「収穫祭の夜に」中編










「あなた、何者なの?」




興味津々な赤いドレスの女は、


念願かなって例の青年とのダンスの権利を獲得していた。




彼女は、自分の足取りのおぼつかなさを

精一杯細いピンヒールでバランスをとり、

隠している。




「大丈夫ですよ。僕がリードしますから。」





と微笑んでみせる彼は、


まるで先ほどの無愛想なあの青年とは

比べ物にならない愛嬌である。





「また。猫かぶって。」

「どっちがです?」

「あら。似たもの同士?」

「光栄ですね。」

「あのひとを困らせる「だし」にでもするつもりね。」




さすがに経験豊富な酔いどれの女は、

鋭く勘を働かせる。

ちらりと、例の女性を見た。



少し心配そうな、しかし

何も言えない女の表情、である。





「いやな役回りだこと。」


「それは失礼しました。もうダンスを終えましょうか?」


「ん?」





女はちらっと男の表情をのぞき見てから、

「もうちょっと踊りますわ。せっかく美男子と踊れたんだし。」

と囁いた。

周りの女達も、自分に目を向けていることがわかる。

女たちのひそやかな噂の小声。

「あのひとは誰?」

「まあ綺麗な方。」

「どこかのご身分が?」

「もしかしたら、商人かしら。」

「見たことがないわね。」

「あの女も、まあよくしたこと。」




とりあえず自分への噂は置いておいても、

彼はやはり素晴らしい踊り手である。

麗しい金髪が、ひらりとダンスホールの空気を斬っていく。

勇ましく、挑むように。

それでいて、共に踊る相手には優しく。

けれど時々茶目っ気たっぷりに。

たとえば、他の踊り手とぶつかりそうになる寸前で、

ひらりとよけて、笑顔で、



派手にお辞儀をしてみたりする。



「これはとんだじゃじゃ馬ね。あの人も大変だこと。」



と彼女は声には出さずに思った。

もう少し若ければ、必死に口説くこともしただろうに。

あるいは、もう少し身分があれば・・・?



「・・・少し疲れたわ。」

女はふと我を忘れて思い出の中へ引き戻った。

もう少し酒が必要らしい。



何かを察すると、青年は目を細めて

「では。ありがとう、ご婦人。」と彼女の手を握り、

酒場のカウンターまで連れて行き、椅子に腰を下ろさせた。

彼が手を話した瞬間、


これでもかと言わんばかりに女たちが群がる。

私も私もとさえずりはじめ、

愛想よく彼はそれぞれに応対し、ダンスを始めた。



酔った女はブランデーを注文する。


バーのマスターがビンを手に取り、

グラスに注ごうとする前に、

ぶんどって逃げた。

「お客様!!」と声にもかまわず、

向かいの円形テーブルへ向かうと、

椅子にどっかり腰掛けて、コルクを抜いた。



「このグラスをお使いになられますか?」



と、ビンごと飲み干そうとする女に、

ふんわりとした声が降ってきた。


眼だけ動かす。

思わずむせた。



「あなた・・・。」

「ここ、よろしいですか?」


目の前の女性は、柔らかく白い肩をさらして、

長い首から装飾のようにこぼれる髪をしていた。

唇が果実のように潤んでいる。

伏せがちなまつげが、長く震える。



「まあ美人!」

「・・・。」



フェイティシアは女の驚きの声に、

困ったように微笑んだ。

いつも彼女は困っている。

どう返事を返してよいのか、と。



「飲む?」



との豪快な女の誘いに、

「・・・いいえ。おことばだけ、ありがたくお受け取りいたします。」

と彼女は丁重に断った。

「まあそんな堅いことはなしにして。」

「いいえ。明日のおしごとに・・・貴女も・・・。」

「私?あはははは。いいのいいの。

あたしの仕事なんざ、ないも同然!で?

あんた。あの男の知り合い?」



突然の問いに、フェイティシアは思わずどきりとした。

どう答えていいのかわからない。

というか、真実を答えるべきか迷った。

彼が貴族であるということ。

自分が彼の若い乳母であり、

召使いであるということ。





知り合いにしては、知りすぎている。




「・・・ええ。」



と少し曖昧にした。

女は、フェイティシアのその微妙な表情から

「ふ〜ん。何。つまりあんまり言いたくないと。」

と判断して言った。

「・・・ええ。あの・・・。」

「ああ〜いいわよ。大丈夫よ、無理して言わなくても。」




隠し事を無理に暴くこともないだろう。

それは時に、不安や甘えを呼び起こしてしまうから。

女は一杯酒をあおり、

フェイティシアに体を近づけると、

こそこそと話し始めた。




「だめよお〜、あの男はかなり手のかかる男みたいだし。

あなた、気をつけなさいな。男なんてねえ〜。」



そう言って思い出したように、さらにブランデーをあおり始める。



「男なあんてねえ〜、ふらふらふらふら。

いつまでたっても自分が全てだと思ってるんだから。

『お前はこんな女だ!』なんて決め付けといて、

勝手に思い込んで突っ走って、違ったら


『わかった!わかってるからもういい。』なんていうのよ!

何がわかってるっていうのよ。全く解ってないわよ。

ああ〜。だめよ、だめだめ。」



一人突っ走り始める女は、もう誰にも止められない。

フェイティシアは横で、静かに相槌を打って聴いている。

「あの二番目の男はそうゆ〜タイプだったのよ。

三番目のはもっと酷いのよ。毎回つけてきたのよ!

