「銀の雫」








白い包帯を巻き終えたとき、
少女の手は、すでにそれが無用の行為だったと気付いた。

だが、気付くことがなんになろう。

必要でないことなど、あるのだろうか?

・・・まだ瞳は光をうつしているのに?
(たとえ彼女の姿をうつすために、動くことがなくなっていても)

・・・まだとめどなく彼の肌から流れ出しているのに。
(すでにその肌の色も、くすみ始めているとしても)

まだ。

まだ、ここに「ある」というのに・・・。



「苦しみは嘘のように。」


「彼女の頬を伝うものは、いつも嘘のように。」


「嘘のように・・・消えてなくなる。」


男はそう少女に言った。


けれども、彼女の眼には、そうは映らなかった。


彼は、嘘のように、消えたりなどしなかった。



だが少女には、彼が消えたりしないことが
むしろ救いだっただろう。


小さな手は、再び包帯を巻き始める。




彼を生かした。



そして、むしろそのために



少女も生きた。















銀の雫に似て
頬をつたうものは、いつも嘘のように・・・。





第一章






エルゼリオが館を出る仕度を終えたのは、
出発と定めた日から二日前の朝だった。

いざ旅に行かんとするとき、
その旅の質が低い場合、はたして仕度なるものは必要なのか。

むしろ、この疑問に時間を食ったようにも思う。


いずれにせよ、たいした荷物も必要とせず、
むしろ人々の目を欺かんとするために労した。

偽荷物の仕度。
まんざら悪い気もしないのは、こういったことを楽しんでしまう
彼の性分にある。

一方で、忙しそうだったのはフェイティシアだった。

自身が休暇前であり、自分の荷造りも必要であるのに、
彼の「偽荷物」づくりのために、骨を折った。

彼女がきびきび働いている姿を見ることは、
彼にとっては楽しいひとときではあったが、
胸が痛まないわけではない。

その他大勢の騒ぎには、むしろもう少し要領をよくすべきだと
眉間にしわを寄せた。



せめて。
せめて、フェイティシアを助けるためにも要領はよくすべきだ。


そんなことを考えながら、旅の前日の朝
エルゼリオはベッドに横になり、頭の後で両手を組んで
むすっとしていた。



「何様のつもりですかっ!そこの人。」



ああ、ほらまた来た。




エルゼリオは、瞳だけ動かして甲高い声で叫んだモノを見た。

その「モノ」は、どうやら鼻息が荒い。
昨日も荒かった。おとといもだ。



ああそうか、それが常時普通の状態なのか。



エルゼリオの無言に、その「モノ」=ライジアは
ますます眉間にしわを寄せていく。
下唇が極めて鼻に近く上がり、ああ、
恐ろしい表情だ。
こんな動物見たことが無いな。
そういえばさっき「何様」とか言っていたっけ?


「・・・エルゼリオ様。」


と、華やかな金髪もさわやかに、
男は自らに「様」をつけた。

さも当然の呼称であるかのように、
悪びれる風でもなく、堂々としているところが、
かえって隙が無い。

その答えに、ふっ、とライジアは微笑んだが、
次の瞬間、すぐ近くにあった彼の読みかけの本を手に取るやいなや、
思いっきり彼めがけてぶん投げた。


しかし、彼はたちどころにその本を掴んでしまう。


恐るべき反射能力も、その後の盛大なあくびで、
たいしたことではないように見えた。


「・・・くっ、敗れたり。」


ライジアは無念を口にすると、
「あきらめないぞ、おおう!」と小声で何度も繰り返した。

眼の下は心なしか青い。

ああいう麻薬中毒患者を、彼は見たことがある。
あんな召使いがいるとは、
実に、実に遺憾だ。

ライジアにとってエルゼリオは「そこの人」。
主人を「「人」呼ばわりである。

仮にも領主であり、雇い主である彼に、である。

―何だ?俺の若さが不満か?
だが領主とは召使いのするような
仕事はしなくて好いのだ。羨ましいだろ。


・・・などと、彼は思わないことにしている。


ただ、嵐が過ぎ去った後の木々にとどまる小鳥が、ふと空を見上げるような気分・・・。


詩的に言えば、そんな心持ちでいることが、
「領主であること」だと思っている。
(当然、前者が本音に限りなくかぎりなく、近かろうとも)




さて、
その小鳥は、もう少ししたら腹が減りそうだ。


エルゼリオは掴んだ本をベッドの脇に置くと、
美味しいものを探すために身を起こした。

それに、嵐がやってきて身が凍えてしまった。
さあ温めてもらおうか。


そんな小鳥な気分のエルゼリオである。



立ち上がると、すらりとした足で動き始めた。


暖めてもらえる場所は一つしかない訳だが、
(正確にいうと一人しかいないわけだが)
さて、彼女はどこにいるのだろうか・・・。


楽しそうに、実に楽しそうな弱りきったはずの、
空腹の小鳥・・・。


・・・しかし実のところ小鳥は、猛獣かもしれなかった。



**




かたり、  、   、  、



絹のようななめらかな指を、古びた白い包帯がすり抜けていった。


館の3階、屋根裏部屋の倉庫は
殆どの召使いが、埃を避ける。つまり開かずの間である。


しかし、暫くこの屋敷を離れることもあり、
どうも細かな所にまで、眼を通しておきたいと
フェイティシアは思った。



いつ帰れるかもわからない。
だからこそ、
少しでも、屋敷のことを覚えておきたい、
といった願望があった。




もしかしたら、もどってこられないかもしれない・・・。





そんな不安が、いつも彼女の胸中に渦巻いている。
酷く苦しい、光を通さない闇に似ていた。

フェイティシアはそんなとき、
いつも何かに祈っている。


真っ直ぐ、前に進めるように・・・。




ああ・・・。
けれど、その前に彼は旅立ってしまうのだ。

例え王都とはいえ、
エルゼリオの話ではいつ帰れるか、わからないとのことだった。

エルゼリオが王の側近として働く間に、


もしかしたら自分の存在が忘れられてしまうのではないか?


