「荒野より」






目覚めたとき、彼は、
左頬に圧迫感を感じていた。
左目でさらに左を見ると、
かつて目にしていた土の色が、濃い石灰色へと変化している。


戦場の土は、腐敗している。


それは、多くの人間の血を吸い、肉を崩し
ているためであった。

どす黒く、それでいて虫が多く生息する
栄養に富んだ土。
農民がもろ手を挙げて喜びそうな土である。

しかし、それは兵達の絶え間ない行き交いと戦闘の合間に
次第に踏み固められていく。
その場所は荒涼とした、がさがさした硬い風が流れているはずだった。


だが、どう見てもこの場所は土ではなく、石だたみだった。




・・・どこだろうか、ここは。


と彼は眉をひそめた。
仰向けになって打ち捨てられている。
特に左頬にあたるひんやりとした感触が、
横たわっている場所が石でできた床ではないかという
推測を確実なものにしていた。

明らかに人工的な場所だ。少なくとも外ではない。

首が動かせずに、右目で天井を見た。
空ではなく、やはり石でできている。
室内だ。
しかも、石の質からして、あからさまに異国。
ディム・レイのものだと解った。

だから空気も淀んでいるし、かすかに腐敗臭さえする。
いや、もしかしたら、
腐敗臭は自分から漂っているのかもしれない。


男はおぼろげながら、そう思いついた。
しかし、意識はある。


右胸あたりから脇の下が酷く熱い。
体を動かそうとすると、衝撃的な頭痛に悩まされ、
体全身の筋肉が硬直して、汗が噴出した。

・・・嫌な汗だ。体がすぐに冷えてしまう。

エルゼリオはため息も出せない自分の状態に、心の底でぼんやりと
なんなんだろうか、と思った。

それは、例えば何故生きているのか、
何故動いているのか、
何故人は人として存在して、
そしてどこに向かうのか、

といったような類のことを想像する行為に似ていた。
およそ答えの見つからない問い、
というようなものだ。


次に思い出したのは、指輪はあるか?ということだった。
フェイティシアから預かった金の指輪。
一瞬無くしたか?
と思ったそれは、なかなか動かせない
親指で薬指をなぞると見つかった。


指にはめて体温を通したその指輪は、
すでに彼にとっては体の一部だった。


近すぎて、あるかどうかを問う存在ではなくなっている。


「ふふ・・・」
と笑い声をもらして、同時に激痛に耐えたエルゼリオは
頭が痛くなるほど歯をくいしばった。

そして、息を思いっきりすうと、
しばらく沈黙してから、
突然起き上がった。

一瞬のめまい。

頭が真っ白になる前に飛び交う、
妙な光が一挙に目の前に飛び込んできた。

想像通りに強烈な激痛。

どこにいるのかわからなくする力、というものがあるのなら、
まさしくこれだ。


「バカだねえ〜若いねえ〜」


とかすかに低音の、調子のよさそうな声がして、
エルゼリオは一瞬幻聴か?と疑った。

この場所がどこだかわからないが、
少なくとも清潔な場所ではないし、
腐敗臭から察するに、おそらく死体があるような場所だ。

死体安置所かもしれない。

そんな場所に誰かがいても、それはそれでおかしくはないが、

しかし・・・

今疑うべきは、自分の脳である。この痛みの前では、まともじゃなくなりそうだ。

「まともじゃないねえ。何をやっているのか、自分でも解ってないでしょ、君。」

「・・・わかってる。」
と、無意識につぶやいている。
本当は、あまりわかってなどいない。


ただ、ここにいる、という意識だけだ。


「あ〜あ〜、つまり体を動かせるかどうか試した、ってことね?バカだねえ〜
私が縫った傷口を開いちゃって、まあ。あ〜あ〜。」

すると、ぬっと黒い影が視界に入ってきた。

白髪の男だった。

全く気を使っていないばさばさの髪は、
疲労か変人か、およそどちらかを想像させるに足りる。
それをひっつめて後ろで縛っているため額は広い。

まだ、三十代後半あたりの、かすかに目の下に
渋みを帯びた皺が浮かんできそうな皮膚は、思いのほか白い。
目の下はクマができているが、
瞳はぎらぎらと光を反射させて、神経質な細い目を歪めて
笑みを見せる。

とたん、激痛が胸の辺りを痺れさせた。
このよくわからない男が傷口の糸を、きつく引っ張ったらしかった。

大雑把過ぎる治療である。

「これでよし。
さて、君みたいな若くてきれーな子が
この場所に来るのは珍しい。


ちなみに君、もしかしたら死ぬかもしれない。
今は意識があるけど、男爵が少し手違いをしたらしくてね。
酷く傷つけてしまったんだよ、君を。

有望だからとか、将来使えると思ったんだろうが、
あ、それはつまり君を家来にしようとかじゃなくてね、
男爵が殺すためのおもちゃのことなんだけどね。
ダメかもしれないねえ〜。
君、ちょっと可笑しいからね。」