付き合った8番目の奴は、あたしの仕事に耐えられないなんて

ごちゃごちゃいうし。

その割りにお金はたくさん欲しいとか言うしさ。」




周りの人々は、まるで神話のように出てくる出てくる

男たちの名前を、呆然と聞き、

最後の呪いの言葉のくだりに入ると、

おいおい泣き始める女にもうお手上げである。

フェイティシアはそばで慰めの言葉をかけ始め、

そっと嗚咽で上下する、テーブルに突っ伏した女の背中を撫でた。




挙句の果てに気持ち悪いといい始め、

その場で吐き始めた女に回りは騒然。

フェイティシアは手際よく看護をはじめることとなり、

その様子をちらちら見ていたエルゼリオは、

一通り踊り終えると、つい頭を抱えたのだった。














「まあまあまあ。こんなに飲んだくれるからいけないのさ。」

「何さ!男がいなかったら、こんなことにはならなかったのよ〜!!

男滅びろ!」

「頼むよミジィ。この女がいると、俺たちの存在ってものがだな・・・。

いや、違う違う、そうではなくて酒がまずくなる。」

ミジィと呼ばれる耕作人の女の一人は、それでも世話焼きでほっておけない

女の一人だ。

控え室の窓の夜風を取り入れて、

静かなのをいいことに床で飲んでいた男集は、

思わぬ客にうろたえる。



「何さ馬鹿〜!」

と酔った女は奇襲攻撃をし始め、

「うわっ!収穫祭なんだぞ今日は。何だこの災難は。

刈り入れが甘かったバチかなんかか?」

「そろそろ引き上げるべえ。畑祭りがはじまるだ。」

と男たちはこそこそ逃げ始める。





酔った女はうんうん唸りながら長いすに横になって、

フェイティシアの柔らかい手で、介抱されることとなった。

彼女の手は、とても気持ちがいい。

うっとりと、眠りを誘いそうだ。



「美人さんねえ・・・あのねえ・・・。」

「なんですか?」

フェイティシアの肩に寄りかかりながら、

女は涙を流してつぶやいた。




「それでもねえ〜、みんな好きだったのよ〜。

みいんないなくなったけど、それでも好きだった。今でも・・・。」

「・・・そうですね。」

「手がかかるけどねえ。これからもきっとね、ずっとね。」

「・・・ええ。」



フェイティシアは彼女を支えるように、

静かに相槌を打った。

それは、まるで彼女自身を納得させているようにも見えた。



彼女がうとうとし始めるころ、「あらあらあら」と

水を持ってきたミディが、フェイティシアと顔を見合わせ笑った。



「この方、お宅までお送りしたほうがいいかしら。」



と、フェイティシアはいつもの癖で、

つい心配してしまっている。

彼女の感情は、同情というよりは、共振的である。




しかし、耕作人ミジィは、

「フェイティシア様。この人はまあ、この町でも有名な飲んだくれですよ。

場合によっちゃあ体も売ってるんでしょう。ただ、

年が年だし流れ者らしくてね、なかなかこの領地での流儀になれずに

居つけないみたいです。やすくて寒い宿屋に泊まってるんでしょう。

あんまり顔色もよくないし。」




と、半ば手のつけられない子供の、苦労話をするように語った。




「まあ。じゃあ叔父に相談しますわ。

安くて日当たりのよい家が山のほうにあったはず・・・。」

「確かに養生が必要かもしれませんね。この皮膚の色ときたら。」

そういって、青白い女の肌を見つめるミディの横から、




ざわざわと人々が入ってきた。

子供たちは眠たそうにして、少し年上の青年と少女たちの手を握っている。




「子供たちを寝かしつけて頂戴。

あとこの人を抱いて馬車に乗せてくれる男はいないの?

あ、リード。あなたでいいわ。ほらこっちきて。」

「俺?」

と青年の一人がしぶしぶ近寄り、

照れくさそうに隣のフェイティシアに帽子をとって礼をした。

「できれば起こさないようにおねがいします。」


とフェイティシアは囁いた。



「へえ。起こしたらまた大変なことになりまさ。」


とリードは肩をすくめて見せ、その様子にフェイティシアは微笑んだ。


「私もあの方と一緒に、お屋敷へ帰ります。


叔父に相談すれば、少しは・・・。」

「ええ〜、フェイティシアさま帰っちゃうの〜?」



と、群がる子供たちは口々に叫んだ。

ミディが「これ!」と叱りつける。

「あんたたちは畑祭りには出れないのよ?