といった不安をフェイティシアは感じている。

あの人を、心から愛している。
その一方で、時は無情な力で人々の記憶を押し流し
変質させていくものだ。





・・・もし、このまま毎日でも彼の側にいたなら、
彼の願いを拒絶することが
難しくなりそうだわ・・・。





そんな思いが胸中をよぎり、
彼女は思わず赤面した。

確かに、昨日は彼に待っていてくれることを望んだし、
そのために自分ではびっくりするほど
大胆なことをしてしまった。


今でも、考えると唇が震える。


フェイティシアは長いまつげをふせながら、
誰かに見られないように
その唇を白い両手でそっと隠した。



こんなことでは、召使い失格なのに・・・。



ありえない、とは言わない。
けれども、あってはならない。


彼女の反省はとめどなく心からあふれ、
赤面しながら仕事がひと段落すると、
館内をあてどもなくさ迷わせた。

館はどこもかしこも、懐かしい思い出がある。

少し目新しくなった家具も、
見慣れないものも、窓から見える風景も、
そして当然、あまり入らない部屋にも
興味を向けずにはいられない。


本当は、誰もいない場所を探していたのかもしれなかった。
ひとり、
自分の心を取り戻せる場所を・・・。


フェイティシアが部屋へ足を踏み入れてから、
まず始めにしたことは、一つしかない窓をあけることだった。

ふわふわのほこりは心なしか青白い。
どこかくすんで、
すべてを隠すことを躊躇わない。

彼女はまず、
錆び始めて動かなくなった窓枠を、
両手いっぱいに押す。

ぎい、ぎい
と苦しそうな音をたてて、窓が開くと、
部屋が深呼吸をしたように
外の空気が流れてきた。

心地よい冷たさ。
爽やかな光に透かされた葉の香り。


次に、雑巾で窓の埃を丁寧に払い、
濡れた雑巾で拭くと、
ガラスも見えないほど透きとおった光を通す窓になった。

そして、近場にあった箱を片付けていたところ、
一つの小箱が視界に入ってきたのである。


小さな木箱の上にたまった埃が、
風に吹かれて空気に散らばった。
少しだけ咳をして、
フェイティシアは風に乱れた髪を、そっと指でなおす。
光をうけた大きな瞳は、
興味深そうに小箱に視線を注いでいた。

幼子に手を差し伸べるような優しい動作で、
彼女はそれを手に取る。

これは、


いつか見たもののような気もしたし、
まったく見たことが無い小箱でもあった。







窓際に立ち、雑多な物置の中で彼女は、
いつかの光景を夢想する。

しかし彼女のこころには、まだ定まった形をとって現れてはいない。









片手に抱えていた小箱の中から、
ほんの弾みで落ちた
「包帯」は、
白い軌跡を描いて、
あわてて掴もうとした彼女の指をすりぬけていった。

巻かれた包帯は床に弾む。
転がって、白く乱れ、閉まっている扉のまえで
こつんとちいさく音をたて静止した。


彼女は、その様子を
当然とは思わなかった。


「君よ我が腕に」


熟れ瑞々しい果実の唇は、ゆっくりとその言葉をつむぐ。


その先は思い出せない。
けれども、その言葉だけが、彼女の心からぽつりと流れた。


思い出せない。
ああ、なんの言葉だったかしら。
歌?物語?御伽噺・・・聖典?


フェイティシアは窓枠に小箱を置いて、
ただ床に乱れた包帯を見詰めた。
同じように、彼女の心も、記憶も乱れている。



大丈夫。
すこし落ち着いて、考え直してみましょう。


ええと・・・。



しかし、彼女のこころは、まだ何かを恐れ
しばらくの間、フェイティシアを呆然とさせた。




部屋に舞う埃が、
光を受けて銀の粉のように彼女を包み
過去を鮮明にすることを
惑わしてもいるようだった。







***





「終わりましたわよ。」

廊下を通りがけに、いかにもたいした仕事ではない、
といった風情のナイルに出くわした。


旅支度は済んだ、ということである。


「わかった。ありがとう。」


エルゼリオは極めてにこやかに微笑んでみせる。

ナイルもにこやかに微笑んだ。


「ありがたいお言葉ですわ。」

そして、二人は笑顔のまま、二秒ほど静止した。

今、ここに外の召使いがいたならば、
足音を立てずに持ち場に戻っているだろう。

心の中は「なんとなくあの場には絶対いたくない」、だ。

このにこやかな仮面は、今日の朝日のように清清しいのだが、
その場の空気が如何に極寒であることか。
どの戦場でも、これほどの空気は作り出せまい。



先手をきったのは、当然エルゼリオである。

「じゃあ、「ほかの召使い」ももう終わって休んでいるんだろうね。」

ナイルは微笑んだままだが、眼が怖い。

「当然ですわ。「ほかの召使い」達は「それぞれの場所」でゆっくりと休むよう
申し伝えました。」

「じゃあ、礼の一つでもいってこよう。」

「それは領主さまに代わりまして、私が済ませました。
どうぞ『お一人』でおくつろぎください。
『ほかの召使いのことは、お気になさらず』。」

ナイルは微笑むと、きびすを返して歩いていった。

どうやら余計な情報を言うつもりもないらしい。




たとえば、彼女がどこで休んでいるだとか・・・。




エルゼリオは笑顔を崩すと、先を急ぐ。


小鳥は嵐のあと極寒の地へ赴いたので、なお腹が減ったのである。




**



きい、きい、きい



と、窓のきしむ音の途中で、


こつん、こつん、ぱしん、こつん・・・


と奇妙な音が繰り返されていることに、
フェイティシアははっと気付いた。

いつのまにか、ぼんやりとしていた。
こんなことは、そう最近までなかったのに・・・。

と、彼女は思い返して急に恥ずかしくなった。
白い肌が淡い桃色に染まる。


召使い失格・・・。
こんな状態じゃあ
旅から帰ってきても、召使いとして私を
迎えてくださるかしら?


そんな感情を抑えつつ、小箱をそっと床に置くと
手の甲で頬に触れた。
少し熱い。



こつん



「??」

フェイティシアは少しだけ滲みそうな涙をこらえ、
あわてて窓に視線をうつした。

外から投げられ、窓のガラスに当ると、
そのまま床に落ち、ころころと転がっていく。

どうやら音をたてたものは、窓の外から部屋へ向かって投げられた小石だった。


フェイティシアは不思議そうにちょっとだけ首をかしげた。
小石をひろう。
柔らかな指の間での、小さな小石が示す意図を、
フェイティシアは汲み取ると
窓際へと向かった。


「・・・・のお〜〜。あ〜〜〜の〜〜〜お〜〜〜」


ここは三階だったが、
どうやら下から叫んでいる人物の声だった。


妙に間延びしている。



「た〜〜〜〜の〜〜〜もおう〜〜〜〜〜」


窓枠に手をかけ、身を乗り出すと、真下を見た。
三階も高くないとはいえない。
真下までは、数十メートルある。
そこから小石を投げる人物もめずらしいが、
フェイティシアの視界に入った人物もまた、
珍しい風貌をしていた。


