもを、
振り払い、決別を遂げた後、
果たしてこの土地に帰ってくることができるだろうか。







迎え入れてくれるのだろうか。





彼は、





迎えてくれるだろうか。








それとも、この土地から
永久に追放されるのだろうか。






「待てない。」




彼はそういった。
だから、おそらく迎えてくれることは無いだろう。




無い、のだ。





そう思うと、フェイティシアには言いようの無い不安が襲った。
指先が震えて、感覚をなくしていた。

レースの編み棒が、音を立てて床に落ちた。
彼女の手は、
床に伸びず、そのまま口元へと向かった。




私はどこへ向かえばいいのだろう。
私の決断が、
実を結んだとき、私はどこへ・・・。



泣くときは、声を、押し殺して泣こう。


この領地に訪れてから、決めたことだ。
誰にも、この苦しみが知られることの無いように。
それでも・・・・


それでも、誰かの支えが欲しいと思うとき、
その支えを求める声も、
押し殺してしまえるように。

召使いとして、
従おうと、心に誓った日から
決めたことだった。



が、



ふと、書斎の扉が開き、
あくびをしながら出てきたエルゼリオに、
思わずフェイティシアは赤面した。


背伸びをする彼の隣で、
思わず涙を拭う。


エルゼリオはそのまま数歩歩みだし、
そして止まった。



「泣いてる?」


彼の問いに視線を上げると、
彼の背中が見えた。
広く、形の良い筋肉が躍動する様を、
布を通してみることができそうな気がした。

どこへでも、駆け抜けていけそうな、
力がある背中だった。


いつも、彼女は羨ましいと感じている。

それは彼が幼い頃から、
今までほぼ鍛えあげれば鍛えるだけ、
その恩恵が与えられてきた筋力を持てるということ。

女である彼女は、
いずれ多く失われることが理解できる、力であること。
およそ、彼女が幼いころよりも、
格段にその力は奪われたといえた。

いつごろからか、
羨望の眼差しを送るしかなくなっている。
男性には、あるいは彼には
野性が持つ美しさがあった。



「いいえ。」

と答えたのは、羨ましくて強がっただけだったかもしれない。
彼女は、彼に見えるはずの無い笑顔を見せた。



「そうか・・・今日は・・・。」


彼は、そうこぼして
窓ごしの月を再び眺めた。



「月の光が薄くなってるな。」



「ええ。」



エルゼリオはそのまま、
テーブルの上に置かれた紅茶を
フェイティシアが立ち上がり
給仕する暇もなく、カップに注いだ。


「願うもんじゃない。あんな薄情な月には。」

黄金の光も、空にはただ日の光と
素晴らしい突き抜けた蒼があるだけ。


「たよりには、ならないさ。」

「それでも・・・。」

フェイティシアは思わず口を挟んだ。


「いくらか希望が・・・。」

「いや、違う。」


紅茶をすすったまま、フェイティシアのほうへ振り向くと、
エルゼリオは窓辺に向かい、
ガラスに寄りかかった。

夜のような、冷たさは服ごしに感じられなかった。

「間違ってる。」

日の光を浴びる彼の金髪は、
彼の雄雄しさを神々しく
崇高なものに見せる。



フェイティシアは時々、
彼の姿を黄金のたてがみを持つ白馬のように
見ることがあった。

新緑の草原を駆け抜けていく馬の、
奇妙なほどの突き抜けた爽快さを、
フェイティシアは以前
眺めながら思ったものだ。

似ていると、幼い彼に言うと
「馬?」などと怪訝な顔をされた。

そのくせ、飛ぶように走っては
「馬より速いよ」などと得意げに語っていた彼。

あの日も、同じように空には薄い光で
月が浮かんでいたかもしれなかった。



しかし、あの頃、
彼が馬のように速く
草原を駆け抜けることを願うように、
今はもう、願うことを忘れてしまったのだろうか。




そう考えると、
フェイティシアは不安を覚えずにはいられない。



「そうでしょうか。」


と反論すると、日の光の中で彼は、
無表情で彼女を観察するように眺めた。


「そうだよ。願うことは、まあいい。ただ・・・」


「ただ?」


彼は、紅茶をすすり終わると
カップを置いて彼女のほうへ歩き出した。

床に落ちたレースを拾う。

彼女の膝の上に重ねられた両手に、
やさしく握らせた。


「その先がある。
だから、
頼りにはしないほうが良いんだ。」


「先?」


フェイティシアは思わず問いかけていた。

隣に腰掛ける若い領主は、
さも楽しそうな笑みを見せる。

ごつごつとした、
厚みのある整った形の手で、彼女の髪を昨夜のようになでた。

「知りたい?」

彼が問い始めると、
彼女はもう彼のペースに乗せられてしまう。

「いいえ。」

と反論してみても、

「そう?」

と楽しそうに笑うので、どうにもできない。


「知りたいのに、無理するから。」

「してません。」

「だったら何で泣いてたの?」

「それは・・・。」


彼女は思わず赤面した。
彼には、言えない。
信じていないからではなく、
変わることが怖いからかもしれない。


「大それた望みに・・・。」

とだけ答えた。