まだ子供なんだから!」




すると、ミディに対する抗議の声が子供たちの口から溢れた。

「もう大人だもん。」「フェイティシアさまと一緒がいい。」

「フェイティシアさまおうちに来てえ。」

「いっしょに眠ろ。」「そうしようそうしよう。」



しかし、彼らの提案は別な抗議の声によって消されてしまった。

部屋の戸口から覗いている若い耕作人達である。


「フェ、フェイティシアさまも、ぜひ畑祭りに起こしくだせえ。

今まで色々領主様に取り次いでいただいて、

農地も豊かでいられましたし、いろんな設備も整いました。

他の農地も結構な収穫ができたと聞いとりますが、

うちはその中でも一番だって誇れまさ。

ぜひ、いっしょに楽しんでもらいてえ。」




耕作人たちはそれぞれ、男女ともどもいつになく饒舌になり、

改めて収穫を喜び合っていることを、フェイティシアに伝えた。



勿論、耕作人達の間でフェイティシアという存在は、

かなり特別な位置を占めていることは言うまでもない。

美しい以上に、耕作人たちへの収入などについて、

うまく計らっているのは彼女だった。




そこには、彼女の叔父であるロイドが、

耕作地に関してかなり領主の補佐をしてきたことが関係しているし、

勿論、領主エルゼリオの若い乳母であるという、

領主への影響力もある。



素晴らしく収穫できたものがあれば、

領主へ直接それを渡し、商品として流通させる許可も取れる。

エルゼリオの領地では、農地でとれた生産物の加工は、

領地直属の工場が存在し、半ば公の機関として商売を行っている。

酒などに加工するための人手を、うまく募ったりすることも、

フェイティシアが時たま行う仕事だった。



そういったことから、耕作人たちには

ある種の尊敬と憧れに満ちた存在であることは、否めない。



どこか手の届きそうな場所に存在していながら、

決して届かず、ただ見ているだけでも幸せになれる。



そんな不可思議な存在でもある。



「とにかく、フェイティシア様にも楽しんでいただきてえんでさ。」

「そうだそうだ。」

すると、意地悪そうに耕作人の女たちが

「男どもはフェイティシアさまと、もっと踊りたいんだって。

切ない望みですわ。私たちがいっしょに踊っちまうから、

そんな時間やるつもりはないよ。べえ〜。」

と一声あげた。

「お、お前ら。俺たちのはかねえ希望を〜!!」

と男たちが騒ぎ出し、

きゃーきゃーと叫びあい、笑いあう様子を、

フェイティシアは少し顔を赤らめて、微笑みながら見ていた。



答えを、決めかねていた。




領主であるエルゼリオを、屋敷へ送らねばならない。

またこちらにいる時間が増えると、そのぶん

召使いとしての屋敷での仕事がおろそかになる。

とはいっても、召使いの仕事というのは、

エルゼリオのそばにいて、こまごましたことを

片付けていく仕事である。




エルゼリオがすべて決めることにもなる。





フェイティシアは、少し考えてエルゼリオを視界の中から探した。

部屋にはいない。

すると、戸口の外から「わっ」と歓声がした。

誰かが揉めているようだと、フェイティシアが気づいたとき

少し不安になった。




「金髪とゴーディが揉めてる!」




と、耕作人の一人が息せき切って走ってきたのを聞いて、

フェイティシアは不安な面持ちで駆け出した。





耕作人たちは、突然見せたフェイティシアの表情に

不思議な疑問を感じながら、

彼女の後を追うことにした。











男の嫉妬は罪深い。





エルゼリオはダンスの途中に、

突然男から不意打ちのこぶしを顔に一発くらい、

軽く頬を撫でた。





唇が衝撃で切れて、血が滲む。

暴力的な衝動。突然に降りかかる誰かからの攻撃。

不意をつかれても、脅えないのは、

彼が何度もそういったことを繰り返し、

体験してきたからでもある。


むしろ、『来て見ろ』と挑発的になる感情を、

抑えるのに苦労した。

高ぶる感情と躍動。

酷く久しぶりだ。




そばで、寒い日の小鳥のように震える女性は、

先ほどまでエルゼリオが踊っていた相手である。

踊りがとても軽やかで、踊りやすかった。




だから少し踊りすぎたのかもしれない。


最初は強引に誘い、彼女はエルゼリオの誘いに乗ったが、

たまたまそのとき席をはずしていて、

フロアに戻ってきた彼女の婚約者の怒りをかったらしかった。






フェイティシアがフロアからいなくなったから、

少しむしゃくしゃしていた。





「お前、この辺の男じゃないな?」

と、女性の婚約者は彼女の肩をつかんで、エルゼリオから引き離した。


「ゴーディ。やめて、少し踊っただけよ。」

「いや、フリィ。コイツはなんだか隠してやがる。

密入国者かもしれないぜ。」






隠していることを当てるとは、ご名答だ。





エルゼリオは、「そうかもな」といった風な

ちょっとおどけた顔をしてみせる。

「すまなかった。つい楽しくてね。」


と一言謝罪を加えた。





しかし「待てよ。」と声がし、

血気盛んな男、ゴーディはさらにこぶしを握り締める。




第二の殴り込みをかけた。





婚約者であるフリィは叫び声をあげ、

その場は騒然となる。


耕作人たちはゴーディを止めようと、間合いをはかりはじめた。