髪の毛が、抜けるような白さだ。
あれは、銀髪なのかもしれない。


いびつな巨大丸眼鏡をかけ、
大柄な人物だがこの辺では見かけない風貌である。

一見三十代後半に見えるが、フェイティシアにはなんとなく
もう少しばかり若いのではないか?とすら思えた。
かすかに目の下にクマが見える。
眼を使う仕事をしているのかもしれない、
とフェイティシアは思った。

思った瞬間に、どの薬草を処方した、どういう対処をするべき常態か、
といったような簡単な治癒法すら思い出した。

男の薄く淡い青の瞳はぎらぎらと光を反射させていた。
神経質な細い目は、しかし愛嬌のある形をして
子供っぽい笑みを、終始浮かべさせているようにも見えた。

ただ、あまり見ない顔だちだ。



他国のひとかもしれない・・・




と、フェイティシアは直感した。


しかし、フェイティシアを見るなり男は
慌てて何かわけのわからない言語を話し始めた。
その行動は、彼女の確信をたしかにさせた。

その言葉は、フェイティシアの耳に懐かしく響いたが、
初めて聞いたようにも思えた。

意味はわかる。

彼が言っている言葉、それは「あぶない!」だ。
どうやら、フェイティシアが窓枠から身を乗り出していることを
危険だと言っているらしい。
動揺したために、本来使っていた言葉が出てしまったようだった。


聖典に、近い言語だ。


それとともに、突如
彼女の眼に転がる包帯のビジョンが見えた。

デジャヴに似た感覚だった。

ものの数秒。

しかし、終わった後は煙よりも余韻がない。








「だいじょうぶです。いまそちらに、お伺いいたします。」


と、フェイティシアは意識をはっきりさせ
丁寧に答えた。

男はしきりに頭を下げ始めた。

さげはじめるどころか、地面に手をついて
拝み始める始末だった。

奇妙に思いながら、お客様をもてなすために
駆け足になる。

フェイティシアは階下へ降りる間すれ違う召使い達へ
もてなしの準備を指示していた。





****




数分後、フェイティシアが開けた扉の前には、
先ほどの男が申し訳なさそうに立っていた。

この扉は、正門ではなく裏口である。

本来の玄関やロビー、広間からは随分と離れた場所にある場所だ。
井戸も近く、生活臭もする。


随分奇妙な場所から、迎え入れてしまったわ・・・。


と、フェイティシアは少し困った。

そして目の前のお客様を眺めると、
さらに奇妙なほど申し訳なさそうにしている男に、
不思議な感覚を覚えた。

どうやら彼が身にまとっているのは、
この国の着物ではない。
着物は分厚い皮でできており、防寒用のようだった。
寒い土地特有のそれは、
どうやら港でよく目にする異国の旅人の服装に近い。
薄汚れた服は相当着古してあり、
布は荒っぽく織られて
ところどころ汚れていた。

腰に剣を付けない男性も珍しく、
また腰のほうへ剣を背負うような
なるべく闘うことを避けるような
この地方独特の旅姿をしているわけでもなかった。

ただ、大きな皮の袋を背負っており、
ときどき中身はかちゃり、と妙な金属音をたてていた。


どうしたものかしら、
フェイティシアが用件を聞こうと口を開く。
すると目の前の男は
はっと気付き

「ああああの〜ですね。えっ、エルゼリオ君にですね、
おおおおあいしたくて、ですね・・・」


と慌て始めた。


フェイティシアは軽く頭を下げると、
万遍の微笑みで彼を迎えた。

その笑みを見たとたん、男は奇妙にも
涙を浮かべたようだった。


迷子になった子犬のように、男は身を震わせている。
なぜかはわからない。
けれども、今にも泣きそうな表情をして、
被っていた帽子を手で握り締め、口をへの字に曲げていた。

「ようこそいらっしゃいました。
このような場所から申し訳ありませんが、
お客様を主人の下へご案内させていただきます。
どうぞこちらへ。」

「・・・」

男は無言で、フェイティシアの後をついてきた。

フェイティシアはその間、
広間で行う行動を反芻していた。



まず、この屋敷へ訪れた客人は本人が断らない限り、
屋敷へ一泊することは確実としている。




貴族の場合は何日でも泊まらせる。
主人の命に従い、日数は決められる。

また、一般人でも主人と親しい人物には
特に丁重にもてなす。
おそらく今回はこの場合であると、フェイティシアは直感している。

その際、彼女はこのお客様に
お茶を、まず飲んでいただこうと思った。
疲れを消すものだ。

なるべく苦味を消すために、
客人の好みがあれば、好みに合った果実を選んでもらい
すりつぶしたものに混ぜる。

それで、随分後をあるく客人の疲れは消えるだろう。


フェイティシアはくるくると、予定を考えているが
それは当然客人と主人の意見も考慮させるため、
がっちりとしたものではない。



あれこれ色々ともてなしを考える彼女はしかし、気付いていない。


今客人がもっとも苦心していること。


すなわち、
細い廊下から大広間へと向かう間、
男は何度も目の前を歩く、この神々しい存在に
話しかけようとしていた。

幾度も、いくどもそれを試みようと、
喉まで声が出掛かっていた。

しかし、当然のように出るはずの彼の言葉は、
急にからまって出なくなり、
頬は高潮し頭に血がめぐって、さらにわけがわからなくなる。

足ももつれそうになった。

それでも、声をかけずにはいられない。

けれども声が出ない。

目の前を、甘い香りとともに
ふわりと茶色の眼に優しい色をした長い髪が、
幾度もゆれている。
にもかかわらず、声は出ない。

いや、それはこまる。
私がここへ来たのは、彼に会うためと
もう一つの目的があって、なのだ。

声だ。声かけなくては。

・・・いちおう名前をよんでみよう。

いくぞ。
・・・ちょっとこわいな。
いや大丈夫。


深呼吸深呼吸。


出す。だすぞ。だすだすだす。




「・・・ふぇ・・ふぇいてぃしあさん?」




少し間の抜けた声に呼び止められ、
驚いた当の本人は歩くのをやめた。
振り向く。

髪が嘘のように美しくなびいて、弧を描いた。
やわらかな肢体が、この世のあらゆる法則の美しさを引き出し、
彼女がふりむく際に起こす動作を
最高に心地よい感覚として
見るものに迫らせた。

泣く子も黙る。
どんな人間も、呆けてしまう。
あらゆるものが見とれて時すら止まる。
そんな一瞬。

そして彼女の驚いた表情の麗しさに、
男はさらなるショックをうけたようだった。



二人は一緒に驚いて、そのまま静止していた。


むしろ男のほうが重症なくらい驚いていた。




そんな表情させるつもりはなかったんだ!