「・・・おかしい?」

エルゼリオは痛みをこらえて、うつろな意識のまま尋ねた。
喉がからからで、息を吸うとヒュウヒュウ音を出している。
エルゼリオの様子を見てか、
医者らしき変人は、くすくす笑って立ち上がったようだった。

「なんで生きてるんだかねえ。ちょっとわからないねえ。
少なくとも私は、死人に戯れのつもりで、肉を繋いだだけなんだよ。

君は私の意識の中では死ぬはずな肉として認識されていたのに、
君、予想を裏切ってる。

可笑しいねえ。

こういうのがときたまいるから、
私は自分が天才なんじゃないかと思わずにはいられないし、
逆に君が天才なのかもしれないとも思う。

私の中にはおおよそ、「治さなきゃ」なんて意識はなくて
ただ飯をくってそこそこ死体を弄れるっていう、
今の環境に満足しているからやってるんであって、


君、とにかく何で生きてるの?」



…それが最終結論か。前置が長すぎる。


とエルゼリオは体を前、後ろ、前と揺らしながら眉間に皺をよせて思った。

その「揺れ」はむしろ、
本当に体を揺らしているのではなくて、
自分の脳が「揺れている」と錯覚してるのではないか?とすら思われた。

今何時間経った?
今、隣の誰かが話してから何分経った?


・・・だめだ。わからない。


暗い。
何をしているんだろうか。

とても頭の中がぼんやりとしている。


医者らしき妙な人物が、どっこいしょと年の割りに老いたため息をついている間、
エルゼリオは空を見つめていた。
その場所には、青い闇しかない。
昼か夜かもわからない。



わからない。わからない。



わかっていることもあるけれど・・・。



「・・・会いたいひとがいる。」

エルゼリオはつぶやいていた。

「あいたい・・・ひとがいる。」

すると、白髪の男は頭を横に振った。

「だめだめだめ。君、裕福な生まれだろ。
あわせて貰いたい人がいるからって、
見ず知らずの他人に頼んじゃダメだよ。
その本人もそばにいないのに。

患者だからって、そういう甘えは医者には通じないよ。
私はただ肉をつなぐだけなの。
会うには自分で歩くしかないんだよ。」


しかし、しばらく考えて、忘我の表情を見せた白髪の男は、
「ま、いっか。」
といって、エルゼリオの言ったことをすべて水に流した。


「酒のつまみになりそうな話だからねえ〜。是非聞かして。」


ごとり、と陶器を石灰石でできた床に置いて、
狂人は髪を結った紐をほどき、
盛大に頭を片手で掻いた。
そのしぐさは猫か何かに似ていたが、
ばさばさになった白髪は、はたから見れば山姥といった具合である。

同じく陶器のちいさなコップについている、
かすかにもれた光で汚れがあるかだけ確認し、
自分の服でふき取ろうとしたが汚れていたため、
エルゼリオの着ている上質そうなマントの布を使った。

酒を注ぐと、エルゼリオの口にそのカップを盛大に突っ込む。

「これ飲めば、喉が渇くだろ。喉かわいて死ぬかもしれん。
痛みは和らぐかもしれない。
まあ、どっちにしろ君死んだも同然だから、
どっちだってよさげなものだねえ。
飲みたまえ。
そして話たまえ。」


エルゼリオは、乾いた唇にこぼれていく酒を感じた。
強烈に刺激的な味だ。
目は覚めはしないが、何を話そうとしていたかを忘れそうになって、
そしてまた思い出した。


いつごろか、過去の風景である。


「・・・フェイティシアが泣いたんだ。いつも・・・よく泣いていて。
・・・牛が。」

と、つたない言葉で話すエルゼリオの姿は、子供のようだった。

「牛?フェイティシアっていうのは牛なのかね?」

「・・・召使いだよ。牛は・・・病気だったんだ。」

「病気。それで?」

「・・・長い間、ずっとフェイティシアはその牛の世話だとか、
農地の世話だとか・・・をしてた。・・・牛は、凄くなついていて、
たくさん乳も出すし・・・フェイティシアはいつも・・・うれしそうにしていて・・・。







ある日、牛が病気だとかいって、俺の世話をせずに農家へ行った。
もう一人いた乳母は、もともと酷くフェイティシアを苛めるのが好きで、
愚痴をこぼしてばかりいた。


「あの娘はまったく。
そんなことでエルゼリオ様の召使いがつとまるのかしら。」


そんなことを言ってはいるが、
フェイティシアを忙しくしている元凶は、
この乳母の仕打ちだってことを、俺は知っていた。

可愛そうに、フェイティシアは忙しすぎて目が回るほど忙しくて、
いつも泣きそうになっているけど、
泣くこともそのうち忘れてしまいそうだった。


その乳母は屋敷に巣くっている大蛇みたいな存在で、
フェイティシアの叔父の執事のロイドの義理の姉だとかだった。

つまり屋敷中の人間はフェイティシアの敵とはいわないまでも、
この叔母の権力みたいなものに流されて、
あまり好意的ではなかった。


理由はわからなかったし、今もわからないけれど、
俺の領地は宗教的にとか、
地理的にもいろんな考え方をもっている奴が
沢山集まっているから、
たぶん・・・血筋がどうとか、そういったことかもしれない。