しかし、殴り込みをかけられたエルゼリオは、

ひらりとよける。

踊りのステップを軽く踏むように、

綺麗な無駄のない動きで、襲い掛かる男をよけた。

それがさらに、酒を煽っていきり立ったゴーディに

油を注いだ。




「おい!俺は領地直属の軍にも属してる。


お前がどこの輩かは知らないが、堂々と勝負しやがれ!」


「その軍は俺の指揮下にあるんだがなあ」


とエルゼリオは思いながら、身分を明かす気は全くない。


現在は停戦してもっぱら平和な国と自分の領地では、

軍隊の上層部を占めている山岳民たち以外は、

領地のさまざまな民を軍人として「登録」する形をとっている。




他の領地では見られない

サハシュ信仰にある武術の浸透が、彼の領地にはあるが、

それでも、人々が仕事の合間も戦術を意識するかというと、

怠けているものもあれば、盛んに極めようとするものもあり、

個人差はさまざまである。


ゴーディはどちらかといえば、武術に長けてはいそうである。

酒を飲むと戦闘的になるのは、軍人としては戦力になるかもしれない。



しかし、力の配分と冷静さに欠ける時点で、

戦場では無駄死にするタイプだと、エルゼリオは思った。



攻撃はなかなかのものだが・・・。




「兄ちゃん、やめとけ!ゴーディは酒が入ると手がつけられん!!」



老いた商売人の一人が、エルゼリオに声をかける。

ゴードン・ベラスケスが本名であるゴーディは、

鉱山での鉱石発掘を営む山の民の出から単身、

商売人に一転し、現在ではその実力も買われた

かなりのやり手である。






ごつくて太い腕と、頑丈なあごは、鉱山人特有の意志の強さ、

未開地を切り開くための血を

受け継いでいるようでもある。

力技で、取り次いだ商売もあるだろうと、

軽く推測できた。




「酒が入ると暴力を振るうとは、婚約者は泣かされるかもな」

とエルゼリオはふと思い、あまりいい気分ではなくなった。

最近、仕事中に酒を飲んだ庭師の起こした失態を、

思い出したからでもある。


ともかくこの事態は、早めに終わらせるべきだろう。






そう踏んだエルゼリオは、次の瞬間、

襲い掛かるゴーディのみぞおちに、

難なく一発食らわしていた。




倒れる巨体と、婚約者の金切り声。

「わっ」と歓声があがり、

つい祭りの雰囲気で血気盛んになっている耕作人の男たちは、

大いにその勝負を見て高ぶった。




「謝り方が悪かったみたいだな。」



と一言つぶやいたとき、視界に麗しい美女が飛び込んできた。





「・・・・!」



「フェイティシア。」





駆け寄るそのひとは、エルゼリオの唇のはしから

滲んでいる血と、かすかに腫れた頬に、


やわらかな手を当てた。




周りからは別な種類のどよめきがある。



麗人が二人になると、一種の崇高な空気が生まれるのだろうか。


息を呑む空気が伝わってきた。

そして、この美しい女性であるフェイティシアの、

金髪の麗人への無防備な気遣いようは、

いつもフェイティシアを見ている耕作人たちには、

少し違和感があった。






つい、見とれてしまいそうな様子である。



耕作人達にはやんわりと、

理知的でひかえめな行動をとる印象のフェイティシアは、

彼の前では酷く積極的で、惜しみない愛情が見える。

その不安そうな横顔は、胸が苦しくなるほど切ない。

視線は、彼女の目の前の男にすべて注がれ、

男もそれを酷く望んでいたように、優しく微笑んでいる。



それだけなのに、妙に官能的だった。



ハンカチをポケットから取り出し、


エルゼリオの唇の端を拭いたフェイティシアは、

酷く動揺していた。


不祥事。自分がついていながら、である。




足が、手が小刻みに震えた。




彼女の思いは、子供を心配する親と同様のものだったが、

それ以上に何か心騒ぐものがあった。






「大丈夫だよ。フェイティシア。」




と制するエルゼリオは、その行動の真意を見抜けないでいる。

いつも、怪我をすれば介抱した子供の頃のように、

同じ行動をとるフェイティシアには、

自分を別な思惑から介抱している可能性があるか、

わからなかった。





領主でなく、子供でなく、

意識している一人の存在として。



ただ、願ってはいた。






「フェイティシア様。その方は一体、どなたなんでさあ。」




と、好奇心旺盛な耕作人の一人が問いかけ、

突然の言葉に驚いたフェイティシアは、

我に返ったように体を震わせた。




頭が混乱していた。



「・・・あの、この方は・・・え・・・。」

「い?」

「・・・あの、いとこ、です。」




真っ赤な顔をしたフェイティシアの唐突な言葉に、

思わず噴出したエルゼリオの声は、

周りの耕作人たちの「おお〜」という歓声によってかき消された。




彼女の表情は、どうしていいかわからないと

不安めいたものがあからさまに見える。

エルゼリオは笑いをこらえながら、

隣の彼女の様子を細かく観察していた。




両手を握って、腕の筋肉をぴんと緊張させている。




かすかにうつむいた彼女の、

かわいらしい耳が赤い。

少しだけ、頭を傾けて、

それから、エルゼリオのほうへ振り向いた。




動揺して脅えながら、

同時に顔を赤らめて恥ずかしそうな視線を送る。