と、彼は訴えたくて口をぱくぱくさせた。
空気はどんどん口から気管へと入っていく。
もう吸えない。溢れそうだ。





そして男はあろうことか、
名乗ることも無いままその場につっぷしたのだった。








*****




騒がしい。

広間に召使いが集まっていることを知ったエルゼリオは、
小鳥のふりをやめた。
(もちろん、真剣にやっていたつもりはない)

エルゼリオを見るなり、召使い達は皆
「見知らぬ客人がフェイティシア様の前で・・・」
と解説する。

「何?」
と問うエルゼリオには、苛立ちがある。
「客人」と「フェイティシア」
そして「の前で」

とくれば、今までの経験からすると
あまり良い状況は思い当たらない。






まず1として、フェイティシアが口説かれる。
これが大多数。

2として、結婚を申し込まれる。
これは少数だが、いつも追っ払うのに手間どる。

3。めったにないが、フェイティシアをさらっていく。

これは、彼の過去において一回だけ目撃している。
まだ父がいるころで、フェイティシアも小さく若かった。
その時は執事が発見、万事解決だったが、
犯人とフェイティシアは領内から出てしまいそうになって
大変危険であった。

未遂事件ならごまんとあっただろうが、
正直なところその点に関して
我が館の召使いは相当鋭くなっている。


が、しかしそのどれにも当てはまらない男。





それがこいつだ。




今、エルゼリオの前の柔らかいソファーに寝そべり、
フェイティシアの手によって薬草をにじませたタオルを
眼に当てられている男。

「びじんがびじんが・・・」

などとうわごとを終始つぶやいている、この男。





エルゼリオはふーっ、とため息をつくと
同じくソファーに腰をかけ
背もたれに片肘をついて、思わず手で顔を覆った。

常識、それはこの男には無い言葉だ。
出会った時から知っている。


陶器を目の前の机に置く、軽い音がし、
エルゼリオはフェイティシアを眺めた。


銀器から流れる紅茶をカップへ入れる彼女の
俯いている姿勢と、
全体の官能的な輪郭を、彼は視線でなぞる。

鼻梁から唇の輪郭は、特別に整っており、
そこから首、豊満な胸、そして流れるようなスカート。
どこ場所から見ても、その輪郭は
吸い込まれそうな優しさに満ちていて、
彼は満足げに微笑む。


彼女が見つかったことは、
とりあえずこの目の前の男に感謝するとしても・・・。

思わず眉間にシワをよせると、盛大なため息をついたエルゼリオに
お茶を用意し終わったフェイティシアは、


「あの、この方は?」


と心地よい声で尋ねた。


エルゼリオはいたずらっぽく、「教えて欲しい?」と尋ねる。
「だったら、フェイティシア。」
と、悪びれる風もなく微笑んでみせた。

フェイティシアは昨夜のことを思い出し、
彼が望んでいることを察知すると、
思わず横を向いて俯いた。

頬が紅色に染まっている。

仮にも客人の前での行動ではないと、「・・・駄目・・・です。」
と恥ずかしそうに断った。




エルゼリオはその姿を見ただけで、思わず手を伸ばして
彼女を彼が座るソファーへ押し倒したくなったが
彼の目の前の男のうめきが
止んだのを察知して、行動を起こすことはあきらめた。


エルゼリオは彼女を見ると、再び軽いため息をついて
しぶしぶ答えた。


「名前はエレンガーラ。医者だ。
といっても、薬草師じゃなくて、なんというか、
相当無茶する医師っていうか・・・・。
医師なのか?いや、わからん。
そういう治療方法を、聞いたことが無いんだ。

・・・ともかく助けてもらった事がある。」

エルゼリオは胸のあたりを叩いて「ここのことでね」
とフェイティシアに告げた。

「まあ。じゃあ、命の?」

フェイティシアが慌てて、持っていた器を落としそうになったのは、
彼の胸を貫いた傷痕が
凄惨なものであることを知っているからだ。
彼女の足が小刻みに震えていることに、
エルゼリオは気付かない。


「そう。おい、おいガーラ。聞こえてるか?」
と、改めて呼んでみた。
すると、

「ガーラって呼ぶな!」

女みたい、から、言うな、
と片言な低音でぶちぶちつぶやいて、エレンガーラは起き上がった。
どうやら意識を取り戻したようだ。
だるそうに起き上がり、ソファーに座りなおす。


そしてぽん、と膝を手で叩くと、


「エルゼリオ。おう。ひさしぶりだねええ〜」

と羊が鳴くような、
のん気さ満ち溢れんばかりの返事をした。
先ほどの病人ぶりはうってかわって、
実に晴れやかな表情である。


「こっちの言葉にもいくぶんかなれた。
是非ここに来た。お誘いくださったありがとう。」

「・・・ここに来たかった、誘ってくれてありがとう、と言ってる。
俺が、ディム・レイにいたとき、ここへ来るよう誘ったんだ。」」
とフェイティシアに解説し、
エルゼリオは「オルガルド言語で話せよ」、と促した。

「いや、それは断る。」

とやけにはっきりとエレンガーラは拒否する。

「こちらの言語を学ぶのである。邪魔するな。」

「・・・その前に、俺の言語能力が訳わからなくなるよ。」

と、エルゼリオはため息をつく。
それを見ていたフェイティシアが、かわいい笑い声を漏らした。

するとエレンガーラは、フェイティシアの声と姿を眺め、
再び筋肉を硬直させた。
顔が真っ赤に染まっているのが、肌が白いためによくわかる。

「びじんだ。」

と、つたない言葉で率直に呟いた。
そして

「びじんが○△¨#$ШжЯ・・・・!!!」


と突然立ち上がると、エルゼリオの襟首あたりにつかみかかり、
おもいっきり振って、最終的にはしくしくとエルゼリオの胸で泣き始めた。


「・・・全然わからん。」


とエルゼリオは呟いて、慌てるフェイティシアに視線を送ったが
心中としてはエレンガーラを察していた。

「お前は・・・・おまえは、エルゼリオ君。
こんなびじんがそばにいて旅に出た。死にかける馬鹿。」

「・・・鼻水つけるなよ。」


それにお前が生かしたんだろうに・・・
とエルゼリオはつぶやく。
鼻水を垂らしながら、エレンガーラは鋭い目つきで
「感謝感謝しろ。エルゼリオくん。」
とねんを押した。その気迫はむしろ殺気に近かった。