「ふーん。」



と、エルゼリオは何かを考えている様子である。


「それで?」

エルゼリオはソファーに大きく身を預けると、
片手で、隣の彼女の髪を弄びながら尋ねた。

「一番の望みは叶いそうな望み?」


一番の・・・

フェイティシアにとっては
当の本人に、叶えて貰えるかどうかわからない
望みである。


旅立つ自分。
そして、婚約を破棄してもらい、
この土地へ帰ってきたとき、
彼が自分を受け入れてくれるかどうか。

それが、
彼が「待っていてくれるか」どうか、だったのに。

「待てない」と言われ、
拒絶されたのが昨夜だった。

確かに、正確な問いにはなっていなかった。
まだ、婚約者がいることを
打ち明けてもいない。


けれど・・・


「望みはもう、絶たれました。」

「えっ、もう?」

少し不機嫌に見えるフェイティシアは、
何故か可愛くもみえるから不思議だ。

一方、くすくす笑って楽しそうな彼が、
彼女にはどうしていいかわからない。

「そうです。」

とさらに不機嫌に返して、
ソファーに座る位置を
少しだけ彼から遠ざかるように座りなおした。

エルゼリオは「ん」と声を出すと、
少し不機嫌な表情になり、
それからため息を吐いた。


「わかった。では教えよう。
その先のことを。

つまり・・・。」

彼が少し大げさに話して見せると、
フェイティシアは振り向いて


「・・・つまり?」


と声に出した。
表情は、先ほどとは打って変わって
いたって明るくなっている。

彼は咳をひとつして、


「もっと動くことかな。」


と大きく言った。

「叶えるのは、
自分なんだからもっともっと、
望めばいい。
そのためには、相手が何を欲しがってるか
ちゃんと知っておかないと。

例えばだ。」


「はい。」

いたって真剣に、フェイティシアは聞こうとしている。
こういうときの、妙に真剣になる姿も
彼の好きな様子だ。

一方エルゼリオも彼女の髪を弄ぶのをやめると、
ゆったり体を沈めたソファーの感触を楽しみながら、
天井のあたりを眺めた。

「待っていてほしいんなら、
その分、相手が欲しいと言ってるものを
あげればいい。」


「・・・そんな。」


フェイティシアとエルゼリオには
互いに思い当たる節がある。

けれども、それが二人をこじれさせる。

エルゼリオは少し目を細めて


「まあ、さしあたり今、相手が欲しいと思ってるものでも
全然かまわないと思うけど。」

とフェイティシアに助言した。


「待っていて」ほしいなら。

この若い領主は、
美しい召使いに
少しだけ、いつも
ずるい提案をしてみせる。


フェイティシアは、虚空を眺めてから
涙で潤んだ瞳をぱちぱちと
しばたいた。


「・・・じゃあ。」


フェイティシアは赤面すると、
恥ずかしそうに問うた。


「・・・あの、何か欲しいもの、ありますか?」



こういうとき、
対外の人間は率直に尋ねはしないものだ。
推し量ってから、見合った判断をする。

だが、彼女は昔から
彼に対して率直であることを、
恥ずかしく思うことがない。
それは幼い頃から、共にあったためともいえる。

当然、彼も彼女の癖を知っていた。
だから可愛いのかもしれなかった。

エルゼリオは楽しそうに微笑む。



「昨日の夜俺がしたことを、いま
フェイティシアが俺にすること、かな。」



と答えると、フェイティシアの顔がみるみる
紅色に染まっていった。

「・・・今、ですか?」

「うん。今」

「・・・夜、じゃだめですか?」

「うん。今」

「・・・。」

何かしどろもどろになりながら、
赤面する召使いは、しかし、
腰をあげると彼の傍らに腰掛けなおした。


甘い香りが、彼の鼻孔をくすぐった。

いつもなら待てない。


けれど、待てば今なら・・・。


なんら体制を変えることのない彼に、
彼女はゆっくりと近づく。


「・・・あの。」


と、後もう少しのところで彼女は、
すぐ目の前の彼に問うた。


「どのくらい・・・?」


エルゼリオは、目を細めて微笑む。
ガラス越しの昼の空を眺めた。




「そうだなあ・・・。今の月の光は薄いから」


彼は少しけだるそうに、深く腰掛けている。
目の前の美しい人の、潤んだ瞳を眺めるには
十分に落ち着ける特等席でだ。



「ゆっくり願わないと、だめかな。何度も。」


そう言って、悪戯っぽく微笑んだ彼に、
ゆっくりと女神の唇は降りていく。




それから、
昼の月の光が差し込む部屋は、
いたって静かな時間に包まれた。

微かに聞こえる吐息も、
鳥の声か風の音にかき消された。

彼が今望む願いを、
彼女が十分過ぎるほど叶えたのは
言うまでもない。


よりによってその日、
薄い窓ガラスを通して
透き通る光を浴びせたのが、『金の月』だった。



言い訳ではなく、ささやかな願いとして・・・。



へつづく

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(こちらは週1回)


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