「・・・いいですか?」


と暗黙の了解を取るために、

ほんのり甘えているような上目遣いが、

酷く可愛らしい。




金があれば全部彼女のために使ってしまいたくなるような、

何でも願いを聞いてやりたくなるような、

そんなしぐさである。




エルゼリオは人目も気にせず、

抱きしめたい衝動に駆られたが、

手を軽く彼女の白くて柔らかな頬に触れさせることで、

了解した意を表した。

ちょっと困った笑みのエルゼリオを見て、

フェイティシアは再びどうしようもない自己嫌悪に陥る。




一方、エルゼリオを領主だとは言えない、

フェイティシアの、苦肉の策を、

エルゼリオ自身は面白く思った。




乗ってみたところで、悪い影響はない。



茶目っ気たっぷりに、いたずらっぽそうな笑みで

エルゼリオはそのあとの補足をした。


「そうなんです。フェイティシアとは、いとこでして、

エリオットといいます。密入国と疑われると困りますが、

最近までディム・レイにいたもので。」




「ディム・レイ!!」



と再び歓声があがり、強いのは戦場帰りだからだとか、

さまざまな憶測が聞こえてきた。

フェイティシアは自分でまいた種が、

妙な方向に発展しているのをおろおろと聞き、

エルゼリオを見つめたが、

いたずらっぽそうな笑みは消えていない。

彼はそっとフェイティシアの両手を握り、

そして放した。




まだ気絶しているゴーディと、そばにいる婚約者のかたわらに

ひざを突いて改めて謝罪する。



そして、フェイティシアのいとことして

耕作人達の歓迎をうけた彼は、

戦場の話を聞きたがる、血気盛んな男たちとともに

畑祭りへと向かうこととなった。



勿論、召使いであるフェイティシアが

屋敷に帰るのが伸びたのも、このためであった。










「戦場はとても寒くてね。こちらは温かくていい。」




畑のど真ん中に、煌々と燃える炎を見つめながら、

小さな炎を囲んで男たちの一部は、

エルゼリオの話を聞いている。




馬車に乗って耕作地に着いたときには、

もう夜の闇があたりに蒼い空気を運んでいた。

ゆったりと引かれた馬車に、

松明を持った耕作人達が列をつくり歩き、

耕作人たちの畑祭りが始まる。





しかし、祭りはいたってばらばらとしていて、

踊るものもあれば、話し合うもの、

歌うものと、さまざまに分かれる。

そこに明確な区分は見られない。



耕作人の区域は森によって区切られているが、

それぞれ異なった祭りが存在しており、

いたってこの区域の風習は大雑把らしい。




ロイドやフェイティシアの血筋の系譜からいく、

サハシュ信仰となると、もっと大掛かりな儀式となる。

だが、周りの区域の人々の耕作の祭りについて、

サハシュ信仰を貫く者達が、一言口を挟むようなことはない。


むしろ流れるに任せ、必要なときに助言を行う隠者的な存在として、

サハシュの山岳民たちは存在しているのであった。






そんなサハシュの血を引いている

フェイティシアは食物を運ぶのを手伝っている。

が、踊りに誘われて群舞の中に紛れ込んだ。

顔を赤らめながら、麗しくひらひらと舞う。



体を動かしていると、いつもそばにあるものを


忘れられる気がした。

それは召使いという事以外に、彼女がいつも身近に感じているもの、

圧倒的に恐ろしく奥の深いもの、

服従せずにはいられないものだった。



しかし、忘れてはならないと、反発する心もある。



そこに、身をすくませる恐怖があった。




「どうかされましたか?」




群舞の中でフェイティシアと共に踊っていた男が、

彼女の微妙な表情を感じ取った。

フェイティシアはあわてて、「火が・・・」とだけつぶやいた。

何かを思い出しそうな、遠い記憶を思い出しそうな予感があった。


けれども・・・。






「いいえ。いつも不思議な気分がするのです。


火のそばにいて、周りに人がいると・・・。」

「祭りはいつも不思議な気分がするものです。

俺だってそうですよ。」

「ええ。」




フェイティシアに笑顔がもどると、男はぼおっとして、

誘われるように近づいていく。

が、群舞のステップはそれを拒むかのように

隣の者へと相手を移り変わらせた。

耕作人たちはそれぞれ、フェイティシアとは

皆顔見知りばかりであるため、

あまり悪い感じは受けない。




もし、踊り相手がギクシャクした関係であっても、

この群舞によってその関係を解消できることもあり、

やはり彼らにとって、この祭りは、

互いの関係を修復するために必要不可欠なものであるといえた。




「で?フェイティシア様とはどんな関係なんだ?」

と、エルゼリオは聞かれて、少し考えた。

こういう嘘をつくのは楽しいが、めったなこともいえない。


「どうって、別にどうも。耕作地での彼女に関しては、

そっちのほうがよく知っているだろう。」


「そりゃ、フェイティシア様は色々よくしてくれる。

けど、まあ普段はどうしているのか、とか、

そういうことは??」




「普段?召使いとして?」

「そうそう。そういうところは見てないのか。

あんな美人のいとこでも。」

「・・・まあ、俺もこっちに来たてだからな。

興味はあるが、領主のそばに仕えている身だろ?