「お前いかした、私許せない・・・。
お前はヘビ。フェイティシアさん小鳥・・・毒牙・・・が、ガブウッ!」

と、ニュアンスでなんとか伝えようとするエレンガーラは
頭を抱えている。
自分が彼を助けたことに関し、よほど恐ろしい所業をしてしまったということを
伝えたかったらしかった。
しかし、横でエルゼリオは涼しい顔で

「うんうん。俺が生きていることを祝ってくれてるのか。」

と楽しそうに微笑んだ。


一方
フェイティシアは目の前で起こる妙な光景を眺めつつ、
この旅人へ話しかける機会を欲しがっていた。





何せ、彼、エルゼリオの命を救った存在である。





召使いとしておこがましいかもしれないが、
個人的に感謝の念を伝えたい。
彼の命を救い、生きる機会を与えたこと。
今、この場所にエルゼリオが存在しているのは、
一つにこの客人の存在あってのことなのだ。


エルゼリオさまは随分変わられてしまったけれど、
帰ってくることを願わない日はなかった。


フェイティシアの目じりが熱く潤む。


彼、エレンガーラが彼女の願いを叶えたのだ。

そして、
エルゼリオが帰ってきてから一緒に過ごした時間。

この時間すら、エレンガーラがいなければ
無かったのかもしれない。


召使いとして、許されないことではないが、
本当に早く、今すぐにでも「ありがとう」と伝えられたら
どれだけいいだろう。


フェイティシアはまぶしそうに、
こっけいな旅人を見つめた。


もう、口のすぐさきまで出かかっている。


が、その躊躇いの間にドアが開くと、執事が入ってきた。
フェイティシアの背筋が、心なしかぴんと張った。
彼女の脳裏をかすめる考え。






・・・さも我が物顔で、主人と客人の対面を裂くようなことは
召使いとしてはしてはならない行為。





フェイティシアは少しだけ寂しく微笑むと、
「失礼します。」と呟き、挨拶を執事である叔父に任せた。

去り際に「仕度を」と、叔父のロイドはフェイティシアに囁いた。

「はい。」とフェイティシアの小さな声がひびく。

扉が閉まると、エルゼリオは一連の様子を見て見ぬ振りをしつつ
思い巡らせていた。





***




ロイドが酒を注ぐのを眺めながら、
フェイティシアの入れてくれたお茶を
美味しそうに飲むエレンガーラは


「エルゼリオ。・・・よく聞け。」

とオルガルド語で話し始めた。

まだ幾分エルゼリオが、つたない言葉で話した
エレンガーラの旅の話の大筋も、つかめていないころである。
先ほどの滑稽さを微塵にも感じさせない気配を
漂わせている。

ただならぬ様子に、
エルゼリオはロイドに視線を注ぐと「少しはずしてくれ」と指示する。
ロイドが早々に部屋を出ると、

「あの執事は、山脈出身者か・・・。随分と強そうだねえ。
あまり・・・うん。敵にしたくないかんじだ。」

「ああ。うちの館の難攻不落の人間要塞だから。で?」

酒を口にしながら、エルゼリオは眼を細め、
エレンガーラに話の続きを促した。

エレンガーラは「うーん」とうなる。
ぼさぼさの銀髪をひっかきまわし、
どう説明しようか迷ってから、話し始めた。

エルゼリオは、話が長くなりそうな予感を感じている。

「うん。まずねえ、エルゼリオのこの領地、ちょっと危険な予感がするねえ。
今、この領地をはなれるのはだめだ。
あとねえ、動いてる。今、激しく周りが動いているんだ。
だから、もしかしたら本当に危険になる。」

「それは、ディム・レイのことかな?オルガルドのことか?この国のことかな?
何か知ってるなら教えろよ。」

エルゼリオの気配は、至って静かである。
それどころか、恐ろしい静寂に満ちている。
エレンガーラには、眉間にしわを寄せ、視線をカップへと落とした。

「わからない。じつはねえ・・・まだあんまり読めないんだ。
ただ、ちょっと気になることはある。
山岳民の間での噂。『約束された宝』を守らないと、
戦争になる、なんて話がある。」

「・・・宝?」

エルゼリオは眉をひそめ、アゴに手をあてて思いをめぐらせた。

「それに、・・・アルデリア公国がちょっと今、
怪しい動きをしてるらしいっていうのも聞いたなあ。
ただ、ティム・レイと戦争になるかどうかはわからない。
たぶん・・・たぶんねえ・・・戦の相手がどうも、『宝』を持ってる国になるんじゃないか、
なんて話を聞いた。
私はむしろ、君にその『宝』について知ってるかとか、
おもに世情を聞きにきたって訳。
ミルティリアの観光もかねてね。」

「・・・それに関しては微妙なんだが、なあ、エルガ。」

エルゼリオは少しだけ考えてから、
うーんと背伸びをして天井を見上げた。

第一声はこうだった。






「俺と旅に出ないか?」




その問いに、奇妙な客人は「む?」と声をあげると
詳しく聞かせろと身を乗り出していた。





***




その日の領主エルゼリオの食事は、
広間の広さと豪華さを倦厭するエレンガーラによって、
少し狭い自室へと移された。


これでもかというほど、
調度品に視線を注ぎ、
(それも高価なものではなく、形状の妙なものや
普段は誰も気にも留めないようなものばかりだったが)
至福のため息を漏らすエレンガーラは
召使いたちの間では相当な変人に見えたようだった。

食事は牛を食べたい、牛を食べたいと連呼するので、
早速牛の肉が取り寄せられた。
どうやら、「牛の肉」というものを
あまり知らなかったこともあったらしい。
確かにディム・レイでは、牛は珍しい動物だった。

ただ、「憧れの肉」として
この奇妙な銀髪の旅人の脳裏に焼きついており、
本物が目の前に出されたときは、
「これが!!」と驚きで瞳が輝いた。

・・・しかし残念ながら味に関しては、どうも口には合わない、
といった表情であった。
本来、肉全般が苦手らしい。


結局、野菜とミルクを煮込んだスープなど、
やさしい味の温かい食事を好んで食べた。

さらにデザートに付け足して、
フェイティシアが入れてくれた飲み物が飲みたい、
と図々しく所望。
先ほど出された果実汁と組み合わせたお茶を
お気に召したようだった。