フェイティシアは忙しすぎて、
そんなことを気にしている暇もなかったけれど、
たとえば本来与えられるはずの昼食が抜きにされたり、
やったはずの仕事がいつのまにか振り出しに戻されていたり、
綺麗にしたはずの服を汚したのは、お前が原因だとか言われたり、


そういった沢山の些細なことが、
ちょっとずつ何かを狂わせていくこともあるんだ。


俺はフェイティシアの泣き顔も好きだったから、
喜んでそれを眺めていた節もあったけど、
それでも年の割りに若くていいはずの顔が青くなっていく、
フェイティシアをずっと見ていた。


・・・そういう人は、きっと多かった。
屋敷の中では。



牛は病気だった。
腹の中には子供がいて、どっちも助からないといわれて
殺そう、と農家の人はいったらしかった。



フェイティシアは拒んだ。



ひきとります。必ず引き取って、
お金はないけれど、いつか必ず払います。
今ためてあるお金を払ってもかまいません。
必ず払います。必ず払いますから。




・・・フェイティシアは泣きそうに叫んだのに、涙はでてなかった。




けれどそばで見ていた俺は、
あんな半狂乱のフェイティシアは初めてで、
驚いて立ち尽くしてた。
いつも冷静なフェイティシアだったから。
何も言わないと思っていたから。
いつまでもずっと、泣かないと思っていたから。



けれど、結局牛は殺されてしまって、勿論おなかの中の子供も死んでしまった。




フェイティシアは・・・まだあたたかいけれど、
もう肉になった牛に抱きついていた。

けれど、泣いてなかった。

目をつぶっていた。

しばらく、その毛を撫でてた。」







「・・・その牛、美味しそうだねえ。」


と、白髪の男はうっとりとつぶやいた。


エルゼリオは、ただとりとめもなく話をつづけていた。

「・・・フェイティシアは、
疲れているはずなのに牛のために何時間も穴を掘って、
牛を埋めて、穴を埋めた。
俺は・・・何もせずに見ていた。
怖かったんだ。
『あなたには関係ないことです。』
『早くお部屋へお戻りください』なんて言われることが。

ただ、そばにいて・・・そばにいたかっただけなんだ。」


「・・・そのフェイティシアは、別にそんなことは言わなかっただろう。」


「言わなかった。」


「でも、そう思っている、と思った?」


「少しだけ、思った。そのときは。」



ただ、その後の記憶が、エルゼリオにはひどくあいまいで
忘れてしまっているようだった。
けれど重要なことだった気がする。




とても、とても重大なことだった。




エルゼリオは、何か思い出せるかと思い、
ただ目をつぶってみた。
不思議と、
闇の中で微笑んでいるフェイティシアが見えた。


「それでどうなったんだ。是非聞きたい。」

「・・・どうも、ならなかったよ。
普通に、「いきましょうか。」って微笑んだだけだ。」


「・・・ふーん。」


隣では、酒をどぷどぷつぐ音がして、ぐびぐびと喉が鳴る音がした。



そして、「うーん」とうなり声がして、
腕を組んで悩むような姿勢になった白髪の男は、
眉間が歪んで痕がついてしまいそうなほど、
考え込んだ。


「よしっ!君、今からちょっと歩きたまえ。」

「は?」

エルゼリオは呆然として、二秒ほど無言になった。
「なんで起き上がったのか」と問うくせに、
次には「歩け」とのたまう。


「ほらほらほらー。歩くんだよ。
まずは立ち上がってみようか〜。そうだねえ、
イチニノサンっ!!」


と、エルゼリオの背中から両手を脇の下に差し入れ、
勢いよく上に持ち上げた。
「おっ、お・・・?」
と、エルゼリオは戸惑う。

それは別に、突然この狂気の白髪男が
妙な提案を実行に移し始めたことにではなく、
自分の足がしっかりと動く状態に無かったからだった。


空をつかむような感覚である。
足が、地を踏みしめられない。


「・・・これ。」

「そう。これはつまり、衰えたんであるよ。君の筋肉が。
結構寝てたからねえ。」

「・・・。」




ぼうぜんとした。


「ぷっ・・・」

そして、妙に面白くなってしまい、
エルゼリオは突然噴出して笑い出すと、
白髪の男もつられて笑い出した。



しばらく笑い声は、その場所に響いていた。







へつづく


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