フェイティシアは。」



すると、青年たちは「おー」っとどよめきたつ。


どうやら「フェイティシア」と呼び捨てにする彼の立場を

羨ましがっているようだった。



「俺も、フェイティシア・・・って呼び捨てにしてみてえ。

んでもって「はい」とかって、返事でもされてみろ。

俺はもう一生ほかの女なんざ・・・。」


と口走る男に、群舞から抜け出した耕作人の少女がひとり走りよってくる。

「ねえ・・・踊らない?」



と声をかけられ、男は驚いた表情をすると、

照れくさそうに話し合いの集団から、抜け出していく。


去っていく後姿に、集団は

「ほかの女なんざ?って誰が言ってたっけ?」

とわざと囃したて、

男は驚いて後ろを振り返ると、手を引いてくれる少女に見えないように

口元に指をあてて「黙れ」と合図をし、苦笑いをする。




エルゼリオはその集団の中から、群舞の中に

彼女がいることに気づく。


そばでは耕作人の青年が、「領主ってのはいいよなあ。あんな美人の召使い」

と酔っ払った寝言のように、うっとりつぶやいていた。




だが、エルゼリオはそうは思わない。




まるで、今ここから耕作人たちが眺めているような距離を、


彼女がそばに仕えて仕事をしているときでも、

感じることはあるのだ。




舞い踊るフェイティシアは、

麗しい女神が、果てしない祈りを捧げているような、

そんな風情がある。





さしずめ今酒を飲み、会談をしている

耕作人たちの場所から彼女までの位置は、

地上に降りてきた天界の女神の踊りを、

陰から見守る地上の男のようである。




甘美な陶酔の内にある、ほろ苦い悲しみ。




ふと、彼には思い出される光景があった。












フェイティシアがダンスを覚え始める頃、

エルゼリオはあまりダンスに興味がなかった。

ダンスがどういうものかを、

時々領地に帰ってくる両親が開くパーティーで、

見かけてはいた。

だが、何が面白いのか、楽しいのかわからなかった。



その日、確か昼のよく晴れた高い秋の空が、

窓から綺麗に見えた日、

ロイドがやってきて色々ともう一人の乳母に、

エルゼリオの予定を話す傍ら、

洗い物を運び終えたフェイティシアに言った言葉が、

「ダンスの練習を欠かさないように。」

だった。


エルゼリオは、フェイティシアがロイドの言葉を

聞き終えるか終えないかの一瞬に、

助走を精一杯してベッドに飛び込んで見せた。



ドスンと派手な音。



乳母とフェイティシアは驚き、

「まあ!おやめください、エルゼリオ様。」

と止める乳母に構わず、ベッドの上でジャンプを繰り返して見せた。




その間、「ダンスの練習ってなんだろう」

と考えていた。




無言のフェイティシアは、ロイドが去った後、

機械のように単調な仕事をこなしていた。

部屋の掃除、片付けをし、時々乳母から意味のない注意をうけ、

窓を開け換気をし、「寒い」とエルゼリオは不満を言う。



フェイティシアは困ったように微笑んで、

「ここは少し温かいですよ。」

と窓のそばの、フェイティシアがいるほうへ、

エルゼリオを誘った。




もう一人の乳母は、違う用事で部屋にはいなかった。



「ほんと?」

と問わずに、素直に窓のそばへ行くと、

昼の光がとても心地よい。

「ね?」とフェイティシアが声をかけて微笑むのを、

エルゼリオは注意深く見つめた。



まだ女性というには到底及ばない幼さがあった。

子供のエルゼリオですら、彼女を困らせられる


優しさが持つ弱さのような雰囲気をかもし出しているのも、

フェイティシア特有のものだ。

もう一人の乳母が、どっしりと構えている反面、

彼女の繊細な壊れやすさは余計に傍目からも強調されていた。


突然消えてしまっても、「在り得る」と容認できそうなほどである。



しかし強いて彼女が消えてしまうと思えないのは、

若さゆえの活動的な行動にあるのだろう。

いつも、絶えず動いている。





エルゼリオは今にして思えばそんな風に、

記憶を振り返れるが、当時にしてみれば、

フェイティシアという存在を、とにかく不思議に感じていた。




それは、当時召使い達が皆、口々に言っていたように、


「何故その若さで、フェイティシアが乳母なのか?」


ということであった。




皆が不思議に思っていれば、


エルゼリオもまた不思議に思っていたのである。




けれども、それで他の召使いたちが、

フェイティシアに悪態や恨みを述べることと同じく、

エルゼリオが悪態や恨みを述べることはなかった。





当時の幼いエルゼリオも判っていたが、

つまり「乳母」という位置に憧れるということは、

幼いが領主に近い、高い地位を持つエルゼリオにとっては、

全く関係のないことだったからである。

せいぜい、この可愛らしい幼い乳母を

いじめて遊ぶことで使う悪態くらいだった。



フェイティシアを乳母にすると決定したのは、

エルゼリオの両親であり、

ロイドという執事の地位もあったための決定だったのだろうと、

召使いたちは自分たちを納得させていた。





エルゼリオは別な意味では納得していた。

つまり、こんなに綺麗な人間というのも、

珍しいということが判っていた。

そばにいると、よくわかる。




昼の高い日の光で、ふんわりと白い肌がさらに綺麗に滲む。

長めの茶色い髪が、薄く透けて上等な蜜のように輝いている。

時々黄金色に輝く瞳は、光を受けているときにでないと

見えないものだ。


よく大人たちは、彼女の特別な美しさを、

たとえようの無いもどかしい言葉で持て余している。

幼いエルゼリオもまた、

言いようの無い不思議な感覚を覚えた。



とりあえず、聞きたいことをにこやかに聞いてみる。




「フェイティシア、ダンスの練習ってなに?」




エルゼリオは好奇心に逆らわず、素直に尋ねた。

するとちょっと微笑んで、彼女は、

「こっそり練習しなさい、ということです。」


と答えた。


「誰かと踊るときのために。」



「誰かって、だれ?」

とエルゼリオは不安になって尋ねた。


「練習のときも誰かと踊るの?」




「今は・・・相手がいないのです。

ときどき、叔父様が見せてはくれるけれど・・・。」



それから、もっと話したいと思っている最中に、

乳母が現れてフェイティシアを追っ払った。

エルゼリオは、フェイティシアがいつダンスの練習をしているのか、

酷く気になってしょうがなかった。




結局、昼間仕事をしている間に、

彼女が練習をする時間は到底なく、

エルゼリオが眠りにつくころに、

彼女だけがどこかで練習しているのだ、

という結論が幼心に浮かんできた。



彼女の部屋でやっているのかもしれない。




それとも・・・?