客人が訪れると、それがどんな人物であれ
召使いたちは楽しく仕事にとりかかった。




当然、噂話のネタを増やすためでもあったが、
普段行わない仕事を行うことが
少しだけ新しく新鮮に思えるからだ。

大抵、丁重におもてなしする権威者の場合などは、
この国の常識を基準にするため、
間違いなどは到底できない。


しかし、今回の客に関しては少しだけ気分がゆるくもなった。


というのも、この客人の常識は
ちょっとだけ風変わりであったためである。




「・・・あのお客人は、ちょっとおかしいです。」


思わず指を眉間にあてながら、
シワをのばしつつライジアは、フェイティシアに愚痴った。


「どうかしたの?ライジア。」

と、やさしく包み込むような返答が帰ってくる。
ライジアは顔をあげ、口を尖らせると
不満げにつぶやいた。


「・・・だって、さっきわたし、初めてお会いしたんです。
で、でも何故か眼が合った瞬間、
わたし、あの人となんだか意志が通じてしまって・・・・。

気がついたら、妙な挨拶を・・・・。」


ライジアの不満は、どうやら自分でも想像しなかったことを
自分自身がやってしまったことにあるらしかった。

妙な挨拶というは、後に目撃した召使いの証言によると
お互いの手のひらをぱちんと叩き合い、
両手を握って二人で踊るような体制をとった後、
目の前で牛の肉を租借するエルゼリオに

「人類の敵!」

と宣言するというものだった。

挨拶というよりは、主人に対する宣戦布告というべきか。
のちにそれは「呪いの言葉」のようであったとは、
当時目撃した召使いの言である。

エルゼリオは気にせずに
「さがってよし。」といいはなち、
その言葉で我に返ったライジアは、
妙な行動をとった自分に納得がいかないまま、
エレンガーラに丁寧な挨拶をし、
お茶を入れるフェイティシアのいる部屋へと帰ってきたのだった。


ライジアの表情は、実に複雑であった。

「私、召使いとして反省しております。
でも、この清清しさは・・・・わたし、素敵な味方を得た気分なんです。」

不満でありながらもしかし、実に楽しそうである。



一方、ナイルの反応はというと
「あの男は・・・きっと戦いにはまったく無縁なのね。
指が綺麗すぎるわ。・・・だめね。」
という、辛辣な結果であった。

これも、召使いの服を脱げば
ほぼ女戦士と歌われるほどの剣技に勝れたナイルだからこそ、
こぼせる愚痴であった。



その横で、そろそろ湯浴みの仕度にとりかかる指示を
出そうとしているフェイティシアが、
楽しそうにお茶を入れ終えた。

「お医者様でいらっしゃるそうです。
わたし、少しばかりお話、聞いてみたいです。」

とは、薬草に詳しいフェイティシアの素直な感想である。




彼女は、召使い二人にとろけそうな微笑を見せた後、
お茶セットを別室へ運び、エルゼリオとエレンガーラの前に並べた。

「エルゼリオ様は、どちらの果実シロップにいたしますか?」

との問いかけに、「甘いの」といつもどおりの反応をした後、
目の前でエルゼリオを観察し、にやにやっと笑うエレンガーラに
咳を二回して牽制した。

「エルゼリオくん、甘えんぼうだねえ。」

「・・・うるさい。」
と、エルゼリオは顔を赤くしてから
「そうだ。」と思いつきフェイティシアに

「よし、客人には俺自ら、お茶の味を調合してさしあげる。」

とのたまった。

その表情には、いつものいたずらっぽい笑みが見える。

「エルゼリオさま。」
と、慌てるフェイティシアの横で、
それはまずいだろうという組み合わせの汁が、
エレンガーラのお茶にこれでもか、これでもかと混入されていく。




最終的には異臭を放つ、見たことも無いような色に濁った。

「さあ、飲むがいい。」

その表情は、悪魔の微笑みそのものである。



ここで悪に屈するわけにはいかんと、
エレンガーラは引かず、それを受け取る。
フェイティシアはおろおろし、
「御飲みにならないほうが・・・」と告げた。

エレンガーラはそんなフェイティシアの表情を見ると、
眼を輝かせた。

その瞳の輝きは、どこか狂信的であったとは、
隣の部屋から様子を見詰めるライジアの言である。

エレンガーラの胸中は、フェイティシアの言葉
「御飲みにならないほうが・・・」
その一言によって、完全に乱された。
この旅において、経験した中で最高の言葉だった。


どうやら彼の眼には、
フェイティシアを尋常でない美しさとして捉える知覚があり、
それが気絶やフェイティシアに接するときの錯乱状態の原因らしいと
のちにフェイティシアは理解する。

しかし、何も知らない現時点では、
フェイティシアの目の前で臆することなく、
むしろ楽しそうに、眼を輝かせながら
「おきづかいありがとうございます。」
と丁寧な返答をかえし、
この気持ち悪い液体を飲むだけの異常な精神の高揚を、
どう認識してよいか、非常に迷った。

ただ、そのあと液体を盛大に吐いて突っ伏した客人を
丁重に介抱する使命だけは、
きっちりと認識するにいたったのだった。


銀器のカップが床に転がり、小さな音を響かせた。






***







「・・・・あのなあ、エレンガーラ。」


「・・・うん?」



湯気が立ち込める中、客人が訪れたときに使われる浴場で、
エルゼリオとエレンガーラは湯につかっていた。


先代の館の持ち主オルガルドはよく、
この浴場を仲間の軍人兵士や、多くの兵士達へ解放し
自分も使っていたという。

そのためか、恐ろしく広いのが特徴であり、
恐ろしく湯量が必要であることも、
また
恐ろしく入念に磨かれている大理石のため、
少し足場に気をつけねばすべるという難点もあった。

天井は輝く星空が見えるようガラス張りであるが
湯気に埋もれてうまく見えないときもままあった。


だが、直径十二メートルの円に形づくられた湯船の中央から
精緻な大理石の細工が屹立し
その先端から湯が流れ出すのを見れば、
旅人も客人も、どの人種も喜んで湯の中に飛び込みたくもなる。

この浴場が開かれる機会は
客人の到来のほか、
年に数十回、館や領地の人々が終えた仕事の節目などに、
子供も含めて与えられている。

毎日領主が一人で使ってもいいが、
この湯を噴水のように吹き上げるのには
裏方の力仕事が必要なことも知っているので
エルゼリオは一人で入ることを好まなかった。

エレンガーラは、沢山の湯にはしゃいでいる。

浴場に入ってから、三回滑った。




・・・彼のはしゃぎようは、理解できる。



つまり、彼のいた場所は極寒の地で温泉を知ったのは
旅をはじめてからだった。
さらに、彼のはいった温泉の大半は
自然に湧き出た温泉だったため、
このように人口の浴場で、なおかつ装飾された場所は
殆ど足を踏み入れたことはなかったのであった。


「いいねえ、エルゼリオくん。さいこうだね。」

殆どエルゼリオの言葉に聞く耳を持たないエレンガーラは、
まず始めに髪を洗い始めた。

湯船から桶で湯を掬い取り、
銀色の髪を洗い流す。
横で、無造作にエルゼリオが「これをつけろ」と
ツボを抱え、木製のスプーンで中身をすくうと
エレンガーラの髪に垂らした。

「??」

何か髪に粘り気を感じたところ、
わけもなくエルゼリオの指が髪を引っ掻き回す。
まもなく泡が立ち、エレンガーラの指に絡まって通らなかった
髪がすんなり手櫛でもとおるようになった。

「これでましになるぞ。」

と、のたまうエルゼリオに、
洗髪料を知らなかったエレンガーラは、
わけもわからず笑いながら髪をめちゃくちゃに揉み解した。

訳がわからない結構!
この世の中は未知に溢れている。

エレンガーラは旅に関していつも、迷ったことが無い。
彼にはこだわりが、殆ど無いからだ。
全部受け入れる。それで結構。


終わるとエルゼリオを見習い、
体も同じように洗って、ようやく湯船に入った。
実に満足した疲労であった。



「・・・・あのなあ、エレンガーラ。」


「・・・うん?」



湯につかりながら、エルゼリオはぼんやりと、
噴水する湯を眺めている。

「ひとつ、聞いて欲しいことがある。」

エルゼリオの頼みに、エレンガーラは「ふむ?」
と適当な返事をした。

「真剣に、真面目な話として・・・お前は医者なんだよな?
この旅で、色々知りもしたこともあるだろう?」

「・・・?おう。そうだねえ・・・まあ、国や諸島には
色んな医療があるからね。魔術、あるいは儀式、薬草学、
でも、僕がやってることをしてる人間は
まだ発見できてない。・・・・まあ、ちょっとオカシイからねえ、僕は。」

それから、エレンガーラは諸島での妙な儀式や魔術など
見てきたことを話した。


それは、触れれば病気がすぐわかる呪術師だとか、
言葉を患者にかけて直す呪術、
暗示、といった技術、
人形を使う方法や、火を盛大に焚くような儀式といった
奇妙なものばかりだった。

しかし、エレンガーラの瞳は輝いていた。

楽しそうな笑い声のあとで、
エレンガーラは「僕がやるやり方をやってる人が
みつかるといいんだけどね。」と
さびしそうにつぶやいた。

ミルティリアですら、彼のように万人の体の内部の仕組みを知り、
骨や肉を糸で精巧に繋いでいく技術を持つものはいない。
おかげで、彼はちょっとした奇妙な器具を
考案し、武器屋や鋳物師などに依頼しては断られたり、
恐れられたりしてもいた。

「諸島の向こう側にいくほど、儀式が強くてね。
おまけに、ちょっとした不思議な現象も見れるんだよ。
怪我も、不思議に癒えてる。
人の手が触れると・・・癒えるなんてねえ。
あっち側には、必要ないかもねえ・・・僕の医術は。」

「・・・ああ、諸島の向こう側・・・じゃあ、あの国
ロアーダにも行けたのか?」

すると、問いに驚いたように反応したエレンガーラは
「いやいやいや。」と全否定した。


「あの国には入れないよ。メルフィエリア大陸の人間はね。
あの島、あの国は『神の国』なんだ。
こっちとあの国にまたがる、諸島ですら
あの国の神々しさに畏怖の念を感じている。

旅をしているとわかるが、
異質な人々っていうのはいるもんだねえ。
諸島の人間は、なんていうかとても均衡がとれた姿をしていてねえ・・・。
気が休まらないよ。心臓ばくばくしてしまって。
ロアーダには入れないけれど、
近くの諸島に住んでいる人間なんか、
人間じゃないみたいだ。」


「へえ。見てみたいね。」

と、エルゼリオは気のない返事をする。
特に接点も無く、その島に住む人間にすら眼にしたことのない
ロアーダにある興味は、もっぱら領地と諸島を結ぶ交易の点のみだ。

しかし、エレンガーラは諸島に赴き何かを感じたのか
熱い口調で語りたいようだった。

「ロアーダはなんてったって、謎の国だからねえ。
色々情報も仕入れたが、どうやら美人ばっかりで、文化は高度らしいし、
その反面、極度に寿命が短い・・・なんて話もね。
いつか、是非赴きたいが
こっちの大陸の人間は王族ですら、なかなかお目にかかれないらしいしねえ。

ま、世の中には色んな人間がいるよ。
君にも、初めて出会ったときには驚いたが・・・。
ちょっとした驚きを隠せないもんだよ。人の肌、骨格、声、容姿、服装文化
慣れてはいてもね。まあ、その違いが楽しくていい。」


「へえ。神の国ロアーダか。
交易を通じては、接触があるが諸島の人間ばかりでね。
特に驚きは感じないが・・・。
まだ、ロアーダの人間にあったこともない。
伝え聞くこともあるが・・・。」

「そりゃあ、エルゼリオくん。
君の顔なり骨格なりを見る限り、君は諸島の人間に近いものがある。
色々混じってそうだけど・・・。
山岳民のほうにも近い気がする。
とにかく君は、ちょっといなそうなタイプだよ。実におもしろかった。
僕が塞いだ傷もあるし、
なかなか見ものな体つきしているしねえ。」

「見ものっていうな。」


エルゼリオは自分の言われように苦笑する。
エレンガーラはにこにこしながら、
彼の整った体に走る、一本の長い傷跡を眺め、
「さらに格好良くなった。」と満足げに笑った。

実際、傷の一つもこしらえない男というのは
この国、あるいは大陸では蔑視されることもままあった。
現在では平和な国ミルティリアにおいては、
こういった戦火による傷は、過去のものとなりはじめてはいる。

しかし、未だ戦が耐えない国、内乱、反乱の多い国では、
男っぷりを傷によって、はかられていたりもした。

エレンガーラのいたサザランド近辺においても、
傷は戦士の誇りと勲章である。


「まあ、この領地にきておもったよ僕は。
綺麗な、雪のような人間がいっぱいだ。キラキラだ。」

雪のようだ、とはエレンガーラがよく使う褒め言葉である。
主に美しいものに形容して使う。
どうやら、色が白いということではなく、
結晶の形状の美しさに模しているらしかった。