エルゼリオは夜、館の中を歩いてみようと思い立った。





何回か、好奇心に任せて、

夜の屋敷を歩いたことがある。

ちょっとした肝試し。

広い屋敷は、高い天井と、

昼間は黙っていそうな石像や絵画が、

夜には話し出しそうな気がする。



それでも、彼は別段身を震わせて逃げようとは思わない。




恐いという以前に、その雰囲気を楽しんでいる。



蝋燭を持つと、姿が判ってしまいそうなので、

何も持たないで、部屋を出た。

靴で音を立てないよう注意する。




鏡面のように磨かれた床に、月の光が窓から差し込んでいる

誰もいない幻想的な廊下を通り、

もしかしてフェイティシアがいるかもしれない、

ダンスフロアに下りた。

領地でパーティが開かれるときには、

ダンスが行われる場所が決まっている。




重い扉は開いていた。



中で踊っていたのは、フェイティシアだった。





月の光は、窓を多用したその広い部屋に、

惜しみなく降り注いでいる。

すべてが蒼白い別世界にいるような気分がし、

一人でつたないステップを、うつむきながら、

けれど楽しそうに確認して、

フェイティシアはダンスを始める。




相手はいないけれど、いるようにも見えた。



エルゼリオは、それを見ているのが少し辛かった。




早々に、声もかけずに部屋へ走って戻った。



フェイティシアと踊れるだけの体も、年も、

エルゼリオには無い。

それが悔しくて、ただ、ベッドの毛布の中で

誰か大人の男が一人で踊っているフェイティシアを見つけて、

声をかけて相手にならないことを願った。




朝になったら、「ダンスをする」と言おう。

そして、ダンスの時間を作って、

そのときにフェイティシアが一緒に練習できるように。

決して、夜一人で躍らせることがないように。












それが、今ではもう彼女は、誰でも踊る相手を

変えることができるのだ。



そんな風に、エルゼリオは炎の周りで踊る、

群舞の中のフェイティシアを見て思った。




勿論、領主である彼と召使いの彼女が

共に踊れる場所の保証は今のところ皆無である。



エルゼリオは、少しばかり強い酒をあおると、

静かに燃えるような瞳を、カップの中に残る酒に映してみせた。

















フェイティシアが少し汗を滲ませながら、

楽しそうに横倒しになった、

人が坐るためにある丸太のほうへ近づくと、

もう月が随分位置を変えていた。





時がたつのは時々、一瞬きらめく光のようだ。





まぶたに、強烈に残っているようで、

淡く溶けていきそうな楽しかった思い出。




しかしもう、帰らねばならない。





フェイティシアはエルゼリオを探したが、

探すまもなく彼はそばに歩いてきた。


「いそがなくてもいいよ。」

とエルゼリオは声をかける。

「でも。」

「さっき、あの赤いドレスの彼女をロイドのところへ送り届けるとき、

手紙を渡したんだ。ロイドには遅くなると伝わっているはずだから。」




「・・・わたしは、もう。」

とフェイティシアは切り出すと、

「じゃあ俺も帰る。」

と言った彼は、ちゃっかり馬を一頭借りていた。

そういう仕事も、本来フェイティシアがするはずだが、

なんだかちぐはぐになっている。




さて帰ろうかというときになって、

例の男とその婚約者に会った。




ゴーディと名乗るその男は、内心不満そうだったが、

ぶっきらぼうに謝罪した。


「あの一発は、今まで受けてきた中でも、

かなりのやつだった。まあ、一番ってほどじゃねえけどな。」

「それはどうも。俺もあんたみたいなゴツい男に渡り合えて

光栄だよ。」



婚約者とフェイティシアは多少はらはらしていたが、

特に危険はないと見ると、少しだけほっとして

顔を見合わせて困った風に笑った。



「・・・とても、いい人なんです。正義感が強くて、

でも、さびしくて。

曲がったことも時々やりますけど、私がそばにいて、

二人で一緒に生きて行けたら・・・って。」



婚約者フリィは、少し顔を赤らめて、細くて小さい体に、

少しばかりの自信をもって、

フェイティシアに語りかけた。



「お幸せになってください。」

「ええ。貴女は・・・あの方と?」




突然の問いに、フェイティシアは硬直した。

何故だか、涙が滲みそうだった。




「・・・いいえ。でも、幸せを願っています。」

フリィはどうしたのかしら、とフェイティシアの様子を眺め、

フェイティシアは早々に、儚い笑顔のままその場を後にした。



「あんたの綺麗ないとこが帰ろうとしてるぜ。

送ってやれよ。」

「あんたみたいな女の前で暴力を振るう男も、

そういうことを気にするんだな。」




エルゼリオがゴーディにそうふると、

心外そうな表情で彼は、

「俺は女の前で暴力はするが、女を寂しがらせたり、

女に手を上げることはしねえよ。

何だ。やっぱりこの顔のせいか?」

「顔のせいらしい。」

「因果だぜ。酒でも飲んで紛らわすさ。」