「じゃあ、うちの召使いはその中でも最高に綺麗な雪だろうな。」

「そうだった。君がサザランドで会いたがっていたことが、
よくわかった。凄かった。めったに見ない雪だ。
・・・あんな雪はない。」

熱い湯船で妙に涼しい会話もあるものだ。

二人はつい笑みをこぼしたあと、
暫く静かに湯の温かさに身を預けていた。

が、いつのまにかエレンガーラが神妙な顔つきをしていることに
エルゼリオは気付いた。


「・・・あのふぇいてぃしあさんは、一体どこの人なんだ?
ここの国とも骨格が違う。」


エルゼリオは「うん?」と首をかしげる。
毎日、それこそ殆どの間一緒にいると、
そういった点に注目したことはなかった。

「俺はお前みたいに、骨とか肉の形状なんかを
見たり比べたりはできないからな。
そんな風に思うのは心外だよ。」

と答えるエルゼリオには、どこかフェイティシアを遠く感じてしまい
少し不快な気分になった。

「ここの国の人間だよ。フェイティシアは。子供の頃から。」

心なしか、口が尖っているのを
エレンガーラは見逃さない。

「・・・エルゼリオ君。機嫌悪くしたかねえ?すまない。」
とエレンガーラはあやまっても少しとがった口をしたエルゼリオに
さらに重ねて謝った。

だが、意見は変えていない。


「なんとなくだけど、・・・・僕はね、エルゼリオ君。
ふぇいてぃしあさんの体の作りの完璧さに、正直驚いているんだ。
なんというか、あそこまで不思議な神々しさはない。
どこもかしこも、いつのまにか瞳をひきつけてしまって・・・。

僕はたしかにねえ、骨格や、肉や骨の違いを見る。
皮膚や、本当に細かい傷の、
どの部分がどんなもので、どんな風に傷つきえぐられたのかを
じっと観察する癖があった。

今でも、見詰めると細かく見えることが山ほどある。

でも、その中でね・・・あのひと、ふぇいてぃしあさんは・・・・
圧倒的に違うんだ。基本は同じだけど、
均衡、美しさが・・・まったく違う。

強いて言うなら、ほんとにたぶん神の国の人なら・・・
きっとあんな風だろう。
ぼくらとは違う。」

「・・・あんまり違う違うっていうな。あと、手、出すなよ。」

あまりの絶賛に一言釘をさされ、エレンガーラは苦笑した。
意外な通告だったようだ。

「まさか!お前は命知らずだよ、エルゼリオ君。
あんなに美しい人を手に入れようなんて、
それこそ罰が当る。
神を手に入れるようなものだよ。
僕には、触れるだけでも、声を聞くだけでも
おこがましいと思えるほどだ・・・。本当にね。」

エレンガーラはそういうと、顔を湯船につけてぶくぶくと泡を吹いた。
何かをあきらめているような、
悲しそうな表情である。

そして水から半分顔を出し、
恨めしそうに、横目でエルゼリオを見詰めると
口は水につかったまま「君も手を出すのやめるべきだ。人類の敵」
としゃべった。

しかしエルゼリオには
「ごうぼがぼごぼがぼぼぼがぼぼがぼっ」
にしか聞こえず、
エルゼリオは微笑みながら
「うんうん、俺とフェイティシアを祝福してくれてるんだな。」
とうなずいた。


そして、ちょっと息を吸い込むと、少し言い迷ってから
エルゼリオはついに口を開いた。



「エレンガーラ、さっきも聞いたんだが、フェイティシアのことなんだ。
というか、単刀直入に聞くが、医学的な判断から答えを求めたい。
フェイティシアの体は、健康に見えるか?」

エレンガーラはその問いにうーん、とうなった。

「・・・僕は、そうだな。切って判断するほうなんだ。
だからわからない。というか、ふぇいてぃしあさんを切るなんて、
とんでもない悪行だ。だから判断といわれても
むつかしいんだけどなあ・・・。」

「今まで旅してきた中で、得た知識での判断でいい。」

妙に熱っぽく、真剣に問うエルゼリオに、
エレンガーラは怪訝な顔をする。

・・・もしかしたら、人類の敵に力をかすハメになるんじゃなかろうか?

との疑念が渦巻いた。

しかしながら、医者としては誠実でありたいというのも
彼の願望である。

のぼせそうになる体と頭で、湯船からあがりつつ、
エレンガーラはアゴに手をあてて考えた。

「ふぇいてぃしあさんに関してだが・・・
顔色は悪くない。むしろ綺麗だ。
肌も弾力がありそうだし・・・さわると気持ちよさそうだ。
香りは甘そうだ。最高にいい香りがした。
少し、疲れてもいそうな雰囲気だったけど、
最近病気したのかな?治った後ってかんじだ。

たしかに、ちょっともろそうな気配はあるよ。」

「・・・子供も産めそうか?」

「そうだねえ、そりゃもう最高に・・・・ってエルゼリオ君??!!
何か君、よからぬ事を考えてないかい?
さらっと聞いただろ君!
君、ふぇいてぃしあさんに何かよからぬことを・・・。
君は・・・君という男は・・・・・やっぱり人類・・っ・・の・・・・・。」


その絶妙に慌てた様子に、エルゼリオはいたずらっぽそうに微笑んだ。


「・・・聞いといてなんだが、お前には関係ないことだよ。
気にするな。」



エレンガーラはその言葉と笑みに、悪魔を見た。

止めなくては、
と思ったとたん、エレンガーラの眼はエルゼリオの笑みを最後にとらえ、閉じられた。
湯から上がった脳内が、血液の循環を乱したのである。




つまり、のぼせた。



大理石の上につっぷしたエレンガーラを、
ため息をついてエルゼリオは抱える。
よく気絶する客だ。

エルゼリオは浴場を出ると、タオルを腰に簡単に羽織り
ドアを開けた。

控え室のドアを開けると
フェイティシアを含む数人の召使いが待機していることを知っている。
真っ先に、座っていたソファーでレースを編んでいたフェイティシアが
気付いて立ち上がった。


眼があうと、頬を蒸気させた。


「誰か。こいつを運んでくれ。噴水は止めて欲しい。
労働した者は手厚くねぎらってくれ。」


声をかけると、
待機していた召使い数人が、あわてて布だのタオルだのを持ってきて
エレンガーラを介抱した。

腰布を巻いていたからよかったものの、
ほぼ全裸で運ばれる客人は前代未聞である。
さらに変人扱いに輪をかけるような事態にならねばよいが・・・と
友人としてエルゼリオは、一抹の不安を感じる。

その後、無造作にバスローブを巻かれ、
エレンガーラは
豪奢な客室に大きな存在感の
ふんわりとしたベッドに横にさせられ
深い眠りへと誘われていった。





エレンガーラにかかりっきりになった召使い達を除いて
浴場の控え室には、
エルゼリオとフェイティシアの二人が
静かにたたずんでいた。







へつづく



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