とゴツイ体をゆすり、豪快な笑みを浮かべた。




そんな彼に寄り添うように近づき、


腕に絡みつくフリィを眺めると、

「あんたらが羨ましいよ。」

と小さくつぶやいて、その場を後にした。





畑から少し上った所にある農道へ上ると、

耕作人たちが、少し遠くなった場所から手を振っている。



「ほら、馬に乗って。」

とエルゼリオが手を振りながら、一方フェイティシアに呼びかけた。

本来は、召使いが領主の馬を引くのである。

が、

「フェイティシアは、今は俺のいとこだから。はやく!」

と小声で呼びかけるので、フェイティシアはあわてて馬の腰に座り、

エルゼリオが手綱をにぎり、馬を引く形になった。




夜道を、馬を引いて歩く。




そういうのも悪くない。

エルゼリオは少し笑みを浮かべながら、

楽しく夜風の冷たさを味わった。




髪をすり抜けていく風は、思いのほか冷たくて、

けれど心地いい。




「もう、変わります。」


とフェイティシアが手綱を握りしめると、

「エプロンをつけてからのほうがいいよ。」

とフェイティシアに置き忘れたそれを差し出した。




「私、それ・・・。」

「忘れてたよ。」

「ありがとうございます。

・・・待っててください。すぐに・・・。」



彼女はエプロンをエルゼリオの手からとると、

身に着け始める。

エルゼリオはその隙に、ちゃっかり馬の背をまたいで

彼女の後ろに席を取った。


両手で打綱を握ると、フェイティシアは動けない。

頭も顔も、本当にちょっと動かせば

エルゼリオに触れてしまう。

着替えられずに、少し呆然とした。




面白そうにエルゼリオは、彼女の額に、

近い位置にある自分の唇を軽く触れさせる。



「いいよ。着替えなくて。」

「・・・。」



額からまぶたを通って、耳の辺りに触れ、軽く噛んだ。



びくりと彼女の体が震えるのを楽しんで、

エルゼリオは馬が歩かせるのに任せた。

フェイティシアは逃げる隙も無く、

顔を背けて前を向いても、さらけ出された首筋に

這うエルゼリオの唇に、されるがままで

捕らえられたままでいる。




彼の手綱を握った手と両腕のために、

彼女は抱かれた形になり、

無言で静かな愛撫は、しばらく終わりそうに無かった。




「・・・馬の上で、もっと色々できたらなあ・・・。」



と妙なことを言い始めたエルゼリオは、酷く楽しそうである。

対するフェイティシアは、顔を真っ赤に染めている。




「そんなことしなくても大丈夫です!」

「そう?俺は全然大丈夫じゃないんだけど?」

「ふつうにしてれば、大丈夫なはずです。」



「普通じゃないよ。」




エルゼリオは真面目に囁いた。



「フェイティシアの前で、普通になれるわけ無い。」




その言葉がかなり切実な音を帯びていたので、

フェイティシアは困惑した表情でエルゼリオを見つめた。




瞳と瞳が合うと、その瞬間から何らかの意志が通じ合うのを感じた。

心地よい。

「・・・だいじょうぶです。私は誰かを狂わせることができるような、

そんな人間ではないですから。」



これほど無自覚な人間も珍しいと、エルゼリオは思う。

目の前の優しい笑顔で、どれだけの人間が一瞬で陶酔するのか、

勿論エルゼリオも例外ではない。





一方エルゼリオもまた、誰かを狂わせることができる存在であると、

フェイティシアは信じて疑わない。

幼い頃から見てきても、やはり麗しく輝く

繊細な黄金の髪だとか、

顔の造形にも、何かきらめくような感覚をもたらす存在だった。

仕えていて、とても誇り高かった。




それは今でも変わらず、またそれ以上にもなっている。

昔からは到底、考えられないほどがっしりとした体格は、

不思議な香気を放っている。





互いに陶酔しあう距離で、エルゼリオは

唇を、彼女のそれに触れさせようと

無意識に顔を傾けた。

けれど、その瞬間にフェイティシアは顔を背けてしまう。

いつも、そのあと少しのところで働く、

彼女の冴え冴えとした感覚を、

彼は握りつぶしてしまいたいと思わずにはいられない。





「おかしくしてるのは、フェイティシアだよ。」





と、むすっとして彼は横を向くと、

再び困った表情で、フェイティシアは顔を赤らめた。

「だいたい、今俺はエリオットでフェイティシアのいとこなんだから。」


と子供じみた言い訳をしてみせると、

彼女はおもわず笑い声をもらした。





「だから…好きなようにする。」






そういって手綱を持った両手で、彼女を抱きしめると、

困惑しながらフェイティシアは、

静かに瞳を閉じるしかなかった。




夜の細い道を、馬にのって二人は、

互いの体温をそばで感じながら

ゆっくりとした時の流れの中に進む。





屋敷に着いたときには、

もう夜空に高い月が上っている頃だった。






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